Bonne journée, Cross Cultural

A cheap standard

201710-221

エキゾチックなリゾート写真を見て、いったい何処だろうと写真の隅に書かれた小さな文字を頼りにJag Niwasなるものをgoogle mapで探していたら、地図の真ん中にホテル価格が47306円と現れた。さすがに観光地は高いと思ったら、近くには1117円のホテル。相場がまるでわからない。地図をピンチアウトしてようやく頭の中で情報が結びついた。インド屈指の湖上ホテルではないか。きっと街中には手軽なゲストハウスもあるのだろう。バックパッカーには1117円のホテルも重要な情報である。その日どれだけ安くても居心地の良いホテルに泊まれたかで次の日の行動が変わることもあるからだ。単にコストダウンとかいうことではない。

バックパッキングよりも高級ホテルに泊まるオシャレな旅のほうが嬉しい思うようになって久しいが、たまにこんな値段の差を見たりすると身軽な旅もいいなと思うこともある。少し高いホテルになるとどうしても情報はコンシェルジュからとなる。ロビーやエレベーターで知らない同士挨拶しないわけでもないが、どことなく距離感みたいなものがあって、美味しいイタリアンの店を知りませんかとはなかなか聞きにくい。聞く相手を間違えると「あの人怪しい」なんて思われかねない。その点、小さな安ホテル(ただし真っ当な)だと、いきなり「裏のレストラン行った?安くて美味かったよ。」と聞いてもいないのに情報が入ってきたりする。星が4つもついたらなかなかこうはいかない。その上、仕方なくコンシェルジュに訊ねようものなら妙にスノッブなレストランを紹介されて高くつくことになるのは道理というものである。何しろ変なレストランでも紹介したら、紹介したホテルの品位が問われかねないではないか。

一度、フランスの小さな地方都市で少し高級なレストランの名前を口にしたら、地図を見ながらそれはもう丁寧な案内をされたことがある。旧市街を抜けると近いが道が複雑で迷うからタクシーで行けと危うく電話までされそうだった。何度か来て慣れているから大丈夫だと言って断ったが、きっとインセンティブでもあったに違いない。

当初は汚い表現のタイトルでしたが、あらためました。

201710-222

Bonne journée, Photo

A Window

201710-111

Sometimes you just have to jump out the window and grow wings on the way down.
– Ray Bradbury

時には窓から飛び出して堕ちゆく中で羽を生やすことも必要なのだ。
– レイ・ブラッドベリ

窓は外を見るためにある。
暑い風が淀む夏も冷たい嵐の夜も、快適な家の中から外見るためにある。
窓は光を取り込むためにある。
朝の温かな食卓も本を読んで過ごす雨の午後も、日々を過ごす光を得るためにある。
だから思い切って窓を開けて外に触れなければ、自分の本当の姿をいつか忘れることになる。

Windows are for seeing outside.
At a summer noontime flowing slack air,
At a stormy night brushing chilly rain,
It always gives you a delightful place to know outside.
Windows are for getting a light.
At a warm breakfast place,
At a rainy afternoon with a ennui book,
It always gives you a light to spend your days.
Sometimes you have to get into nature in order not to miss yourself.

my second contribution to WPC:Windows 

Bonne journée, Cross Cultural, photo panoramique

Being simple

201709-311

The iPhone X team definitely made a great job. Some technical writers who love to quibble on insignificant detail seems to be busy for writing a reason of unsuccessful sales but I believe Apple has showed their philosophy with new products. Even though a enthusiastic supporter would probably find some bad points soon as usual, they must say what’s the matter? It’s a sort of common year festa.
However I’d like to say it lacks the finishing touch. The cut-out at the top and round edge look far from Steve’s clean design for me. It might be an unavoidable result of efficient and beautiful edge-to-edge LCD. Even so, I believe Steve would never say yes.
Being simple is always difficult.

iPhone Xは間違いなく素晴らしいが、ただ一点、ディスプレイ上部の切り欠きだけはどうしても気に入らない。スティーブジョブスなら絶対にOKしなかったのではないかというほどの詰めの甘さを感じてしまう。シンプルであり続けるのは大変に難しい。

 

Bonne journée, Cross Cultural

Bookstores

201709-211

新聞を開けば年に数回は国語力の低下だとか活字離れといったニュースにあたる。先日も自治体の2割に本屋さんがひとつもないという記事があって、前にも読んだような気がするなと「google」した。案の定、2015年の似たような記事がすぐに見つかって、妙な安心感のようなものを感じた。2年経ってもほとんど変わらない内容なら状況が加速はしていないということである。もちろん一方でそれを調べるのにgoogleしたというその習慣は、新聞が報道する状況が加速している可能性も示唆しているということでもあろう。

個人的には、町の書店が減少するのは当然という感覚を持っている。誤解して欲しくないが、本屋という空間が大好きで、なくなったら大変だとも思っている。先日も時々立ち寄っていた近所の書店が閉店となって困ったと食事時の話題にしたし、学生の頃は古書店をハシゴしてみたり信じられないくらい小さな学生街の本屋で数時間を過ごしたりもした。そうやって生活の中にあったはずの街の書店は、しかし輪郭が曖昧になりつつある。旬の野菜と夜食のスイーツを買うためにある食料品店と区別がつきにくい不思議な場所となってしまったのだ。それはそれでもちろん需要もあるだろう。出たばかりの山積みになったツヤツヤとした直方体を早く仕事を切り上げてでも買いたいと急ぎ立ち寄ることもあれば、なんとなく夜の時間をやり過ごすためにぼんやりと雑誌の書架を眺めることもある。ただ、それは毎日の生活そのものではない。新刊と雑誌と参考書だけの書店に毎日立ち寄る理由はなかなか見つからない。であれば、書店が減るのが道理というものだ。

北米でもヨーロッパでも本屋さんが流行っているという話はあまり聞かないから、時代の流れではあろう。店頭にないからと注文すれば待たされるし、時間つぶしならネットかゲームの方がお手軽。数が少ないから偶然の出会いは滅多に訪れない。オンライン書店が街の本屋さんを駆逐したというより、そんな時代という方が正しいのかもしれない。まるで、生息域が狭まった希少動物のようである。森に逃げ込むにも、森は限られている。

 

Art, Bonne journée

Yokohama Triennale 2017

201709-111

ヴァンクーヴァー美術館の照明の落とされた隅の部屋で見た Janet Cardiff & George Bures Miller the Killing Machine はボタンを押すのにひどく勇気のいる作品だった。その互いの姿もはっきりとはしない他人同士がたまたま同じ場所と時間を共有しながら、いつか不安までも共有する共犯者であるかのように静かに息を殺す深淵へと落ちていく時間は、早くそれを終えて抜け出したくなる程に永遠とも思われた。光と音が交錯する器械はコンテンポラリーアートの典型的な手法のひとつではあろうが、そこにそれがあるという存在感ゆえに逃れられない現実となってアートという特別な今を超える。

201709-112ヨコハマトリエンナーレの会場のひとつである赤レンガ倉庫で案外空いている午前中のゆっくりとしたひと時を過ごしながら、久しぶりにその不思議な現実感を味わった。かつて山下埠頭で開催された時(2005年)のダイナミックとも形容できそうな巨大な仕掛けと較べればずっと洗練されてはいるが、あの時もどきどきするような現実感を感じたように、今回もどこか頭の隅で警告が鳴るような感覚を覚えた。The Killing Machineにも共通するそれが何かはわからない。ただひとつ、そこにある現実感だけは共通して感じている。
ヨコハマトリエンナーレでは、必ず自分がアートの中に紛れ込む。コンテンポラリーアートには映像のみの作品やオブジェを単に楽しむものも多いが、これだけの規模にもなればインスタレーションの現場に居合わせることもアートの中に入り込める作品も多い。かつて原寸大サッカーゲームで遊んだように、今回も作品の一部になって楽しめるものも少なからずある。
だからコンテンポラリーアートはやめられないのだ。