Bonne journée, Photo

autumn

もうずいぶんと長い間自分の事を書いていないような気がしている。書いていない訳ではないだろうが、何を書いたのかすら忘れてしまうのがいつもの癖のようになっている。それは恐らくは代わり映えのしない日常が、何かを忘れるように仕向けているからに違いない。

フランスでは新型肺炎の感染が拡大を続けていて、厳しいロックダウンで一度は安定した状況も再び悪化し始めている。誰もが列に並んででも検査を希望し、一方で誰もがいつものカフェでいつものようにおしゃべりをしたがっていて、そしてそのアンビバレンツな状況を誰もが気にしていない。それが代わり映えのしない日常でもある。いちいち何が起こっているかを考えるようなことでもない。

代わり映えのしない日常が代わり映えのしない時間の中で過ぎて行けば、ある日突然気づくこともある。何も変わっていないと思っていた風景が、ある日突然グルグルと回りだす。昨日まで光り輝いていた夏は雨に濡れる秋となり、どこか埃っぽかった森が、生き生きとした鮮やかな色を纏いだす。今まで気づきもしなかったリスが下草の枯れた森の奥を走り回り、苔むした大地の中で湿った青い匂いが鼻をくすぐる。風に散る秋の葉はもうすっかり朱に染まっている。

いつものように森を歩き、いつものようにウサギの後を追えば、着古したジーズの裾は泥に汚れ、肩には雨水がシミを作る。ほっとする秋である。

Bonne journée, Photo

Autumn

秋を覗き込む
シャツの裾を整え
カリッとした他人事のような冷たい空気と
少しばかり気怠さの残る暖かな空気との境界を正し
そこにある秋を覗き込む
マスクにくぐもる無言の声と
遠く広がる騒々しいカササギの声との隙間を探し
所々に不意に現れた秋を
気づかれないようにそっと覗き込む

まだ夏だと思っていたのに急に秋を感じることもあれば、もう秋本番だと思っていたのに急にTシャツが欲しくなることもあるのが秋の定義なのだろう。ただ、今年は汗をかかない夏だったなとふと思うのである。もう少し夏に暑さを感じられたのなら、秋の楽しさだってもっとあったろうにと。

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

vineyard

どこかで聞いたような気がするという程度の知識は案外あてにならないのは、今や世間の常識となりつつある。誰かがWebなんてものを発明してしまったものだから、生半可な知識で満足していたものが、明確に否定されてしまったりもする。だからと言って、自分の目で見たから正しいとは限らない。昔から百聞は一見に如かずと言うが、自分の目で見たものより科学を信じるタイプの人間もいて、数式以外に信じられるものがないと感じることもある。どこかで亡霊を見てしまったところで、科学で証明できないのだから、これは脳内のイオン反応の結果でしかないと思うのである。

そんな訳で、パリ以北ではワインは作れないと言うのは単なる思い違いだそうだ。最近のフランス内での報道によれば、南のワインの産地に圧されて、たくさんあったパリ近郊のワイナリーは経済的に立ち行かなくなり、やがてなくなったと言うのが事実らしい。確かドイツ北部でビール作りが盛んなのはブドウが作れないからだと聞いたような記憶があるし、今住んでいるブルターニュではワインは作れず、隣のノルマンジーと共にリンゴ酒(シードル)作りが盛んになったのだと「聞かされた」記憶があるが、どうも単純に信じてはいけないようである。

その報道によれば、パリ近郊で再びワインづくりが進んでいるとのことである。フランスのワインにとってどこで作られたかは極めて重要であり、パリだからダメなのではなく、地元のパリ産ですよと言えることがビジネスを後押ししているようなのだ。知り合いによれば、ブルターニュにもワイナリーができてそこに投資しているそうだから、案外パリだけに限らない話なのかもしれない。その知人は失敗しても良いとは言っていたものの、投資するくらいだからしっかりワインができる見込みがあるのであろう。

もちろん、パリやブルターニュのワイン作りには課題もある。天候が比較的涼しい上に安定しないため、その年によって出来不出来の差が大きいらしいのである。だからビジネスとしては少し厳しい。温度計や雨量計がそこかしこに設置され、24時間体制で管理がされる現代だから成り立つのかもしれない。パリについては分からないが、少なくともいつも日本人旅行者にブルゴーニュと間違われてしまうブルターニュには、ちょっと嬉しい話のような気がしないでもない。

と言うことで、写真はロワールの葡萄畑である。ブルターニュではない。まだ、噂のブルターニュのシャトーを見たことはないのである。本当に葡萄畑はあるのだろうか。

日本にも美味しいワインの産地がありますよと言うことで、この下の写真は勝沼である。葡萄だけ写真に撮ってもどこか分かりにくいのは承知の上。

Bonne journée

rabbit

もうしばらくするとリスが地上に降りてきてウサギの姿をあまり見なくなる。リスが急に増えるわけでもウサギが急にいなくなるわけでもなく、森の下草が枯れたりどんぐりが積ったりして、ちょっとだけ活動と見え方が変わるだけなのだろう。でも、そうやって秋が深まることを感じるのである。

A plaintive autumn is coming. Rabbits are still enjoying their pieces of summer but going back to the dreary but warm nest soon.

Bonne journée, Photo

Autumn – automne – aki

 ここ何年もこんなおかしな天気はなかったと聞くのは、これでもう何回目だろうと思う。

 引越してきて2週間降り続いた雨にもう雨が止むことはないのだろうと諦めた頃、
「ここの天気はこんなものだよ。でもあとひと月もすれば晴れてくる。」
と誰でも当たりそうな天気予報で言い訳していた知人は、それから半年も後になって、
「今年の天気は異常だった。こんなに降った年はない。」
と心配顔で話していたし、昨日は、
「こんなに暑さが続いたことはない。」
と別な知人がスクリーンの向こうで笑っていた。「お天気」という誰もが気にはするが実際にはさほど関心などない事柄に右往左往しながら、いつでも特別な日がやってきたような気がしているのが日常というものなのだろう。

 そんなわけで、こんなに晴れが続いたことはなかったブルターニュの春の後で、いつもの涼しく短い夏がやってきて、やがてこんなに暑さが続いたことがなかった夏が終わろうとしているのである。どこの家にも冷房などあるはずもなく、ただ窓を閉め切ってやり過ごすしかない暑さに困りかけた頃、突然夏は終わりを告げる。寒気にぶつかった地上の空気が朝から雷雲を作り、カラカラだった地面が雨に光り、気づけば9時には夕焼け空が石造りの建物を赤く染める。

 茶色になり始めた木々は、着々と準備を進めていたらしい。小さな秋を探す必要などない。気付いていなかっただけで、すでにそこかしこに秋はある。

 Autumnの最後の’n’は発音しませんよなどと注意されながら、スペルが分からなくなるからというつまらない理由で最後の’n’を心の奥で発音していた中学英語はいったいいつの事だったか。気がつけば成長しない自分が、フランス語のautomneの’m’は発音しませんよと心の奥で言い聞かせている。

Bonne journée, Cross Cultural

tous les étés

 いつになく静かな夏のいつになく湿った日曜の朝、いつもより近く聞こえる教会の鐘を聞きながらシャツのしわを伸ばし、少し硬めのソファーに身を委ねる。久しぶりに街を覆うぼんやりとした霧を眺め、昨日までの熱波が終わりを告げつつあるのだろうと考える。特に何かあるわけでもない。ただ、いつもと少しだけ違う夏。
 様々な色に塗られた観光バスは皆どこかに消えてしまったのだろう。確かに旧市街にはドイツ語やらスペイン語やらが響き、見慣れないナンバーの車が通りを行き交うが、文化になどついも興味がなさそうな賑やかな集団が、わずかに傾いた木組みの店の前で大騒ぎを繰り返すこともない。観光バスのフロントウィンドウに貼られたツアーの名前を見ながら、おや、英語だとかハングル文字だとか、ひょっとしたらスオミかなと遠い国に想いを馳せ、不意にすれ違ったバスのJTBの文字に郷愁を感じたのは、もうずっと前のような気がしてしまう。ただ静かな夏。繰り返す夏。