Bonne journée, Cross Cultural

raindrops


I was probably seven years old and definitely didn’t know what the world was. Well, I still haven’t understood. It rained every day because it was a rainy season. My parents were busy for working then I had to spent a time by myself until they went back home. Needless to say, it should not have been. Just 7 years old.
There were two options; one was to stay home, watching TV or reading books, the other was to visit a house of a friend of my parents. Latter would have been better choice in aspect of safety but, as you may agree, a friend of my parents was not always a friend of me. I didn’t want to spend my time in an uncomfortable room but it rained. Finally I found a solution. I decided to play in a garage having no door. Just next to me, it was raining. After growing up, I learnt that it was a precious moment to know what nature is, and what the world is. It should have been a very very small part of it, but was enough.

Bonne journée, Cross Cultural

AI


 先日のニュースで8月第1週だったかのコメの価格が上昇したと言っていたのだが、その理由を農水省が、「新米が出回る前に、在庫を減らすために値下げして売り切ろうとする動きが一服した」みたいなことを言っていると聞いて、思わずため息が出た。JAとか卸とかには調査はしているのだろうが、お盆前に食品の小売価格が上昇するのはいつものことだ。需要が増えるから、自然と価格は上昇する。
 もちろん農水省が正しいのかもしれない。個人的な感覚で軽々に言うべきではない。そうは分かっているが、これまでも米に限らず失敗もしてきた農水省だから、なんとなく、「あんたら、いつもスーパーで買い物しているのか?」と言いたくなってしまう。それらしい理由を見つけると、調査もせずにその考えにしがみつくんじゃないかと勘繰ってしまうのだ。

 似たような話というわけでもないが、AIに関する論調にも、なんだか不思議な感覚を得ることがある。
 最近よく読む記事の論調の一つが、「もうAIは人間を追い越した」と言うものだ。将棋はとうの昔に、囲碁も今となっては人間は、勝てない。クイズの答えはAIには敵わない。問題を聞いて、解析して、最適解を見つけ、解答を生成しても、AI処理の方が早い。クリエイティブな分野だって、AIが人間に追いついてきた。普通の小説や絵なら、AIが生成したものと人間が生み出したものに違いはない。
 でも思うのだ、それってホント?

 そもそも、将棋のような「ゲーム」は、絶対的な解を見つけ出すのが目的なわけではない。人間の脳という限界のある世界の中で、より良い方法を見つけて相手に勝つのを競っている。最近はコンピュータを相手に選べるようになっただけであって、元はと言えば、知人や駅前の将棋センターの愛好者と対戦して楽しむものだ。人間の処理能力には限界があるから成り立っている。そりゃAIで学習してものすごい演算量を使った方が強いに決まっている。
 AIは、馬鹿げた演算量を使ってそうしたやり方を見つけることが出来るから強いのであって、AIが人間より優れているわけではない。ルールに、座布団に座って食事もして、感想戦までするようなことも含めたら、まだそこまで出来るAIは存在しないし、そもそも、
「えーっ、そんな手を思いついたの?」
と驚くのは、相手が人間だからである。AIなら当たり前かもしれない。
 人間の限界を試しているからこそ面白いのだ。

 いや、アートは別だろう、そんな話もある。普通の人には思い付かないような絵を出力してくるじゃないかと。
 いや、絵だってノウハウの塊だ。それを表現したいものに注ぎ込む。まるで写真みたいなリアルな絵を表現したいこともあれば、人間が腕を広げて空を飛ぶ空想を表現したいこともある。心の奥のモヤモヤしたものを繰り返しパターンの抽象画で表現したいこともあるだろう。それは、人間の脳という限界のある世界の中で、より良い表現を見つけて形にするということだ。
 これも人間の脳には限界があるから、それを超えるような表現をしたものに驚かされているのだ。一人の生身の人間ではできないほどのテクニックを知っているAIが、誰かが作り出したあなたの知らない表現方法を使って表現すれば、それは驚かされるに決まっている。
 人間の限界を超えたところにある表現をしているから驚かされるのだ。

 AIを使って、今までできなかったことができるようになる。それは、人間の脳では限界がある処理能力を使うということでもある。つまり、AIが人間を追い越したのではなく、人間の脳の処理能力を超えた演算を行う方法を人間が思いついたのである。
 そうした区別をしないAI技術者がたくさんいる。
 彼らは分かっている。

 AIが人間を超える時が来たと言う方が、分かりやすく、かつ、お金になると。

Bonne journée, Cross Cultural

家習どぅ外習


 毎年、夏休みが終わると、車の運転が荒くなったり、街での騒ぎが激しくなったりするような気がして、気が滅入ることもある。4月頃の新人さんの大騒ぎとは、同じマナーの悪いうるささではあっても、雰囲気も違っている。説明するのが難しいのだが、より幅の広い年齢層の人々が、少々、羽目を外しやすくなるのが、9月から12月なのかなと感じるのだ。
 ここでは、それに対して文句を言うつもりもないし、不快な例をあげるつもりもない。せいぜい言いたいことは、周りを巻き込むようなことだけは控えて、もっと安全・安心に過ごしましょうといった程度である。

 沖縄の言葉に、「やーなれどぅふかなれ」といった表現があるそうだ。聞いたこともないので、本当にあるのかどうかも分からないし、沖縄の言葉に詳しいわけでもない。島ごとに言葉も違ったりするところもあるので、どこで言われる言い方なのかも分からない。ただ、Webで見る限りは、幾つも説明しているサイトがあるので、案外普通に言われる表現(ことわざとも書いてある)なのかもしれない。
 漢字で書くと、「家(や)習(なれ)どぅ外(ふか)習(なれ)」なので、意味は自然と理解できる。「家の習いは、外の習い」言い換えれば「家での振舞いは外での振舞いに出る」ということだ。

 最近は、家ではあまり躾をしないとも聞くが、家庭内であっても「ありがとう」を言う癖があれば、外でも感謝する気持ちも出るだろうし、家庭内で「他人に怒られるから」大騒ぎしてはいけないと教えれば、外に出て「他人から何も言われなければ」ルール違反しても良いと思うだろう。家習どぅ外習の意味を理解しているわけではないが、家庭内の振る舞いは外でも出てしまうものだ。

 実はだいぶ前に、頼まれて採用面接官をしたことがある。関係者が集められて、人事担当者から説明を聞いたのだが、この時の内容に驚かされた。
「いいですか、皆さん大卒の22歳と言ったら、もう大人だと思うかもしれません。違います。皆さんの時代とは違うんです。22歳は高校生くらいの感覚です。正直子供です。もちろん、しっかりした大人の22歳もいます。でも、幼いなと感じて不採用にすれば、採用候補者は少なくなります。育てる視点で見てください。院卒の24歳でようやく成人したくらいの感覚なんです。いいですか、成人式を想像してください。そんな中から、今後、戦力に育つ人材を見つけて、採用しなければなりません。社会人としての教育は、採用後にすれば良いことです。そのつもりでご協力をお願い致します。」
 これは、決して悪口などではない。時代の違いでしかない。人事担当者もその点をしっかり説明していた。

 よく考えてみれば、家庭で学ぶレベルが違ってきていて、社会のために何をすべきかを家庭で十分に学ばなかった「大人」が子育てをする。昔からある話だが、社会環境が変わって、そうした「大人」の割合が少し増えてきたということなのだろう。昔と同じだ。家庭だけでなく、社会が人を育てる。目に余る輩が増えたのは確かだが、全員そうというわけではない。もちろん、今時は、他人の子供を叱ったり褒めたりすると睨まれる時代だから、簡単ではない。それでも、皆で支えて行くしかない。

 でもなあ、20過ぎたら、そろそろ主語を「私」から「みんな」や「あなた」に広げてほしいなあ。

Bonne journée

タイパとカモフレ


 タイパという言葉が広く認知されるようになったのは、わずか数年前の話らしい。Webをあさってみると2020年前後から一般化したといった説明もある。コロナ禍の真っ只中である。自分はといえば、その頃は日本を離れていて、帰国してみたら意味不明なタイパが使われていたという記憶はあるのだが、残念ながら浦島太郎の世界だ。タイパという考え方の是非はともかく、これだけネットワークやAIが発達して、たっぷり時間ができたというのに、まずは答えを求めるなんてどういう事?という疑問だけは隠さず言っておきたい。

 ただ、どこかのアメリカ人ジャーナリストが、「スマフォがなかった昔はどうやって暇つぶししたんだろう?」なんて書いているところを見ると、タイパと時間的余裕は別な話なのかもしれない。昔は何でも忙しかったのだ。せっかく時間的余裕が出来たのに、タイパを求めるなんて、もったいない。AIのサマリも常識になって、仕事で会話していても読解力の低下を明確に実感するのだ。

 最近の新語といえば、カモフレなんてのもある。こちらの方は、タイパに遅れること数年、2023年前後からの言葉だそうだ。つまり流行ったのはコロナ禍がひと段落ついて過去の話のように語られ始めた頃だ。マイナビによれば、「恋人はいらないけれど1人は寂しい……という気持ちを埋めてくれるのがカモフレの存在」という事なので、こちらの方は、昔と何も変わっていないのかもしれない。昔から、恋愛関係にはなりたくないが(あるいはなれないが)、異性の友達と過ごすのは安心するといった話はよく聞くことだ。そんな感情に今風にカモフレという言葉を作ったという事なのだ。キスフレとかオフレとかいった言葉は、きっとカモフレの派生語に違いない。

な〜んだ、ひと昔前はそれを「友達以上・恋人未満」と言ったのだ。相手に彼女・彼氏が出来たら距離も置くし、その彼女や彼氏との関係についての相談にも乗る。そんな頼れる異性の友達がいたって良いではないか。友達以上・恋人未満なら昔からある。もし、そう思ったのなら誤解らしい。私と同様、あまり若くはないって事かも知れない。

 カモフレはあくまでもカモフラージュであって、一緒に温泉宿に行っても性的な関係は一切ない。ホントにそうなのかどうかは知らないが、ある記事によればそうらしい。昔だってそういった関係はあったかもしれないが、性的な関係まであるのに恋人ではないという感じが「友達以上・恋人未満」にはあった。もしかしたら、昔のアッシー君の関係に近いのか?

 タイパと同じで、従来からの文脈では捉えられないものがあるから、新語ができたのだと理解するべきなのかもしれない。コスパだって、いつも良い意味で使われるわけではないのに、タイパなのだから、単純に昔からの価値軸で物事を見るべきではない。

 でもなあ、コロナの時期に何があったのだ?
 だんだん心配になってきた。

Bonne journée

ハハハハハ


ハハハハハ
笑い事では無い。
最近のニッポン、ちょっとおかしくないか?なんて思う事が多い。
皆さん、そう思っている?
それなら良いのだが、もし自分だけが思っているなら、それは自分が歳をとったということでもある。

 先日、実害が発生していない国旗損壊に対して法制化を行う前に、様々な実害の発生している外国人への差別に対して法制化すべきではないかと言った話がSNSに流れていた。様々な意見があって当然なので、このBlogではその意見にコメントはしない。このBlogは匿名である以上、政治的な話題を取り上げないことにしている。
 気になるのは、その是非以上に、分断に対して手を打たず、それを良しとする風潮の方である。欧州の知人はそんな様子を見ていて、かなり心配していたのだが、いつも結論は少しばかり悲しい。「他国の考え方に干渉すべきではないし、干渉するのは現実的に困難だ。手に負えない程になったら、静かに離れる以外にない。」だそうだ。

ん?何も気にならない?
もしかしたら、自分が歳をとってしまって、「自分の若い頃はねえ」なんて文句ばかり言うようになったのかもしれない。
「昔は良かった」なんて言い始めたら危ない。

 先日、新聞を読んでいたら、未だに小学校の低学年で男女の着替えが同じ教室という学校がまだ残っているという記事があった。俄かには信じがたいが、全国紙であるし、場所が足りないという現状には、一定の説得力がある。かなり改善はしてきたが、まだ残っているということらしい。ちょっとした工夫ならまだまだ出来そうではあるが、優先順位とか、いろいろあるのだろう。とはいえ、高学年でも分けていない学校も少しあるという点は気になってしまう。すっかり改善したものと思っていた。
 自分のことを振り返ってみれば、同性でも嫌だった。6年生の修学旅行ですっかり大人の体つきになっていた友達と隣り合い、しばらく嫌な思い出が残った事がある。今は、そういった嫌な思いをする機会がずっと減ったというのは、記事とは裏腹に朗報でもある。

ん?今は良くなった?
もしかしたら、自分が歳をとってしまったのではなく、時代の流れについていけてないのかもしれない。
もう、20代や30代ではないのだ。
何だか、世の中を憂いていたような気がしていたが、憂うべきは自分なのかもしれない。
やれやれ。