Bonne journée, Photo

工業デザイン

 その昔、とある国際会議でSonyの妙なデジタルカメラをかちゃかちゃと変形させている人を見かけ、思わずなんだろうと調べたことがある。ずいぶんと古いデジタルカメラだからほとんど知る人もいないだろうけれど、レンズとボディが大胆に捩れるようなその形状は、それが使いにくいものであっても人に所有して動かしたくなる力があるのだろう。それを買うかと言われれば、それが発売された当時であってもノーだが、つい気になってしまうのは事実である。

 ただ、工業デザインというのは実用性も含めてのものであって、単に形が好きだとか、機能的だというだけでは済まされない。フェラーリの平べったい車じゃIKEAでテーブルも買えないという事ではない。フェラーリにはフェラーリの役割があって、機能性や実用性にも求められるものがちょっとだけ違う。だから使いにくそうな変形カメラでも、それにあった機能が満たされていれば良いというものだ。

 工業デザインの専門家でもないのに何を書いているのかと叱られそうだが、仕事で知り合った工業デザイナーからの受売りという事はこの際白状しておく。その人は事務用機器のデザインをしていたのだが、車の例で話をしてくれたのだ。ひとこと言添えるとすれば、見た目については最後には好みだとも言っていたから、客観的正解はなさそうだ。

 個人的な好き嫌いを言って良いならトヨタデザインは大嫌いである。いやいやあれだけ売れてるんだからあんたの感性がおかしいと言われそうだが、人それぞれなのでここは許していただきたい。トヨタ内にだってたくさんデザイナーはいるだろうし、外のデザイン事務所だって使うかも知れないから、一律にトヨタが嫌いと言うのも乱暴だとも分かっている。

 でも、嫌いなのはどうやらひとりではなさそうで、歴代のプリウスは見た目が恥ずかしくて買う気になれないなんて人もいたから、感性なんてそんなものだ。だから先日発表された新型のプリウスにスポーツカーみたいでかっこいいと言うジャーナリストには到底同意出来ないのは、たったひとりの感想というわけでもない。件の工業デザイナーによれば、近頃の車はなんでもかんでもタマゴ型と楔型をしていて個性もないし、運転し難いと分かっているのに鼻先の見えないデザインをするのは、デザイナーの手抜きなのだそうだ。もっとも、そう指摘するそのデザイナーは車などデザインした事がない。果たしてどうなのか。

 さて、最近のトヨタ車を見ていてひとつだけ良くなったと思う事がある。ボンネットの先端にあるトヨタマークの周辺部のデザインだ。こればっかりは否定的な人が周囲にもそこそこいたから、案外ひとりの感覚でもないだろうと思っている。まずマークそのものが見方によってちょっといやらしい。少なくともそう感じる人が多少いる。ただ、個人的には言われるまではさほど変だとは思わなかったから、ここではこれ以上は解説はしない。むしろちょっと困ったのは、それを中心に置いた周辺も含めた全体である。少し前のトヨタ車の顔は、なんとなくカルバン・クラインあたりのちょっとセクシーな男性用下着の広告みたいに見えたのだ。一度そう見えてしまうとずっとそう思えて来るから、恐ろしい。もうだめだ。デザインとはなんと難しいことか。ようやくそれが変更になった。ありがたいことだ。

 工業デザインなんて世界中で同じだろうと思えば案外そうでもなくて、乱暴に言えばアジアらしいデザインとか欧州デザインとか言われたりする訳だが、現代でも世界が均質ではないことに気づいてホッとする。時にはちょっと嫌われるくらいの方がいいに違いない。でも、個人的にはトヨタはいただけない。これだけは、仕方ない。

 いや、分かっている。個人的な感覚に過ぎない。自分の感覚がおかしいのだ。ごめんなさい。だってBMWを見てブタに見える人だっているでしょう?私にはそう見えたことはないのだけれど。

Bonne journée, Photo

いま

今とはさっきまでの時間とこれからの時間の間に挟まれた隙間時間でもなければ、昨日と明日の間を過ごす今日から切り出された移り行く時間でもない。それは次の時を過ごすために過去となった時を振り返って準備している動き。止まらずに動いているから今という瞬間は捉えることも叶わないたった0の時間。その今の間隙に落ち込んでいく自分の居場所はどこにあるのか。そんな事を考えながら満員電車の吊り革を頼る。都会は今が多すぎる。

Art, Bonne journée, Cross Cultural

文学と絵画とブルターニュ

 アンリ・モレの「ブルターニュの断崖」やポール・ゴーガンの「二人のブルトン人」を見たかったら、地の果てなどと揶揄されるブルターニュの西の隅まで出向かなければならない。所蔵するポン・タヴェン美術館は、パリからは相当遠い場所にある。だからフランスの西の果てと言われるくらいは仕方ない。だが地の果ては少々言い過ぎだろうと思う。TGVでブレストまで行ってレンタカーで南下してもいいし、そもそもバカンスを過ごすような場所なのだから、遠くからでも時間をかけて辿り着けばよいのだ。もっとも、ゴーガンのポンタヴェン派としての代表作である「美しきアンジュール」も「黄色いキリストのある自画像」もそこにはない。あるのはオルセー美術館だから、わざわざ行くまでもないと言われればそれまでではある。
 でも、行かなければわからないこともある。川のせせらぎ(下の写真)も、どこまでも透明な海も、行って体感しなければわからないように、アンリ・モレの描き出す色とりどりのブルターニュの断崖は、パリにはない。
 もっとも「黄色いキリストのある自画像」ですら日本にいては見られない。スマホで見ても大きさも色もタッチも違うから、分かるのは知識としてのゴーガンでしかない。
 それでも絵はまだ良いほうかもしれない。どんなにお金を出そうが、どんなに時間をかけようが、もはやショパンが弾くピアノは確かめようがない。ワグナーが恭しく指揮をとるワルキューレが聞こえる事もない。ひょっとしたらそれよりもずっと出来が良いオーケストラで、ずっと洗練された指揮の下、当時以上の再現演奏を聴くことが出来ているのかもしれない事が救いではあるが、絵とは違ってオリジナルはもうないのだ。
 その点、文学はありがたい。書き手が意図したそのままをいつでも手に出来ている可能性が高い。小さな誤りが訂正されていたり仮名遣いが現代表示に訂正されていたりすることもあるかも知れないが、模写やコピーとは違って劣化しないのだ。それがたとえkindleであろうが、そこで読む宮沢賢治は宮沢賢治そのものだ。
 いや翻訳ものはどうするんだとか、絵なら世界共通だとか、そんな指摘はあるだろうが、それはそれ、大目に見ていただきたい。文学の普遍的なアドバンテージはその劣化のない作品を手にすることの喜びなのである。
 ありがたいことにブルターニュ大公城にあるターナーの「ナント」は、まもなく国立西洋美術館で見られるらしい。3/18から始まる「憧憬の地ブルターニュ」という企画展のリストに確かにあった。熱烈なラグビーファンでターナー好きの方には残念だが、日本戦を応援に行ったついでにターナーの「ナント」は見られないのかもしれない。いや、その頃にはブルターニュ大公城の美術館に戻っているのか?

 トップの絵は「ダイヤのエースを持ついかさま師」などで知られるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの代表作のひとつ「聖誕」。
 地元の人はこれくらいしかいい絵がないと言って残念がるが、これを見るために行く人もいるレンヌ美術館所蔵品。他にも佳作がたくさん。

アヴァン川のせせらぎ
Bonne journée, photo challenge

LAPC – Bringing softness

There are a lot of signs of coming spring here and there but a few trace of winter is still left. Winter at Yokohama is somewhat sharp and dry and it is far from softness. On the contrary, winter in Brittany was soft and damp. A distance of 9994km between two places is too huge to imagine the differences.

鋭く乾いた横浜の冬の空気を感じながら、一方でブルターニュの柔らかで湿った空気を思い出す。9994kmの距離は、その違いを想像するには遠すぎる。

Lens Artists Challenge #237 – Bringing softness

Bonne journée, Photo

a bird

肩を押す春風の重みに頭を垂れ、

こめかみを締め付ける冷気に肩をすくめ、

目尻に刺さる鋼色の三日月にまた宇宙を見上げる。

繰り返す昨日と明日が同じでないことに

間も無く脱ぎ捨てるコートを思い出して安堵を覚え、

繰り返す昨日と明日が同じであることに

腕まくりするシャツを思い出して不安を感じる。

チチと鳴く鳥を探して甘ったるい空を見上げるのが春の兆し。

まだ冬枯れの梢にも、咲き始めた寒桜の花の間にも、鳥が忙しくしていた。