
肩を押す春風の重みに頭を垂れ、
こめかみを締め付ける冷気に肩をすくめ、
目尻に刺さる鋼色の三日月にまた宇宙を見上げる。
繰り返す昨日と明日が同じでないことに
間も無く脱ぎ捨てるコートを思い出して安堵を覚え、
繰り返す昨日と明日が同じであることに
腕まくりするシャツを思い出して不安を感じる。
チチと鳴く鳥を探して甘ったるい空を見上げるのが春の兆し。
まだ冬枯れの梢にも、咲き始めた寒桜の花の間にも、鳥が忙しくしていた。

capturing in prose
肩を押す春風の重みに頭を垂れ、
こめかみを締め付ける冷気に肩をすくめ、
目尻に刺さる鋼色の三日月にまた宇宙を見上げる。
繰り返す昨日と明日が同じでないことに
間も無く脱ぎ捨てるコートを思い出して安堵を覚え、
繰り返す昨日と明日が同じであることに
腕まくりするシャツを思い出して不安を感じる。
チチと鳴く鳥を探して甘ったるい空を見上げるのが春の兆し。
まだ冬枯れの梢にも、咲き始めた寒桜の花の間にも、鳥が忙しくしていた。
雪なんて降ってほしくないのに、降らないと残念と思うのはきっとわがままだからなのだろう。昨日の朝から舞い始めた粉雪に、早く帰ろうなんて言いながら、どこかで白い世界を期待している自分がいた。
予報では昼ころから夕方まで降り続きその後雨に変わるということだったが、実際には朝から降り始めたから、帰宅時にはそれなりに積もっているのだろうなと勝手に想像していた。きっとコンピュータ予想がはずれたのだろうが、雪なんて嫌だと言いながらもどこかで雪が見たいと思っているところがあるから、降り続けるものと信じたくなっていたに違いない。ところが11時前には雪が雨に変わり、ほとんど積もることもなく冷たい雨が降り続いたのだった。本降りの雨にずぶ濡れになりながら、ちょっとわがままな自分が可笑しく思えた金曜日だった。
写真はもちろん横浜などではなく、フランスの風景。この写真の地域も雪は珍しい。
I don’t want it to snow, but I was disapointing it didn’t, probably because I’m selfish. The powder snow began to fall from yesterday morning, and while I was telling myself to go home early, I found myself hoping for a white town somewhere.
「苺をつぶしながら、私、考えてる。こんなに幸福でいいのかなあ、って。」
本当のところ中身の記憶は何ひとつ残っていないのだが、この書き出しだけは思い出す。良く知られた田辺聖子の「苺をつぶしながら」である。大袈裟に聞こえるかもしれないが、もうここだけでもう先が読みたくなる。きっと苺をスプーンの背でぎゅっと押しながら、それを見ている目は幸せな自分自身を眺めているのだろうなどと勝手に想像するのだ。そうやってこの部分はひとり歩きを始め、やがて本当に冒頭の部分だったかななんて不安になる。何しろその先の記憶はないのだ。読んだのはいったいいつだったか。
実際の気温など無視していなければやってられないなんて思っているのか、単に季節の行事が大好きで少しばかりその気持ちをお手伝いして儲けさせてもらおうというのか、街中はすっかりイチゴの季節となってきた。自分はといえば、やっぱりヨーグルトにイチゴを乗せて春を楽しんでいる訳だが、そのイチゴをスプーンで半分に切りながら、ふと目の先にある新聞記事が気になっていた。マスクをつけるかつけないかは、5/8からは個人の判断だという。いや、今だって個人の判断なのじゃなかったかなと思うのだが、その記事によればそうでもないらしい。
マスクをどうするかは色々考え方もあるが、気になったのはそこではない。国がそれを判断するってどういうことなのだろうと思ったのだ。日本に入国する時に国からの依頼だと聞いたが、もしかすると義務だったのかと今更気づいたのだった。緊急事態だから色々混乱もあるわけだ。出国したフランスはといえば、ある日政府がもはや義務ではないと言った瞬間から、誰もが自分の判断で好きなように決めたのだった。
マスクの着用のルールを変更するのは5/8からにするのは、ゴールデンウイークでの感染を避けるためだという。なるほどよく考えているなと思う一方で、これがフランスなら誰も従わないだろうとも思う。5/8がOKで、5/1がだめならその違いは何だと聞くだろう。だからなのか、ぎりぎりまでフランス政府は決定を言わない。1週間後から規制を撤廃すると言ったら、その日から誰も規制を気にしない。外出禁止であろうが、何だろうが、社会はゆる〜く動いていく。
そんなことを考えながら、イチゴをひとつ頬張るとスマホの通知がこう告げる。イチゴフェアのクーポンがあります。外は寒い。
(English text at bottom)
いつ終わるのか分からないままに、ある日突然に2022年が終わろうとしている。それは実感のないままに地球が太陽の周りをぐるりと一周したと言うのとさして変わらない。元から誰も終わりなど教えてくれなかったどころか、自分自身でもいつ始まったのかすら気づかなかったのだから、そんなものなのだ。ただ時間が過ぎて、昨日まで過ごした場所と今日息継ぎをしている場所とが交差することなく存在していたということなのだろう。かつていた場所に住む知人とたわいもない会話をWebでしながら、かえって距離を感じるのが習慣となったらしい。それでも1日の仕事の終わりに言う「おはよう」に、不思議と安堵を感じるものだ。一日中「おはよう」と言い続けられるのなら、それはきっと良い1日に違いない。
良い年をお迎えください。
Without knowing when it is going to end, suddenly the last day of 2022 has come. That is not so much different from saying that the earth went around the sun without knowing. Not only did no one tell me the end day from the beginning, I myself didn’t even notice when it started, so that’s how it is. It’s just that time has passed, and the place where I spent yesterday and the place where I’m breathing today existed without intersecting. It seems that it has become a habit to feel the distance while having casual conversations with acquaintances who live in the place where they used to live. Still, I feel strangely relieved when I say “good morning” at the end of the day’s work. If you can say “good morning” all day long, it must be a good day.
Best hopes and wishes for the New Year!
コートのポケットの中に冷え切った両手を無造作につっこみ、グルグル巻きにした夏色のマフラーの中で首をすくめながら、バイクの甲高いエンジン音が響くカサカサした街中を歩いていた。しばらく忘れていた無数の引っかき傷のような乾燥した空気が、マフラーの隙間を通り過ぎていた。古くさいプリウスがノロノロと行く向こう側には365日と書かれた派手な看板。終わりのない感染の2文字の反対側で、「無休」よりもどこかリアリティがあった。
この365という表記はありふれているが、案外欧州では見ない。使わないわけではないが、週7日の方がよく見るような気がする。フランスだったら « 7j/7 » 表記することも多い。一方で、日本で「週7日」はほとんど見ない。フランスで何日だっけと聞いて、曜日が返ってくるのは習慣の違いいうわけだ。
乾燥した風に冷たい空気を感じるか、熱い空気を感じるかは、どこに住んでいるかの違いであって、ブルターニュで「今日は湿気があって良かったね」なんて真冬に挨拶しても何も伝わらない。それは、マスクをしているのがどこかおかしいと感じるか否かとさして変わらない理屈なのだ。いつもどこかそうやって小さな違和感の中で過ごしている。
その違和感が、住む場所の違いのせいなのか、日本を離れている間に起きた様々な変化のせいなのか、単に自分が変わったのかはわからない。わからない方が良いのだろう。分かったところで違和感がなくなるわけじゃない。ウラシマタロウとはそんなことなのだ。
もう現金など使うことなどなくなって久しい。支払いはほとんどデビットカードで済ませてきた。パーキングメーターで1ユーロを払うのもカードだったから、現金といえばわずかにある自動販売機くらいしか使わない。そもそも自動販売機がほとんど見当たらないから、その支払いの機会もほとんどないのだが。
ウラシマ気分で過ごしながら、日本の自動販売機でコインを出そうとして、かなりの機械がカードに対応していることに気がついた。現金の国と言われながら、今やカードだけでも結構問題なく過ごせるのだった。残念ながら職場に一番近い自動販売機は現金のみだったが、現金が必要なのはそこだけである。まぁ、そう遠くない場所にある安売り花屋さんも現金だけだったが、例外だろう。
職場近くの自動販売機は仕方ない。ポケットに小額の現金を持てば済む話しである。そんなことより、どこにだって自動販売機があって、いつでもひと休みできるなんて、なんと恵まれたことか。すぐそこに自動販売機、ちょっと先にコンビニ、もう少し行けばカフェ。好きに選んでくれと言わんばかりではないか。
ただ、先日、ちょっとした問題があった。自動販売機におそらくその件の花屋でもらったお釣りの500円硬貨を入れたら、受け付けないのだ。だいぶ前のことだが、ちょっと古い500円硬貨を入れたら返却口に返され、何度か入れ直したら受け付けられたことがあったから、同じ問題だろうと思ったが、何度やってもだめである。500円硬貨は偽造の元が取れるから狙われやすく、偽造コインに対策するため選別機が厳しいと聞いたこともあった。やれやれ。仕方ない。
幸いにもそこから階段を上がって少し行ったところにも自動販売機がある。ここは便利な日本なのである。ちょうど良い運動ではないか。少し歩いて飲み物を飲んでリフレッシュしよう。だが、そう思って行った自動販売機でも、500円硬貨は虚しく返却されたのだった。何度やっても同じである。さすがにこれは変である。偽500円をつかまされたのか。
どちらの自動販売機も表からは見えない隠れた場所にあるので明るい場所にはないが、使えない500円硬貨を手にしてよく眺めてみた。すると変なのである。どことなくデザインが違い、色合いも少し黄色みが勝っているような気がする。コインを立ててみると、側面にあるギザギザもちょっと粗い。確かに十円玉をお金をかけて偽造したって儲からないが、500円なら元がとれるという事なのかもしれない。
とりあえず部屋に戻って調べてみよう、そう思ってデスクに戻り、怪しい500円硬貨を明るい場所でじっくりと眺めてみた。するとなかなか出来が良いのである。異なる材質の組み合わせはまるで2ユーロ効果の様だし、模様が極めて繊細に描かれている。おや?と思ってGoogleで500円硬貨を検索してみることにした。すると答えは案外すぐに見つかった。なんと2021年に新硬貨が発行されていたというのだ。自動販売機はまだ新硬貨に対応していない場合が多く、そもそも新硬貨はさほど流通していないという。誰も教えてくれなかったではないかと思ったが、そんなことを教えてくれるおせっかいなどいるわけもない。ウラシマタロウとはこのことだ。
全国旅行支援で広島に行って美味しいものを食べてきたなんて聞いたから、経済を支えるために個人が行動するなんてすごいねと思えば、それで何万円だか得したと言うし、すっかり何のことだかわからなくなっている。500円硬貨が新しくなったことを知らない程度なら、なんてことはない。
多分。
やれやれ。