Bonne journée, Cross Cultural

カウンター・カルチャー・ショック(最終回)

前回から

 そういえば日本在住のあるフランス人によれば、日本のバターも美味しいそうだ。美味しいかどうかは実際のところは美味しく感じるか否かであって、要は個人の好みだと思うのだが、それでもこのフランス人の好みは本音なのだろう。日本のバターは十分に美味しい。フランスのバターを買わずとも、日本のものでもしっかりバターらしいバターを楽しめる。確かにレストランでそのまま出されることもあるボルディエのフレーバー付きバターのようなものは日本にはないから、デパートの地下で125gをフランスの5倍の2000円で売られているのも分からないでもない。だが、200gが450円の日本のバターもとても美味しいのである。それどころか、フランスのどこのスーパーでも普通に売られているle Gallのようなバターは250gで4ユーロ(500円)程度だから、値段もほとんど同じだ。日本のバターがフランスより劣るはずはない。
 しかしである。日本ではバターがほとんど売っていないのである。いや、売っていないわけではない。でも3種類も置いてあればラッキーというもので、たまたま置いてあるバターから選ぶしかない。発酵バターが欲しければ通販で買えとでも言われているようである。よく考えてみれば、農水省がバターのコントロールに失敗して市場からバターが消えた時、全く別物のマーガリンで代替してほしいとか、バターのニーズはケーキだとか言ってたくらいだから、市場の要求は小さいのだろう。醤油がないからウースターソースを使ってくれとか言っているようなものだが、きっと担当者は食パンに塗ったことしかないに違いない。チーズにしても、ヨーグルトにしても、日本での乳製品の扱いはとても小さいし、種類が酷く限られている。
 勘違いかもしれないが、この何年かの間に一層扱いが小さくなったような気がしている。フランスのように、コンビニ1軒分くらいの棚が全部チーズやヨーグルトという状況を望んでもそれは無理難題というものだろうが、毎日ヨーグルトとバターとチーズを食べてきた乳製品好きには酷く残念である。スーパーの棚を見て、あれもこれもないとため息をついている。せめて1種類でもパヴェとか置いてくれないかなと。
 売れないものを置いてくれとは言いにくい。ヨーグルトだって山羊もないし有機指定もないが、置いてあるものが不味いわけではない。少々人工的な味のものもないわけでもないし、物足りない感じもあるが、概して美味しい。それで良いのだ。フランスで豆腐を買ったら同じ感想を持つではないか。まぁ、あえて言うなら気になるのは物足りない感じだけだ。
 そこで思うのだ。多少味の物足りない感じは良いが、量が物足りないのはどうにかしてほしいと。小分けのヨーグルトはフランスが125gから135gに対し、日本は65gから75g。たった6割しかない。価格に占める原材料費の割合からすれば、大してコストダウン効果はない。むしろ、物足りないから買う回数が増えるのがポイントだろう。
 そうやって考えると、ここしばらくで、色々なものが小さくなった。たぶんポテトチップスもクッキーもチョコレートも。キットカットなんて2/3くらいになったような気がしている。ダイエットには良いかもしれないが、ちょっと気に入らない。まぁ、りんごが大きいからいいか。

Bonne journée, Cross Cultural

カウンター・カルチャー・ショック(6)

前回から

 少し不思議な感覚なのは仕事よりも交通マナーである。日本に長く住んで左側通行に慣れ親しんできたのだから、日本に再び住むようになれば直ぐに運転に慣れると思っていたのだが、案外そうでもない。仕事の仕方が合わずにぶつかり合うならなんとかなるが、車でぶつかり合うのは遠慮したい。

 最初に見た戸惑ったのはもちろん左側通行なのだが、普通に走っている分にはフランスも日本もさして違いはない。日本に住んでいてフランス旅行でレンタカーに乗ればどうしたって左右の感覚がずれるわけで、逆も同じだ。感覚がおかしくなって戸惑うレベルになるのは、通常とちょっと変化がある時である。例えば中央分離帯があるような大きな交差点を曲がった時にどこを走って良いか迷うことがあったりする。
 以前、フランスでのことだが、普通の何の変哲もない交差点で左折(日本の感覚で右折)したら、その先で逆向きに車が信号待ちをしていて驚いたことがある。その車は右側通行の国で左側にいたのだ。一方通行でもなんでもないありふれた普通の道だ。おそらくはイギリスから来たのだろう。本人はいたって平常心で何の疑問もなく左側を通行して信号で停止したはずだ。所々中央分離帯がある道だから、そうなるためには、数百メートル手前の交差点を折れた際に反対車線に入ったはずで、よく事故もなくたどり着いたものである。早朝が幸いしたという事か。仕方なくこちらも左側通行をしてその車を避け、元の右側車線に入ったが、すれ違いながら見た運転手はかなり慌てている様子であった。
 他人事ではない。この感覚のズレに対しては、日本では大きな交差点に入る時に「左側、左側。」と呪文を唱えることで概ね問題を回避した。ハンドルの向こう側に大きな矢印と左側の文字を書いておくと良いらしいが、少々ダサい。混雑した狭い日本の道は前の車に続くことができるから、問題なのは片側2車線以上の交差点だけだ。目にうるさい説明書きは止めておきたい。

 意外だったのは、黄色信号の無意味さと追越車線の混雑だった。確かに黄色は注意と習った気がするが、黄色は止まれの意味に近い欧米基準からすると、無謀極まりない。信号が赤に変わってから1台や2台程度の車が交差点を通過する。右折ではしっかり確認しないとぶつかり合うことになる。逆に黄色だからと速度を落として停止したら、後ろの車が追い抜いて行ったなんてこともある。これに慣れるには少々勇気が必要なのは言うまでもない。
 一方、追い越し車線の混雑の方は、もちろんなんでもない話だ。片側2車線の道路は、不思議な事に右側の追い越し車線のほうが混んでいる、それだけのこと。フランスでは法律違反で警察に止められるが、路上駐車が多いせいか、日本ではあまり問題にならないらしい。2車線あっても追い越し車線を使う文化だと理解さえすれば、どちらかを走れば良い。
 ところがである。これが突然混乱の元となる。中央分離帯のある片側2車線道路の右側をずっと走り続けると、右側通行のような気がしてくるのである。それはお前の頭が硬いからだろうなどと言われそうだが、慣れとはそんなものだ。そうやって勘違いした頭で交差点に入るともうパニックである。そんな時にも呪文が重要だ。「左側、左側。」

 似たような混乱は歩道でも起きる。なぜか日本では、自転車が歩道を歩く歩行者めがけて猛スピードでやってくる。最初は自転車用レーンが少ないから歩道を使うのも仕方ないと思っていたが、どうやら自転車レーンがあっても関係ない。自転車レーンを塞ぐ路上駐車も多いこともあって、むしろ安全をとって歩道を走るようなのだ。たまらないのは歩行者のほうだ。電動アシスト付きの自転車でベルを鳴らしながら突っ走ってくる自転車を見たら、もはや店先だろうが車道だろうが空いてそうな隙間に逃げる以外に手はない。やれやれである。自転車は車両なんだがと思ってみても何も変わらない。
 一方で車を運転していて楽なのは、信号を待つ歩行者だ。少なくとも車が走っているのを気にせず横断する輩はいない。車が遠くても誰もが赤信号を待っている。当たり前のような気もするが、案外フランスの都市部はそうでもない。渡りたい時に渡る猛者をかなり頻繁に見かける。その点、しっかりと交通ルールを守る日本は、なんだかんだと真面目である。いや、渡ったらなんて思う事もしばしばだが、おかげで車を運転する側からすれば安心なのである。

 そういえば、交通マナーや安全の啓蒙ポスターを見かけるのも日本的である。歩きスマホはやめましょうなんてことを、関連性もよくわからない意味不明なマンガで伝えてくる。果たして見る人の心に響いているのか甚だ疑問だが、派手な色合いとポップな文字とマンガの組み合わせは日本らしい風景だから、啓蒙ポスターだってそんなものなのだ。正直に言えば、日本の広告はあまりに子供っぽいと感じて好きではないのだが、見慣れれば妥協できる範囲である。まぁ、国が発行する重要なカードに好きでもない動物を描くのはやめていただきたいのだが。
 子供っぽいといえば、どこにでもある占いも少々理解しがたい。ニュースサイトをみても星座が未設定などと言われるし、電車で停車駅を確認しようとモニターを見れば、今日の魚座はラッキーだと強調している。大抵は天気と隣り合わせで表示されていて、大人の事情である。つまり、GPSはオンにしなくていいから、どこに住んでいる何歳の人間かを教えてくれないかなと言っているわけだ。個人情報が欲しいなら同意をとって欲しいところだが、個人情報は有料だという意識が足りないのかも知れない。「情報が欲しいのは分かったから、ともかく交通情報を見るのに占いで悪い事を言うのはやめてくれ」とつい声を出さずに呟いている。せめて子供っぽいイラストで飾るのをやめてくれるだけで、気分が楽になる。
 街行く車にも派手な羽根が生えていたり、ラジエターグリルに銀色の斧や電気シェーバーの歯のようなものがついていたりと、ちょっとばかり変わっている。一説にはガンダム世代がデザインして宇宙戦艦ヤマト世代が承認しているからだそうだが、もちろん真偽のほどは定かではない。世界で売っているのだからグローバルデザインのはずだが、日本向けだけ変えているのかもしれない。ちょっといやらしいと評判のTのマークのついた車も、明らかに日本とフランスで見た目が多少違ってはいる。どちらにせよ、フランスの知人によれば「あんな車恥ずかしくて乗れない」だそうだが、ダブルシェブロン(chevron)のあの車の見た目も相当跳ねてると思わないでもない。
 まぁ、楽しげだからそれでもいいか、というのが今の結論ではある。世界中どこに行ったって、大局的に見れば人の営みに大きな違いなどない。

(次回に続く)

Bonne journée, Cross Cultural

カウンター・カルチャー・ショック(5)

前回から

 きっちりとした真面目な国民性なのだそうだ。そんなことを言われると生きづらい人も多いだろう。ほんとはもっとテキトーに生きたいなんて考えるのかもしれない。

 2分遅れの通勤電車から吐き出された仕事への道すがら、ポケットのゴミを捨てようと周りを見渡してみても、どこにもゴミ箱がない。街中だろうが公園だろうが商業施設だろうが、ゴミ箱を探し出すのは、昨日道に落としたコインを探すより難しい。コインなら大抵落ちたままにそこにあるし、まとまった金額ならきっと交番に届けてもらえる。でも、ゴミ箱を探そうにもどこにもないのだ。それどころかゴミもない。
 ゴミ箱がないからゴミもないのか、ゴミがないからゴミ箱もないのか、まったく無関係なのかわからないが、ディズニーランドにゴミがないのは決してゴミ箱があるからではなく、高頻度で掃除しているからだそうだ。きれいになっていると適当にゴミを捨てにくいという心理が働くらしいが、そんな事の前に努力して清掃しているという事なのだろう。どんな場所だろうがゴミを放置するひとはそうするのだ。だが、街中は高頻度で清掃などしていない。ゴミだらけのパリとの違いは何なのか、皆目見当がつかない。パリだって毎日のように清掃車が走り回っているのだ。
 ひとつ想像するのは東京のリスク低減を重視する文化だ。起きてもいない課題を徹底的に潰すことには、根底にどこか生活に密着したなんらかの文化的な要素があるような気がするのだ。街角からゴミ箱がなくなったきっかけは、ゴミ箱があると不審物を仕掛けられるリスクがあるからと聞いたことがあるが、利便性を求めるマーケットでゴミ箱を撤去する理由にはならないだろう。それだけリスク回避が重要なのだろう。ただ、これはゴミ箱がない理由であって、ゴミがない理由にはならない。きれいにしておかないと世間の目が厳しいかもしれないとか、病気が発生するかもしれないとか、何か理由があるのだろうが、なかなか適切な理由が見つからない。もちろん、きれいにしておきたいからというシンプルな理由はあるのだが、誰もがそうしたいとは限らない。

 個人的にはゴミ箱がなくて困ったことなどないから、それ自体はどうでも良いわけだし、ともかく東京の街がクリーンなのは驚くレベルだ。理由など考える必要もないのだろう。ただ、リスク回避を求める文化だけは少々困る事がある。仕事の場合だ。契約書の文言を弁護士や専門家と練るならリスク検討は重要だろうが、プロジェクトを進めるだけでも、これが失敗するかもしれない、記録を残しておいた方が安心だ、相手先は拒否するかもしれない、などと延々と起きてもいないことを議論する。原則的には仕事は合意で進むから、起きてもいない未来のイシューを解決する作業が長くなる。たった1ドルのレターのために1000ドルを費やすこともあり得ないことでもない。決めたいことはまず根回しの個別ミーティングで伝え、その後で全体ミーティングで合意する。そんな文化はおそらくは日本固有のものだ。
「だって、それはまだイシューではないよね。」
 そんな疑問をフランス人の同僚からぶつけられるのをいつもの事にはしたくない。

 仕事の習慣のようなことを言い出せば、ほとんど褒めることのない文化も日本固有だと思うが、そのあたりの話はやめておこう。仕事は地域差よりも組織差が大きいもので、あまり楽しい話にはならないのだから。

次回に続く

Bonne journée, Cross Cultural

カウンター・カルチャー・ショック(4)

前回から

 東京の移動手段は原則電車という事になっている。もちろん配達や仕事の道具の運搬には車を使うが、商談に出向くのに車を使わないのは暗黙の了解のようなものだ。まして、オフィスに向かうのに、古臭い企業でもなければ、忙しい社長であっても電車を使う人も多い。だからこそ首都圏の道もなんとか走れるわけだ。逆に、電車は大混雑することになる。フランスで満員電車なんてパリ以外は聞いたこともないが、きっと日本だって東京や大阪といった大都会以外は満員電車などないのだろうと勝手に想像している。東京とその近郊だけは仕方がない。人が多すぎる。
 それでも最近はテレワークが当たり前になったからか、記憶しているよりずっと空いている。以前のような呼吸困難になりながら、右に左に揺られるようなことはなくなった。体が傾いているというのに倒れることのないあの不思議な感覚はもはやない。朝の混雑する時間だというのに、場合によっては座って通勤できるのだから環境は大きく変わったのだろう。
 電車の座席に座って仕事に向かうことができるとなれば、その無駄な時間を仕事をしたり語学学習に使えるわけである。ブルターニュにいた頃は、車での移動中にラジオを聴いてリラックスしながら、ついでにニュースなどでフランス語を学んでいたが、実際のところ耳には何も残りはしなかった。確かにいつのまにか聞き取りの訓練にはなっていたのだろうが、運転中は言語に集中できるものではない。電車なら他に気にすることが少ないから、急に辞書を引くことだってできる。しかも日本の電車なら駅ごとにスマホを握りしめる必要もないし、公共の場での会話も少なくなっている。そんなわけで、今では試験前の高校生と並んで語学学習するのが電車で行うルーティンのひとつとなっている。
 この何の心配もなく電車で語学学習できるという状況には、ほんとうに驚かされる。座席に座って膝に乗せたバッグの上にスマホを置き、片手でテキストを繰りながら、もう一方の手でスマホのキーボードを打って”félicitations”という調子である。パリのメトロだったら数日ともたないだろう。「あぁ、出てこないと思いますよ。残念ですが。」
駅で停車した時に堂々とひったくられて、あっと立ち上がった時にはドアが閉まるという様子が目に浮かぶ。駅が近くなったらしっかり握りしめて身体に近づけておいたほうが良い。
 ところが日本の電車ときたら、そもそもスマホを置いて寝ている輩までいる。さすがに危ないと思うが、それだけ安心感があるという事なのだろう。

 そんなわけで、電車の中ではニュースチェックとともに短い語学学習が日課となった。膝の上にスマホを置く勇気はないが、片手で十分である。ところが始めてみるとひとつ大きな問題があった。誰も大声で会話をしていない電車の中がうるさいのだ。
 ひとつの理由はモーター音だが、最近のノイズキャンセルが乗ったヘッドホンなら語学学習には困らない程度に音を低減してくれる。問題は社内アナウンスだ。それでなくても駅間が短い都会のコミューターで、駅を出た直後と駅に止まる直前に何度も駅名やら何やらが繰り返される。自動音声が流れてもなお車掌が駅名を言い、次に優先席への協力が流れ、英語で全部を繰り返し、やがて窓開けへの協力やマスクの着用、社内での会話の中止依頼といったコロナ対策がアナウンスされると、ふたたび英語で全てが繰り返されて、気づけば次の駅がまもなくである。騒音をカットしてもアナウンスはよく聞こえるように調整されているヘッドホンでは、ずっと耳元でアナウンスが続いているようなものだ。何もかもが丁寧な日本の電車は、その代償として、アナウンスという騒音だらけの電車となっていた。知らない土地では頻繁なアナウンスは安心だし、足元に気をつけろというアナウンスすることの意味が良くわからない指示を除けばありがたい。ただ語学学習するにはやかましいということだ。電車は移動手段なのだから何の文句もないが、少々うるさすぎはしないかと思うのである。
 加えて実は目にもうるさい。電車だけでなくバスも相当にうるさくて、それはもう驚くレベルである。吊り広告が目にうるさいのはわかっていた。時に不愉快さをも感じる広告は、それでも以前よりは改善されたそうだが、以前からたびたび指摘されてきた事だ。しかも、広告に加えて、さまざまな情報が目に飛び込んでくる。
 足元にご注意ください。段差があります。手摺におつかまりください。手荷物は棚に。混雑時以外はここには座らないでください。急ブレーキにご注意下さい。ちかんに注意。窓から手を出さないで下さい。優先席。抗ウイルスコート済。換気をしています。窓開けにご協力下さい。
 そんな中にあって驚かされたのが、窓開け目安の定規である。何と全ての窓に、ここまで窓を開けてほしいという線が書いてある。10cmだそうだ。どうして定規のデザインなのか、12cmだろうが13.5cmだろうがどんな幅でも正確に開けられる目盛がなぜ打ってあるのか、そもそも誰のためなのか想像もつかないが、窓開けに協力する時にはちょっと緊張する。きっと多少誤差があっても良いよねと。2分遅れのお詫びを聞きながら、きっと余計なことを考えるのだった。

次回に続く

Bonne journée, Cross Cultural

カウンター・カルチャー・ショック(3)

前回から

 ブルターニュを発つ前、フランス在住の日本人の知人がニコニコしながら教えてくれた。
「日本に行ったら楽ちんですよー。みーんなお膳立てしてくれます。まず1番の窓口に行って、書類を見せると番号札をくれて呼ばれるまで2番で待って下さいって。書類書いてたって教えてくれるし、クレームしなくたってちゃんと進むんですよ。だからJALに乗りたいですよね。ロワシー(シャルルドゴール空港)のJALの搭乗口をくぐった時から何でも丁寧にサポートしてくれる日本なんですから。ホッとしますよね。」
 そうか、きっとそうだ。そうに違いないが、すっかり自分でなんとかする癖がついてしまった。サンプルに倣って書類を書いたって、ついこれでいいですかと確認してしまうのだ。コンビニのレジだって、商品をスキャンしてもらったら、つい金額や商品名を覗き込む。レジに何か表示されればつい確認する。
 もちろんそんなに心配する必要もない。表示されている通りにタッチパネルを押していけば良い。何も考える必要などないし、間違いようもない。まぁ、ちょっと戸惑うのは確かだが、ちょっと戸惑いながらもそのスムーズさに「えーっ」と驚くだけだ。それで十分だ。順番に進むだけで何もかもが完了してしまうのだから。

 だったら店員なんていらないじゃないかと思うのだが、でも、そうでもないらしい。急に思い出して随分前に作ったポイントカードを取り出し、指示通りに操作してみたらカードが読み込みエラーとなったのだ。あららともう一度やってみたがダメだった。さすがにここで店員の出番となった。
「カード、ちょっとよろしいですか?」
 そう言って店員はカードを抜き差しし、もう一度読み込みを行った。やっぱりエラーだ。
「番号で処理しますね。」
 店員はカードの数字を眺めながら16桁の数字を打ち込む。きっと古いからだめなんだと思っても、すでに店員は何かしらカチャカチャと忙しくしていて声もかけにくい。
「ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません。」
 心からすまなそうにしている。いや、申し訳ないのはこちらのほうだ。だって、あなたが何か間違ったわけじゃない。そのカードが読めなくなっているだけなのだ。その読めないカードを思いつきで出したのは自分の方だ。古いカードを突然出されたというのに、一所懸命対応してくれているあなたに何も落ち度はない。
 きっとこれがフランスだったら「読めないわね。諦めて。」で終わりに違いない。そして客はこう言うのだ。
「前は使えたんだからそんなはずはない。ポイントがつかないのは不利益だからもう一度やってみて。」
「でも、読み取りエラーってなるからダメね。」
 店員はもう相手にする気もない。そうやって初めて次のステップだ。
「あなたは良くやってくれている。ありがとう。古いカードが読めない仕組みを提供している会社の責任ですね。でも私はポイントを失うことになるのだから、もう一度やってみてほしい。あなたの努力に感謝する。」
「ちょっと電話して上司に相談してみるから待って。」
 そうやって例外処理が始まるわけだ。だからフランスは時間がかかる。
 でも、日本ではなぜか責任のないアルバイトが顧客に謝ったりもする。「あなた、安い賃金のバイトでしょう。謝らなくていいから。」なんて言いたくなる。そんな調子だから交渉したりする必要もほとんどない。そんな楽ちんな典型例はお役所である。

 フランスから日本に引っ越すということは、日本に住民票を作るということを意味している。そのために区役所で転入届を処理することが引っ越しの第1歩だ。つまりは、あの悪名高いお役所仕事が第1関門となる。ところが、悪名高いというのはどうも根拠のない話でしかないようだ。
 まず驚くことに、何をしたい人は何番に行けと明確に入り口に書いてある。ご丁寧に案内所まであって、聞けば笑顔で教えてくれる。場合によってはそこまで連れて行ってくれて、
「まずはこの書類を書いてくださいね。」
と書類まで取ってくれたりする。
「戸籍はこちらですか?でしたらここに…。」
 これがフランスだったらまずはボディ・チェックからで、金属探知機まで当てられた上に、ようやく中に入って窓口の並ぶ部屋まで行ってもほとんど何も書いていない。「えーと、免許証の受け取りはこの列ですか?」
なんて警備員に聞いてみて、初めて場所が分かったりする。しかも教えてくれるのはその警備員ではなくて、列に並んでいる一般市民である。「ここだよ」と。

 ここでは窓口に転入届を出せば、引き換えに渡されるのは番号札である。やることといえばその番号札の番号が掲示板に表示されて呼び出されるのを待つだけだ。ふと番号札を見れば153なんて番号が書いてある。だが、そんなに待つのかとあたりを見回したところで100人も待っているわけがない。順番が前後することも多いからランダムな番号が振ってあるだけのことだ。後3人で自分の番だと思ったら後から来た人が先に書類受取ということもあることへの配慮らしい。そうやって自分の番号が毒々しい赤で表示されることを期待して掲示板に目をやると、担当者がこちらを見て言う。
「135番の方」
 惜しい。宝くじではずれた時の気分はこんな感じだろうかなどと想像していると、別な担当者が声をかけて来た。年金の処理もあるらしい。そんな話をやりとりしているうちに自分の順番がやってきた。自動販売機で予め購入しておいた手数料のシールを渡し、気づけば手続きは終わっていた。

次回に続く

Bonne journée, Cross Cultural

カウンター・カルチャー・ショック(2)

前回から

 いつまでも終わることのない引越し作業に追われているわけにもいかず、仕事らしい仕事を始めるためには、職場なるものに身を移すのが良い。人は、環境が変われば気分を切り替えられるものである。

 その朝、その「職場」に向かう途中でカフェオレを買うためにコンビニに立ち寄った。「そうそう、以前は朝によくコンビニで飲み物を買っていた。」などと、どうでも良い習慣を思い出す。ズボンのコインポケットからジャラジャラとコインを取り出して手のひらの上で選んでいたのも束の間、まもなく面倒になってカードで払うようになった。今回はいわゆる交通カード払いである。スマホでタッチすれば終わりだから面倒さもない。
 ブルターニュだってアップルウォレットもVISAタッチも使えたし、それどころか日本より電子決済はずっと普及していたが、朝は肝心なそれを使う場がなかった。フランスというかヨーロッパにはほとんどコンビニがないのである。 そんなこともあってブルターニュで仕事をしていた頃は、職場のキッチンでコーヒーを淹れていた。フランスのコーヒーである。コーヒーといえばまずはエスプレッソであって、ついクロワッサンかシュケが欲しくなる代物である。朝から飲むにはちょっと強いが、場所が違えば習慣も違う。もちろんその朝のエスプレッソとシュケを楽しむ瞬間が1日の目標と課題を確認する瞬間でもあったから、リラックスと緊張を両立させる役立つ習慣でもあった。
 日本でもキッチンでコーヒーを淹れられるが、日本なら基本はペーパードリップが多いだろう。少なくとも日本の職場にはエスプレッソマシンは置いていなかった。またあの甘酸っぱい香りが楽しめるのは嬉しいが、ペーパードリップは要は面倒だ。 そうなるとコンビニである。数えきれない種類の飲料が、カラフルな無数のペットボトルに入れられて売られている。毎朝の気分で選んで良い。いや、そもそも種類が多すぎて違いすらわからないほどだ。大き目の店舗ならまるでフランスのワイン売り場かチーズ売り場のようで、冷蔵ケースのガラス越しにじっとラベルを読まなければならないくらいに種類がある。コンビニのガラスケースに張り付いてカフェラテのラベルを一心不乱に読んでいるのはきっと変なやつに見えるに違いないが、そうでもしないと微糖とビターの違いも分からないのである。せっかくたくさんの種類があるのだから選びたい。
 正直に言えば、グラスやカップではなくボトルから直接飲むのははしたない気もするが、日本では気にする人などほとんどいない。フランスではほぼ見かけることはないペットボトルからの直飲みが、日本では最も一般的な飲み方なのだ。誰もが豪快にペットボトルから直接飲み物を飲んでいる。それで良いのだ。便利なものである。もうカップもグラスも用意する必要がない。 コンビニでようやく見つけた美味しそうなカフェラテ(なのかカフェオレなのか)を手に取れば、その隣のボトルはなんだか少し大きいような気がしてまたじっと眺めるわけだが、35度の炎天下でもなければ量はさほど重要ではない。ようやく決心してレジに向かう。

 しかしあの一見さんお断りのレジである。ヨーロッパよりずっと現金主義でカードも使いにくかったはずの日本のレジは、いつの間にか独自の進化を遂げていたのである。
 深呼吸してレジの前に立った。
「おはようございます。」
人が良さそうな店員さんに向かって、大声にならないように気をつけながら、それでも朝らしく歯切れ良く挨拶をする。マスクをしてはいるが、精一杯の笑顔である。アルバイトと思われるその店員は、しかし、戸惑ったようなそぶりで小声で返した。
「いらっしゃいませ。」
なんとなくぎこちない。
「えーと、PASMOでお願いします。」
「こちらです。」
アルバイトは手短にパネルの位置を指し示した。そこで気がついたのである。店員と顧客の接触を極力減らそうとしているのだと。お客様の立場のほうがどこか強いのが当たり前の日本ではあったが、この2年ほどで、感染対策のため、商店での挨拶もあまりしないようになっていたのだろう。
 その後、いくつかのコンビニに立ち寄ったが、総じて挨拶や会話は少なくなっているようだった。自分の行動が心配になって他の人の行動をそっと眺めて見たが、黙って商品をカウンターに置き、黙って支払いパネルを押すか、「カードで」だけを言う人も多い。もちろん、「おはようございます」と明るく挨拶する店員もいるから自然とそのコンビニに行くようになった。未だにマスクもしているし、透明ビニールが店員と客を隔てているのだから、大声でなければリスクもかなり小さい。慎重できめ細かくかつ対応の早いコンビニはとても嬉しいが、限度というものがあるのだ。挨拶しないのはちょっと受け入れ難い。
 そんな言い訳をしながら、最新のレジと戦っている。

次回に続く

Bonne journée, Cross Cultural

カウンター・カルチャー・ショック(1)

 さほど時間が経ったわけでもなく、何かを忘れてしまったわけでもない。毎日欠かさず繰り返し飲んでいた甘酸っぱいコーヒーの香りがちょっと苦くなったことを気に留めなくなった程度に、乾いた夏と湿った冬の狭間に転げ落ちたような何年かが、想像していたのとは違う時間軸で流れていただけだ。静まりかえった青と薔薇色の海岸と緑色に塗られた牧場とがどこまでも続くブルターニュは、少し長が過ぎるプロジェクトという時間軸の中のほんの一部を過ごすだけの場所だったはずだった。それが、ちょっとした手違いと気まぐれな人の思いとで国境に壁が広がり、明日と昨日との区別が難しくなったのだ。ただそれだけのこと。その短い年月をブルターニュで過ごす間に、横浜にはブルターニュとはちょっと違った時間が過ぎて、どこかに見えない間隙が出来てしまったのだろう。そういうものだ。
 ただ、その間隙を作ったのが誰かが名付けたパンデミックなのか、それともすっかり不確かな気分で過ごす自分自身なのかは、よくわからない。住み慣れた横浜にただ再び移ってきただけだった筈が、時々宇宙から舞い戻ってきたように異質な空間に変容する瞬間があるわけで、それをカウンター・カルチャー・ショックと言うのか、単に忘れっぽい性格の結果でしかないのか、どうにも判断しようがないのだ。ともあれそれが何であれ、そんなおかしな瞬間が不意に現れることだけは確かである。きっとどこかにある社会への不適合性とか、慣れているはずの社会への甘えとか、そんなものが背景にあるのだろうとは思っている。だから、その違和感のようなものをカウンター・カルチャー・ショックと呼ぶべきではないのかもしれない。
 来週は、そのような違和感の例に触れる予定である。
 なお、カウンター・カルチャー・ショックはリバース・カルチャー・ショックとも言う。微妙にニュアンスは異なるが、書こうとしている内容からはさして違いはない。

次回に続く