Bonne journée, Photo

A Window

201710-111

Sometimes you just have to jump out the window and grow wings on the way down.
– Ray Bradbury

時には窓から飛び出して堕ちゆく中で羽を生やすことも必要なのだ。
– レイ・ブラッドベリ

窓は外を見るためにある。
暑い風が淀む夏も冷たい嵐の夜も、快適な家の中から外見るためにある。
窓は光を取り込むためにある。
朝の温かな食卓も本を読んで過ごす雨の午後も、日々を過ごす光を得るためにある。
だから思い切って窓を開けて外に触れなければ、自分の本当の姿をいつか忘れることになる。

Windows are for seeing outside.
At a summer noontime flowing slack air,
At a stormy night brushing chilly rain,
It always gives you a delightful place to know outside.
Windows are for getting a light.
At a warm breakfast place,
At a rainy afternoon with a ennui book,
It always gives you a light to spend your days.
Sometimes you have to get into nature in order not to miss yourself.

my second contribution to WPC:Windows 

Art, Bonne journée

Yokohama Triennale 2017

201709-111

ヴァンクーヴァー美術館の照明の落とされた隅の部屋で見た Janet Cardiff & George Bures Miller the Killing Machine はボタンを押すのにひどく勇気のいる作品だった。その互いの姿もはっきりとはしない他人同士がたまたま同じ場所と時間を共有しながら、いつか不安までも共有する共犯者であるかのように静かに息を殺す深淵へと落ちていく時間は、早くそれを終えて抜け出したくなる程に永遠とも思われた。光と音が交錯する器械はコンテンポラリーアートの典型的な手法のひとつではあろうが、そこにそれがあるという存在感ゆえに逃れられない現実となってアートという特別な今を超える。

201709-112ヨコハマトリエンナーレの会場のひとつである赤レンガ倉庫で案外空いている午前中のゆっくりとしたひと時を過ごしながら、久しぶりにその不思議な現実感を味わった。かつて山下埠頭で開催された時(2005年)のダイナミックとも形容できそうな巨大な仕掛けと較べればずっと洗練されてはいるが、あの時もどきどきするような現実感を感じたように、今回もどこか頭の隅で警告が鳴るような感覚を覚えた。The Killing Machineにも共通するそれが何かはわからない。ただひとつ、そこにある現実感だけは共通して感じている。
ヨコハマトリエンナーレでは、必ず自分がアートの中に紛れ込む。コンテンポラリーアートには映像のみの作品やオブジェを単に楽しむものも多いが、これだけの規模にもなればインスタレーションの現場に居合わせることもアートの中に入り込める作品も多い。かつて原寸大サッカーゲームで遊んだように、今回も作品の一部になって楽しめるものも少なからずある。
だからコンテンポラリーアートはやめられないのだ。

Art

ヨコハマトリエンナーレ2014

201410-041The article “Yokohama Triennale 2014” was written only in Japanese.

何も書かれていない白を見る。じっと見る。目を凝らし、何も見逃すまいと隅々まで眺める。何の変哲もない四角に切り取られた白い枠を覗くように見る。首を伸ばし、何ひとつ変わったところのない異常な白を見てみる。足音が聞こえてくる。リーフレットのノイズとともに近付いてくる誰かを肩の向こうに感じながら、また何も書かれていない白を見る。体をおこし、3歩下がる。どこか不安を感じて周囲を見渡し、周囲にある他の作品を感じながら再び観る。首筋を掻きながら、もう一方の手で腰を押さえ、白い空間を凝視する。そこに白がある。白い色はやがて影を持ち始める。わずかな陰影に白が歪み、クリーム色の模様が見えたような錯覚をおぼえる。しかしてそこには完全な白がある。

首を曲げて離れた場所に置かれたケースを見る。また白を見る。小さな説明書きに気付き、それを読む。作品名と作者の名前を作成年と共に記してそれ以上何も語らない四角は、白い四角を残して記憶から直ぐに消えて行く。白いそれから目を逸らし、離れたケースを見に近付く。ゆっくりと近づく。五線譜と説明書き。書かれていない音符。白い五線譜。ノイズ。

201410-047白い空間を漂いながら、次の部屋に迷い込む。自らの意思で迷い込む。そうやって迷いながら歩きまわる間に、時は容赦なく流れていく。生きるイメージと死を約束されたイメージ。その狭間に、時は流れていく。容赦なく流れる時間の中で、もどかしいほどゆっくりと作品が動く。ふと気付くと、強烈に色が自己を主張する。

開催の度に参加する横浜トリエンナーレは、まさに参加すると言う言葉が合っている。ぼんやりと眺めることもできないわけではないが、いつも必ず自分が作品の中にいるような錯覚をおぼえる。それがインタラクティブ性やインスタレーションそのものが作品と成り得るコンテンポラリーアートの面白さでもある。いつだったかのトリエンナーレ。実物大のサッカーゲームに興じながら、自分自身が参加しなければ感じることのないアートを楽しみ、狭い隙間を障害物を避けながら今を感じた時、観るアートはリアルタイムで存在するアートに変わったのだろう。

昨年はすっかり話題になっていた”The Clock”を見て、正午を迎える緊張感と正午を迎えた安堵感を同時に味い、急にランチタイムにしたくなったのが妙に記憶に新しいが、それでもなお、アートの中にいる感覚、あるいはそこにあるアートがある意味全体の印象であることは間違いない。

横浜のビルに巨大なバッタが取り憑いてから13年。次はまた3年後なら参加しておかなければならない。11月3日まで。