Bonne journée, Photo

winter, rain, habitude

この文章を書いている今、カステックス首相と閣僚が近くの街を訪れているという。何のための訪問なのか関心を持つべきなのだろうが、第二外国語というか第三外国語というか、大してわかりもしない言語で書かれた記事を読む気にはなかなかなれない。そう言えばその前のロックダウンでは、マクロン大統領が来ていたななどとぼんやり思い出す。ブルターニュ地方は、パリジャンやパリジェンヌからはバカンスに訪ねる身近な田舎らしいが、何となく縁遠い話である。

そのパリは今、セーヌ川の水位が上がってシテ島の一部などが見ずに浸かっているらしい。そもそもフランスのあちこちに洪水注意報が出ているのだが、あまりにあちこちでしかも大雑把な情報だから、どこが本当に危険なのかよく分からない。このブルターニュも先日まではちょっと水位が上がっている部分もあった。もっとも、ブルターニュといえば雨の多い地域として知られていて、冬の間は(つまりは10月下旬から3月末までは)、雨の降らない日を晴れと呼ぶという冗談がよく飛び交っている。いわく、ブルターニュでは傘をさしてバーベキューをするとか、どうせいつも降っているから傘は持たないとか、カレンダーに晴れと雨の印をつけていけば晴れが勝つこともある(つまりはマルバツで斜めに晴れが並ぶ)とか、いつもどこか自虐的である。

都市封鎖(ロックダウン)とまではいかないが、ショッピングモールやレストランが閉まったままのフランスで、誰もが静かに家で過ごすなど普通に考えればあり得ない。少しは外に出なければ、体調も崩すだろうし、食糧だって買わなければならない。だからせめて雨の中でも散歩をしようと考える。でも、ひょっとすると「雨の中でも」と考えるのは横浜の住民だった自分だけで、案外皆さんは普通なのかもしれない。そう言えば今朝は、冷たい小雨が降る中、多すぎる雨に茶色に濁った運河をカヤックを漕ぐたくさんの人が、楽しそうに進んで行くのを見たのだった。何と強いブルターニュ人。

Bonne journée, Photo

35mm F1.4

進化しないものだなとつくづく思う。戦前からほとんど何も変わっていないに違いない。確かに黒く光っていた金属部分の多くが強化プラスチックに置き換えられ、モーターが組み込まれたどころかCPUまで内臓されたのだから、アンリ・カルティエ=ブレッソンが世界を駆け巡っていた頃との違いは小さくない。とは言え、重たいガラスの固まりを包み込んだその形は同じである。カメラのレンズの話である。

カメラにもレンズにも愛着はない。もらったオリンパスや安く買ったキヤノンのカメラはいつか傷だらけになり、地金が出てきたあたりから扱いがぞんざいになって、いつかどこかにいってしまった。

いつも使っている今のカメラには20年前のレンズをつけて旅に出るが、もちろん手振れ補正なんてついていない。恐らくカメラマウントさえ合わせられれば50年前のレンズだって何も不都合はないのだろう。撮影していて液晶画面もほとんど使ったことがない。何かは撮れているに決まっている。確かにiPhoneよりは歩留まりが良くないだろうが、レンズの塊を通して大型のセンサーに集められた光を束ね、妙な画像処理をあまりせずに作られた写真はいかにも透明で、その良さは背面液晶パネルを見たところで判らない。たとえ20年前のレンズであってもである。

正直に言えば、最良の写真はiPhoneで撮影したものだと思っている。メインで使うカメラは何ですかと聞かれれば、間違いなくiPhoneである。時間と空間を切り取る道具として、手軽であることは最も重要な要素なのだ。それでもガラスの塊のようなレンズと大きなセンサーや昔ながらの35ミリフィルムで撮った写真には、そのレンズが安物であろうがひどく古い電子制御もないものであろうが、違う空気が漂う。ある意味、カメラもレンズも何だって良い。昔からあるカメラとして成り立ってさえいれば良い。基本的な構造は何も変わっていないのだ。

そんなわけで、毎回必ず写真をアップしているこのブログで製品名を書いたことはほとんどない。製品名があるとそれだけで自分の写真ではなく、カメラが撮った写真のような気がしてしまう。このレンズだから撮れた写真だと考え始めたら、アンリ・カルティエ=ブレッソンのような写真が撮りたいだなどと言えなくなってしまう。

さて、今回は、例外である。ロックダウンが長引いていることもあって、写真を撮ることが遊びみたいになるよう、安物のレンズを買ってみた。電子接点もないから絞りは手動だし、もちろんオートフォーカスなど付いていない。少し古臭いレンズ設計のようで、少し絞らないとボケがうるさくなったりもするし、画像の歪みも気になることもある。APS-Cサイズのカメラ用に売られている中国の銘匠光学TTArtisan 35mm F1.4である。ちょっと試してみただけだが、きっと癖が出るくらいには絞りを開けた方が、面白い写真が撮れそうである。

さて、久しぶりに電子接点のないレンズで写真を撮ってみて、後になってからつまらないことに気がついた。電子接点がないから焦点距離も絞りも何も記録されないのである。そう言えば、レンズなしでも撮影できるようにカメラの設定を変えたっけなどと、今更になって思い出している。

Art, Photo

Street

海からの少しこそばったい風を感じに行くことはおろか、窓を開け放つこともあまりなくなった晩秋の午後、時間に追われるようにキーボードを叩いている自分よりもずっと速く、干からびた時がその瞬間を追い越していくような気がして、冷たさを感じ始めた指先を眺める。昨日と同じ何ひとつ変わらないくたびれた手が忙しない動きを止める。他人の手。自分の指。確かめる必要のない指先にキーボードの黒い石が規則正しく圧力を与える。
バカンスとクリスマスの間に落ち込んだ街にようやく他人事のような静けさが染み込み始め、夏の終わりに出しゃばりすぎたアコーディオンの音色も、つぶれたマロニエの実のようにいつの間にか歩道の隙間に沈み込む。今日もまた騒がしかった夏風の音を懐かしむように窓の外を眺める。他人の土地。仮の住処。締め切った窓ガラスのすぐ向こうにある壁を取り外そうとする。

街を歩いていて偶然出会したSethのストリートアートと展覧会の案内。さして遠くはないが行く機会はなさそうである。写真を撮るなら少しはリスペクトしたいと街並みを背景に封じ込めてみた。

Bonne journée, Photo

autumn

もうずいぶんと長い間自分の事を書いていないような気がしている。書いていない訳ではないだろうが、何を書いたのかすら忘れてしまうのがいつもの癖のようになっている。それは恐らくは代わり映えのしない日常が、何かを忘れるように仕向けているからに違いない。

フランスでは新型肺炎の感染が拡大を続けていて、厳しいロックダウンで一度は安定した状況も再び悪化し始めている。誰もが列に並んででも検査を希望し、一方で誰もがいつものカフェでいつものようにおしゃべりをしたがっていて、そしてそのアンビバレンツな状況を誰もが気にしていない。それが代わり映えのしない日常でもある。いちいち何が起こっているかを考えるようなことでもない。

代わり映えのしない日常が代わり映えのしない時間の中で過ぎて行けば、ある日突然気づくこともある。何も変わっていないと思っていた風景が、ある日突然グルグルと回りだす。昨日まで光り輝いていた夏は雨に濡れる秋となり、どこか埃っぽかった森が、生き生きとした鮮やかな色を纏いだす。今まで気づきもしなかったリスが下草の枯れた森の奥を走り回り、苔むした大地の中で湿った青い匂いが鼻をくすぐる。風に散る秋の葉はもうすっかり朱に染まっている。

いつものように森を歩き、いつものようにウサギの後を追えば、着古したジーズの裾は泥に汚れ、肩には雨水がシミを作る。ほっとする秋である。

Photo

juin

まさか教会の鐘の音を聞いてほっとする日が来るなど想像してもいなかったが、家の窓を開け放ち初夏の風を感じれば、日常が戻ってきつつあるのだと実感もするものである。池の周りや森の木々の間を歩きながら何も変わらないトンボやウサギにじっと目を凝らし、最大3人と書かれた店のドアの外でジリジリと照りつける乾いた太陽を感じながら自分の順番を待つ。この先に何があろうと、時は流れ続けるものなのだろう。

I have never imagined that I would be so relieved to hear the sound of church bells. Our daily life is going to back to something new slowly.