Art, Photo

Street

海からの少しこそばったい風を感じに行くことはおろか、窓を開け放つこともあまりなくなった晩秋の午後、時間に追われるようにキーボードを叩いている自分よりもずっと速く、干からびた時がその瞬間を追い越していくような気がして、冷たさを感じ始めた指先を眺める。昨日と同じ何ひとつ変わらないくたびれた手が忙しない動きを止める。他人の手。自分の指。確かめる必要のない指先にキーボードの黒い石が規則正しく圧力を与える。
バカンスとクリスマスの間に落ち込んだ街にようやく他人事のような静けさが染み込み始め、夏の終わりに出しゃばりすぎたアコーディオンの音色も、つぶれたマロニエの実のようにいつの間にか歩道の隙間に沈み込む。今日もまた騒がしかった夏風の音を懐かしむように窓の外を眺める。他人の土地。仮の住処。締め切った窓ガラスのすぐ向こうにある壁を取り外そうとする。

街を歩いていて偶然出会したSethのストリートアートと展覧会の案内。さして遠くはないが行く機会はなさそうである。写真を撮るなら少しはリスペクトしたいと街並みを背景に封じ込めてみた。

Bonne journée, Photo

autumn

もうずいぶんと長い間自分の事を書いていないような気がしている。書いていない訳ではないだろうが、何を書いたのかすら忘れてしまうのがいつもの癖のようになっている。それは恐らくは代わり映えのしない日常が、何かを忘れるように仕向けているからに違いない。

フランスでは新型肺炎の感染が拡大を続けていて、厳しいロックダウンで一度は安定した状況も再び悪化し始めている。誰もが列に並んででも検査を希望し、一方で誰もがいつものカフェでいつものようにおしゃべりをしたがっていて、そしてそのアンビバレンツな状況を誰もが気にしていない。それが代わり映えのしない日常でもある。いちいち何が起こっているかを考えるようなことでもない。

代わり映えのしない日常が代わり映えのしない時間の中で過ぎて行けば、ある日突然気づくこともある。何も変わっていないと思っていた風景が、ある日突然グルグルと回りだす。昨日まで光り輝いていた夏は雨に濡れる秋となり、どこか埃っぽかった森が、生き生きとした鮮やかな色を纏いだす。今まで気づきもしなかったリスが下草の枯れた森の奥を走り回り、苔むした大地の中で湿った青い匂いが鼻をくすぐる。風に散る秋の葉はもうすっかり朱に染まっている。

いつものように森を歩き、いつものようにウサギの後を追えば、着古したジーズの裾は泥に汚れ、肩には雨水がシミを作る。ほっとする秋である。

Photo

juin

まさか教会の鐘の音を聞いてほっとする日が来るなど想像してもいなかったが、家の窓を開け放ち初夏の風を感じれば、日常が戻ってきつつあるのだと実感もするものである。池の周りや森の木々の間を歩きながら何も変わらないトンボやウサギにじっと目を凝らし、最大3人と書かれた店のドアの外でジリジリと照りつける乾いた太陽を感じながら自分の順番を待つ。この先に何があろうと、時は流れ続けるものなのだろう。

I have never imagined that I would be so relieved to hear the sound of church bells. Our daily life is going to back to something new slowly.

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

jeudi

 「その昔」と文章を始めるのも気がひけるが、もはや黴臭い歴史の一部分になりかけたセピア色のバブル期は、時間軸が思いがけず地滑りを起こし始めた転換期だったのだろう。経済の話ではない。今や誰もそんな事に興味はない。週末の定義である。
 かつて週末の夜と言えば、土曜のきらびやかな時間を指していた。サタデーナイトはディスコティークと同義語だったし、汚れたワイシャツを身に纏ったゾンビが原色の街を徘徊しても誰も驚かず、その意味も了解できたはずである。もはや映画や音楽という歴史資料から紐解かなければならない遠い時間の彼方とは言え、まだまだ年末には美空ひばりが現役なのだから、大正浪漫と同義にできるほどの過去というわけでもない。
 それがしばらくして地滑りを起こす。週末の夜が金曜日にとって変わられるのである。ふくれた地下鉄が核心へ乗り込む金曜日と週末の馬鹿騒ぎの間には直接の関係はない。むしろ皆が集まって騒いだ土曜の夜は、もっとプライベートな金曜の夜へとすり替えられてきた。すっかりバブルがはじけて10年の夜が過ぎれば、それは夜どころか金曜の午後に移り、早く家に帰る口実ですらある。

 死刑囚のパラドックスと呼ばれるものがある。もはや死刑囚などという政治的に正しいかどうか疑わしい言葉が使われる時点でパラドックスであるのだが、そんなメタな話ではなく、よくあるパラドックスの例として知られたものである。
 死刑執行を独房で待つ希望のない囚人の元に、ある日役人が訪れる。とうとうその時が来たかと震える死刑囚に役人はこう告げる。
「あなたの刑は来週の土曜日までに執行される。あなたは、予めその日を知らされる事はない。それは禁じられており、お伝えできるのは来週のいつかという事だけだ。だが安心しなさい。執行の前日には知らせるから、あなたはその晩に神に祈ることができる。」
 役人が帰ると死刑囚は喜んだ。これで刑が執行される事はない。もし木曜日になっても何も通知されなければ、執行が最後の土曜日だとわかってしまう。なぜなら前日の金曜日には必ず通知されなければならないからだ。つまり、土曜日に執行される事はない。そうなると金曜日が執行される可能性がある最後の日という事になる。だが、同様に水曜日までに何もなければ、土曜日には刑が執行されないのだから金曜日が執行の日だとわかってしまう。つまり、金曜日も執行できない。そうやって考えれば、どの日にも執行することができない。死刑囚は、法の不備を神に感謝した。
 翌週の半ば、ゆっくりと昼食を食べ終えた死刑囚の元に役人は再び現れた。
「明日、刑が執行される。今夜は神に祈りなさい。」
 予想だにしなかった木曜日、刑は執行された。

 週末に囚われた都会という名の石の独房で、今日も人は誰かと時を共有している。その「時」がカレンダーや時計にしがみつかなければならない現実時間であるのか、ただの妄想なのかは案外分からない。
 たった今住むこのフランスの街の一角では、週末の夜は木曜日に訪れる。死刑囚のパラドックスとは関係ない。親しい人と過ごす週末のためには、悪い仲間と羽目を外すのは土曜日でも金曜日でもなく木曜日でなければならない。ただそれだけのことである。
 親しい人と過ごす週末は、土日ではなく、金曜の夕暮れが夜に変わった時から始まっているのだ。

Cross Cultural, Photo

made of

Made of metal, wood, stone and a leaf.
This is the place urban dwellers lives.
Made with metal, wood, stone and you.
This is the place you belong to.
That’s why you can’t escape from yourself in the city.

都会人が住むその場所は、金属と木と石と1枚の葉でできている。
帰属しているその場所は、金属と木と石とひとりのあなたでできている。
だから街から逃げ出すなんて出来るはずもない。