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A Book: 台湾生まれ 日本語育ち

201804-211Written in Japanese.

少しばかり面倒で気が抜けないが、それでも一番充実していると断言できるその仕事をこなす時、英語とフランス語と日本語が交じり合った時間の流れは避けようもない。もう何年も過ごしてきた混沌とした時間である。
言語など問題ではない。数式でもソフトウェアプログラムでも良い。人はひとと伝えあうことで息することが出来る生き物であって、それを支える言葉とはそんな道具なのだ。そう感じてきた。スラスラとは出てこない英語であっても、伝えあう言葉を持つことが重要なのだと。
その一方で、成田空港に着陸した機体が軋む音に、不思議な安堵を覚えてほっとする自分がいる。自然に口が動いて音を発する日本語が当たり前のようにある場所に帰ってきたからであるかもしれない。住み慣れた場所だからではない。もう何年も故郷など気にしたこともない。だが、伝えるための言葉が伝わる場所であることへの安堵は隠しようもない。だから、伝えるための言葉と伝えることを意識する必要のない言葉には、どこかで線が引かれているのだろう。日本語で機内食を頼み、テルマエロマエをウトウトしながら楽しみ、MUJIのトラベルピローで眠っていた隣の旅人が、着陸態勢に入った機内で確かめるようにバッグから取り出したパスポートが日本のものではないと知った時、母国語と母国のつながりは歪んだ椅子に不意に座ってしまったかのように急速に揺らぎ始め、確固たる概念は霧散する。言葉はどこかで、国境と言う誰かが勝手に引いた線で区切られているものだと理由もなく信じてきた自分が、それこそ勝手に描きこんだありもしない線とは無関係にそこにあるのだ。

仕事で日本を離れ、コミュニケーションがうまくできないもどかしさを感じながら「海外」で読み始めたエッセイは、思いのほか明るく、センチメンタルで、深く記憶に残った。それはおそらく作品が持つ深みであり、自分の経験が作品と響きあった結果であり、母国語以前の普遍な感覚が背景にあるのだろう。またすぐに再読したくなる作品である。

残念ながら単行本の入手は難しそう。「積ん読」がはけてから注文しようと待っていたら見つからなくなり、Kindleで読む事となった。かえって旅には向いているのでそれはそれでよし。

最近読んだ本

台湾生まれ 日本語育ち
温又柔(著)

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A Book: 見えない都市

201801-311Written in Japanese.

その都市はいったいどこにあるのか。強大な力を持って果てしなく領土を広げゆくフビライと、地の果てまでひとり行くマルコ・ポーロが、それでもまだ知ることのできない都市と、どこかで見た都市を巡って時を過ごす。見知ったようなそれでいて遠い世界のお伽話が、電車で向かう仕事先とさえ重なり合う重畳された時間の流れの中で、じわじわと響きあう。やがて、読者である自分自身がその都市のひととなった。

電車の中にあって片手をあげて寄り添う人々は、誰ひとり言葉を発せず、互いに隣には誰ひとりいないようにふるまっている。たとえあなたがそこで何を目にしようがそれはあなたの脳が見た景色であって、隣で光る板を睨みながら首を捻じ曲げた若者がそこにいたとは限らない。なぜならその若者にはあなたが見えていないからである。それがトキオの慣わしなのだ。あなたがどれほど信じたとしても、時折電車がゆれて黒びかりするバッグが脇腹を押したとしても、それはあなたが感じていると信じる何かではあっても、存在している証明ではない。その若者がようやく次の駅で降りてあなたのとなりに呼吸する空間が出来たとしても、その若者はあなたの存在を微塵も覚えていない。あなたは存在すらしないのだ。あなたが通り過ぎたトキオの街が本当にあったのかすら怪しい。なぜならトキオの住人は誰一人あなたのことを覚えていないのだから。それでもトキオはそこにある。征服されざる街として。

最近読んだ本

見えない都市 (河出文庫)
イタロ・カルヴィーノ 著、米川 良夫

Books

A Book: パタゴニア

201711-411
In Patagonia: Bruce Chatwin

Written in Japanese.

 

見渡すあらゆる地平にはるか遠く空を抱く純粋さを示す場所なのか、吹き荒ぶ凍りついた風が大地の岩に引っかき傷を作りながら突き刺さる太陽の痛みを記録する失われた場所なのか。
ひととひとの単調に繰り返す営みに馴染めない者がやがて吹き溜まる場所なのか、ひとがひとらしく強さと弱さをそれぞれに見せながら生きる都会から少しばかり遠い場所なのか。
記憶はやがて薄れるものではなく、次第に好きなように姿を変えるものである。どこか本棚の隅にしまい込んだはずのパタゴニアの大地の写真は、到底自分が自分の脚で歩いて撮ったものでもなく、雑誌の付録としてあったグラビア印刷の広告だった。その荒涼とした大地には確かに道であると脳の奥でだけわかる砂利の川が流れ、特段憧れるような美しい風景が写っているわけでもなく、ただその見慣れない風景に漠然とした憧れのようなものを感じたのだった。同じ名前のアウトドア・ブランドに少しだけ惹かれていたということもあった。実際、それがどんな写真だったかも覚えていないが、ただひたすら月に降り立ったかのような異空間は、やがて機会があれば一度は見てみたい場所となったのだった。
暫くして再会したパタゴニアは、その南の隅にあるウシュアイアという街となってテレビの中に現れた。南極に向かう船の出発点として、そこはどこか他人事のような風景を引き摺ったコンクリートの街だった。きっと南極に向かう船が眩しかったのだろう。まさにそこにいて頑強な灰色の船に乗り込んだ知人は、ただ美しいと言って多くを語らなかった。それがパタゴニアの習いというものなのだろう。もちろん、一度も行ったことのない遥かな憧れとして。

旅行記の新たな地平を切り開いたとされるこの作品は、現実と幻想がどこかで交錯するフィクションでもある。そこでは時間までもが行き来する。それでいて、それは疑いようもなく紀行文である。読者はいつのまにかパタゴニアを放浪し、太古の時代から現代までを見晴るかす。時に強風に潮がセールをもぎ取って行く海峡を超え、時に銃弾の乾いた音に身構える。そうやって読み終えた時、遠いパタゴニアはそこにある。

最近読んだ本

パタゴニア (河出文庫)
ブルース チャトウィン(著)、 芹沢 真理子(訳)

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A Book: 蕎麦ときしめん

201710-411Written in Japanese.

パスティーシュを面白く受け取れるか、あるいはくだらない遊びと煙たがるか、ひょっとすると気にもしないか。案外Twitterの大喜利になれた今の時代には、安っぽいパロディーとしっかりとした模倣文学の狭間にすっと差し込まれた身近な作品なのかもしれない。
だいぶ前のことでここで言うのもためらわれるのだが、ソフトウェア設計書の手法で東京ディズニーリゾートの説明を書いたことがある。ソフトウェア開発が何かを知らないむきには想像するのも難しいと思うが、何かの物を正確に作ろうと図面などを書いて「設計」する時、おそらくは部品の形や素材まで決めなければならない事程度は容易に想像できるだろう。コンピュータのソフトウェアもさして違いはない。仕事がらその手の書類に慣れていたから、レポート用紙に小さな字で2〜3枚の程度の分量なら昼休みにキーボードを叩けばあっという間に書き上げられる。果たして、そうやってできた文章は本業で書く書類よりもはるかに出来が良かった事は言うまでもない。知人の間で回覧されたその文書はやがて文書管理サーバに格納され、しばらくは他の書類とともにしっかりと管理される事となった。
自画自賛という類のものでしかないかもしれないが、古いソフトウェア開発にはそんな文化がある。わざわざそれを持ち出したのは、「蕎麦ときしめん」が明らかに狭い意味でのパロディーでもtwitterの大喜利でもないからである。カップ焼きそばの作り方を芥川龍之介が書くのとは少し意味合いが違うのだ。文体模写を読んで「あぁ、言いそう!」とクスッと笑う楽しみも悪くないが、それとは違う楽しみがこの本にはある。ひょっとすると一度も笑うこともないかもしれない。案外退屈な話ですらある。だったらなぜページを繰るのか?そのモチベーションに面白さが隠れている。
今回はいつものルールを曲げて、作品へのオマージュとしての文章はあきらめている。普段がどこかでパスティーシュのエッセンスを意識しているだけに、ここでやるのは流石に自信がない。

最近読んだ本

蕎麦ときしめん (講談社文庫)
清水 義範

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A Book: 正弦曲線

201709-411Written in Japanese.

セイゲンキョクセンというコムズカシイ単語に騙されてはいけない。本格的な夏の始まる予感を追いやる様に艶やかな無垢材の床で涼をとりながら、駅前で配られるティッシュペーパーほどの厚みしかない文庫本に左手の親指を差し込んで、半ば義務であるかのように反復した。コムズカシイ単語に騙されてはいけない。わずかに黄色味がかったページをもったいぶって繰りつつ、表紙をひらりと返せば上の隅の方に4つの黒い漢字が適当な距離を置いて並んでいる。正と弦と曲と線が一文字分ほどの隙間を挟んで本のタイトルですよと知らせているのだ。
この漢字の組み合わせは正弦と曲線のふたつに分かれるのだろうが、等間隔かつディスクリートに4つの黒ぐろとした文字を並べられるとなんだか怪しい気分になってくる。正と曲の角張ってはいるが端正な佇まいに比べると弦と線は斜め線と横線が忙しい。しかもゲンとセンである。装丁を担当した誰かが罠にはめようと仕組んだのではあるまいかと、表紙を見ながらふと考えてしまうのであった。あらかじめ用意しておいたコーヒーを手にしながら、いつか文庫の黄色味がかった紙から泌みだしたセイゲンキョクセンが頭の周りでピーンと音を響かせていた。
正弦曲線という言葉が誰の記憶にあるわけでもないだろう。中学だったか高校だったかで眠気と戦いながら聞く正弦曲線は、多くの人にとってはサインコサインタンジェントなる呪文が描く異空間の波の一部であって、青い生真面目な線がびっしりと引かれたグラフ用紙の上になんの役に立たつか分からない曲線を描く修行の結果でもある。そのサインコサインタンジェントを唱えながら線を描く修行が、よもや未来の仕事で役に立たつとは誰も思わないであろう。結果、「正弦曲線」と明確に、時にボールドされて記載されたこの4つの漢字は、ほとんどの人の記憶から徐々に消えていくのだ。正弦曲線と言う直線でできた文字を四角い顔をして眺めるより、どうやったら明日を元気に過ごせるかを考える方が明らかに簡単そうではないかと。
そうやって一見簡単そうに見える人生の問いがテツガクとなる瞬間までに、正弦曲線は忘却の彼方へと沈みゆく。疑問を持たずに過ごすには人生は長く、答えを得るには短すぎるというのに。

ファンからすればいつも通り。ただ、とっつきにくいと感じる人もいるだろう。私にはコクのある世間話である。

※ この文章は初夏に書かれた。

最近読んだ本

正弦曲線 (中公文庫)
堀江 敏幸