Bonne journée, Cross Cultural

AI


 先日のニュースで8月第1週だったかのコメの価格が上昇したと言っていたのだが、その理由を農水省が、「新米が出回る前に、在庫を減らすために値下げして売り切ろうとする動きが一服した」みたいなことを言っていると聞いて、思わずため息が出た。JAとか卸とかには調査はしているのだろうが、お盆前に食品の小売価格が上昇するのはいつものことだ。需要が増えるから、自然と価格は上昇する。
 もちろん農水省が正しいのかもしれない。個人的な感覚で軽々に言うべきではない。そうは分かっているが、これまでも米に限らず失敗もしてきた農水省だから、なんとなく、「あんたら、いつもスーパーで買い物しているのか?」と言いたくなってしまう。それらしい理由を見つけると、調査もせずにその考えにしがみつくんじゃないかと勘繰ってしまうのだ。

 似たような話というわけでもないが、AIに関する論調にも、なんだか不思議な感覚を得ることがある。
 最近よく読む記事の論調の一つが、「もうAIは人間を追い越した」と言うものだ。将棋はとうの昔に、囲碁も今となっては人間は、勝てない。クイズの答えはAIには敵わない。問題を聞いて、解析して、最適解を見つけ、解答を生成しても、AI処理の方が早い。クリエイティブな分野だって、AIが人間に追いついてきた。普通の小説や絵なら、AIが生成したものと人間が生み出したものに違いはない。
 でも思うのだ、それってホント?

 そもそも、将棋のような「ゲーム」は、絶対的な解を見つけ出すのが目的なわけではない。人間の脳という限界のある世界の中で、より良い方法を見つけて相手に勝つのを競っている。最近はコンピュータを相手に選べるようになっただけであって、元はと言えば、知人や駅前の将棋センターの愛好者と対戦して楽しむものだ。人間の処理能力には限界があるから成り立っている。そりゃAIで学習してものすごい演算量を使った方が強いに決まっている。
 AIは、馬鹿げた演算量を使ってそうしたやり方を見つけることが出来るから強いのであって、AIが人間より優れているわけではない。ルールに、座布団に座って食事もして、感想戦までするようなことも含めたら、まだそこまで出来るAIは存在しないし、そもそも、
「えーっ、そんな手を思いついたの?」
と驚くのは、相手が人間だからである。AIなら当たり前かもしれない。
 人間の限界を試しているからこそ面白いのだ。

 いや、アートは別だろう、そんな話もある。普通の人には思い付かないような絵を出力してくるじゃないかと。
 いや、絵だってノウハウの塊だ。それを表現したいものに注ぎ込む。まるで写真みたいなリアルな絵を表現したいこともあれば、人間が腕を広げて空を飛ぶ空想を表現したいこともある。心の奥のモヤモヤしたものを繰り返しパターンの抽象画で表現したいこともあるだろう。それは、人間の脳という限界のある世界の中で、より良い表現を見つけて形にするということだ。
 これも人間の脳には限界があるから、それを超えるような表現をしたものに驚かされているのだ。一人の生身の人間ではできないほどのテクニックを知っているAIが、誰かが作り出したあなたの知らない表現方法を使って表現すれば、それは驚かされるに決まっている。
 人間の限界を超えたところにある表現をしているから驚かされるのだ。

 AIを使って、今までできなかったことができるようになる。それは、人間の脳では限界がある処理能力を使うということでもある。つまり、AIが人間を追い越したのではなく、人間の脳の処理能力を超えた演算を行う方法を人間が思いついたのである。
 そうした区別をしないAI技術者がたくさんいる。
 彼らは分かっている。

 AIが人間を超える時が来たと言う方が、分かりやすく、かつ、お金になると。

Bonne journée, Cross Cultural

家習どぅ外習


 毎年、夏休みが終わると、車の運転が荒くなったり、街での騒ぎが激しくなったりするような気がして、気が滅入ることもある。4月頃の新人さんの大騒ぎとは、同じマナーの悪いうるささではあっても、雰囲気も違っている。説明するのが難しいのだが、より幅の広い年齢層の人々が、少々、羽目を外しやすくなるのが、9月から12月なのかなと感じるのだ。
 ここでは、それに対して文句を言うつもりもないし、不快な例をあげるつもりもない。せいぜい言いたいことは、周りを巻き込むようなことだけは控えて、もっと安全・安心に過ごしましょうといった程度である。

 沖縄の言葉に、「やーなれどぅふかなれ」といった表現があるそうだ。聞いたこともないので、本当にあるのかどうかも分からないし、沖縄の言葉に詳しいわけでもない。島ごとに言葉も違ったりするところもあるので、どこで言われる言い方なのかも分からない。ただ、Webで見る限りは、幾つも説明しているサイトがあるので、案外普通に言われる表現(ことわざとも書いてある)なのかもしれない。
 漢字で書くと、「家(や)習(なれ)どぅ外(ふか)習(なれ)」なので、意味は自然と理解できる。「家の習いは、外の習い」言い換えれば「家での振舞いは外での振舞いに出る」ということだ。

 最近は、家ではあまり躾をしないとも聞くが、家庭内であっても「ありがとう」を言う癖があれば、外でも感謝する気持ちも出るだろうし、家庭内で「他人に怒られるから」大騒ぎしてはいけないと教えれば、外に出て「他人から何も言われなければ」ルール違反しても良いと思うだろう。家習どぅ外習の意味を理解しているわけではないが、家庭内の振る舞いは外でも出てしまうものだ。

 実はだいぶ前に、頼まれて採用面接官をしたことがある。関係者が集められて、人事担当者から説明を聞いたのだが、この時の内容に驚かされた。
「いいですか、皆さん大卒の22歳と言ったら、もう大人だと思うかもしれません。違います。皆さんの時代とは違うんです。22歳は高校生くらいの感覚です。正直子供です。もちろん、しっかりした大人の22歳もいます。でも、幼いなと感じて不採用にすれば、採用候補者は少なくなります。育てる視点で見てください。院卒の24歳でようやく成人したくらいの感覚なんです。いいですか、成人式を想像してください。そんな中から、今後、戦力に育つ人材を見つけて、採用しなければなりません。社会人としての教育は、採用後にすれば良いことです。そのつもりでご協力をお願い致します。」
 これは、決して悪口などではない。時代の違いでしかない。人事担当者もその点をしっかり説明していた。

 よく考えてみれば、家庭で学ぶレベルが違ってきていて、社会のために何をすべきかを家庭で十分に学ばなかった「大人」が子育てをする。昔からある話だが、社会環境が変わって、そうした「大人」の割合が少し増えてきたということなのだろう。昔と同じだ。家庭だけでなく、社会が人を育てる。目に余る輩が増えたのは確かだが、全員そうというわけではない。もちろん、今時は、他人の子供を叱ったり褒めたりすると睨まれる時代だから、簡単ではない。それでも、皆で支えて行くしかない。

 でもなあ、20過ぎたら、そろそろ主語を「私」から「みんな」や「あなた」に広げてほしいなあ。

Cross Cultural

国籍を間違われる話


 チューリヒからソウルに向かって飛ぶその飛行機は、中継空港のドバイに向けて降下を開始していた。エコノミークラスの狭い座席で隣の乗客とおしゃべりを楽しんではいたものの、自分はただ、早くその窮屈で背中の痛い座席から解放され、ソウルで成田行きに早く乗り継ぎたかった。たった2週間ではあったが、バックパック旅で疲れ果てていたし、エコノミークラスの背もたれの立った座席で眠れるほど器用ではなかった。ドバイだろうがどこだろうが、一度降機して背中を伸ばせるのは有り難かったが、同時に、とっとと先に進みたいとも思っていた。

 やれやれ、早くも疲労困憊だなんて思いながら、隣の乗客がイエメンの実家に帰るということに少しワクワクもしていた。若かったこともあるが、自分にとっては初めてのイエメン人だった。イエメンがどんな国かも知らないし、アメリカ在住のイエメン人がアメリカでどんな生活をしているのかも知りようがなかった。今となってはもうよく覚えていないが、会話をしていて、イエメンという国がどうやらかなり美しい国のようだということだけは印象に残った。

 そうこうしているうちに、キャビンアテンダントがニコニコしながらやってきた。
「イエメンに乗り継ぎですよね。こちらの書類をどうぞ。」
いや、どう見たってイエメン系の顔立ちじゃないでしょ。そう思ったが、おそらくは韓国人のキャビンアテンダントは、私の顔なり身なりなりを見て、隣のイエメン人と同胞だと考えたのだ。確かにずっと話はしていたが、イエメンは、だからと言って旅行で行けるような国でもなかった。きっと仕事でイエメンに向かう外国人か、イエメン人か、そのどちらかだと思ったのだろう。

 その数年後、今度は日比谷の野音でラテン音楽を楽しんだ時のことである。満席の日比谷野音は、複数組のミュージシャンが参加してすっかり熱気に包まれた。本物の熱量はすごいなあなんて思いながら、下手なダンスを踊ったり、複雑なリズムを手拍子で楽しんだりしてライブを満喫した後で、全てが終わると放心したようになってその場に残った。多くの人が会場を後にし、まだ明るい夕方の会場にわずかな人だけが荷物を片付けたりしながら残っていた。

 さて、帰るかと腰を上げた時のことである。会場の隅からスタッフが一人、ニコニコしながらこちらに向かってきた。
「ペルーの方ですよね。在日ペルー人会にぜひ参加してください。」
いや、スペイン語は話せないし。そう思ったが、おそらくはずっと日本に住んでいるであろうそのペルー人は、私の顔なり終わった後の未練がましい振る舞いなりを見て、自分の同胞のペルー人だと考えたのだ。確かにペルーに限らず、中南米系と思われる人がそこそこいたことは確かだが、なぜペルーだったのかはよくわからない。

 さらに数年後、次の機会は上野公園だった。なぜ上野公園にいたのか思い出せないが、少なくとも何かの休み時間に上野公園の奥の方に散歩していたら、ステージが作られていて、インドフェアの休憩時間だった。そんなイベントをやっていたことを知らずにそこに行っただけなのだが、周囲にはインド関連のお店があったりして、そこそこ賑わっていた。きっと、直前までステージでインド音楽などをやっていたのだろう。興味深いので、少しばかり近寄って、誰もいないステージをぼんやりと見ていた。

 そうこうしているうちに、周囲にはまた人が集まってきた。次のステージかなと思って周囲を見ると、背の高いインド系の人で埋め尽くされている。すると、ステージに誰かが上がって何かを話し出した。何を言っているのかさっぱりわからなかったが、周囲は拍手をしたり大声をあげたりして盛り上がってきた。
 これはいかん。そう思って、慌ててその場を後にしたのだった。
「インドの方ですよね。」
きっとそう言われそうな気がしたのだった。

Bonne journée, Photo

Life

201805-411

愛すべき人間はどこにも出てこない。かろうじて現れる良識ある人々は思い出せない。そんなストーリーが成り立つはずもない。だが、その作品は見事にそれを描ききっていた。そして恐らくは映画館のシートに背中を預ける多くの人が思うのだろう。欠点だらけの登場人物にいつか引き摺り込まれていたのだと。I, TONYA、なかなかの佳作(本来の意味で)である。
多くの人にとって生活することはさして難しくない。だが、思い通りに生きることは簡単ではない。だから、人を嘲笑へばどこか不幸な気分を味わう。そんなものだろう。

 

Bonne journée, Cross Cultural

South Korea

201802-112

ユニクロの明るくカラフルな店舗の前を重い荷物を背負ってゆっくりと進みながら、ふと今日は暖かいなと思い返した。視線の先を横切る涼しげな顔立ちのカップルは、モノトーンの上下にコートの前を開け、何かを笑顔で話しながら颯爽と立ち去った。ショッピングモールの入口近くにある黒を基調にブラスで飾ったパン屋あたりで、きっとお洒落なサンドイッチでも買うのだろうと勝手な想像を膨らませ、背中の重さから解放してくれる近くのベンチを探す。目隠しを兼ねた植込みの向こうに見つけたステンレスのそれは、すぐに腰の曲がった女性のものとなった。レストラン街でもあればそこで休憩しようと辺りを見渡した。見わたせばいつもと変わらない風景がそこにあった。ただひとつ違うのは、書かれた文字が何ひとつ読めないことだけだった。行き先を示す案内板には、ハングル文字が書かれていた。

空港のエスカレーターは韓国語に続いて中国語と日本語が安全を喚起し、案内板にはカタカナが併記されていたが、ひとたび空港を離れれば右も左もハングルだった。表音文字なのだからしっかり勉強してくればよかったと少しだけ後悔し、すぐに読めても意味がないことに気がついた。右の矢印と左の矢印から、左右に行くと何かがあるのだとはわかっても、そこに書かれたハングルの音からはそれが何か分からない。全てが文字化けしたような、そんな気分を味わうこととなった。風景は見慣れているのに、文字だけが分からないのだった。よほどフランスのほうが楽だった。分からなくても英語と似た単語であれば、それなりに意味は想像できる。しかし、ハングルには何ひとつ想像できる要素がなかった。だから自分の頭がおかしくなったと思う方がかえって自然に思われた。見慣れた日本の風景なのに、ただ文字だけが読めなくなったのだ。あえてひとつだけ違うとすれば、ユニクロがひとけた値段の高い高級品に見えたことだけだ。29,000-のブラウスは、やけにオシャレに輝いていた。もちろん単位はウォンである。

201802-111