Cross Cultural

国籍を間違われる話


 チューリヒからソウルに向かって飛ぶその飛行機は、中継空港のドバイに向けて降下を開始していた。エコノミークラスの狭い座席で隣の乗客とおしゃべりを楽しんではいたものの、自分はただ、早くその窮屈で背中の痛い座席から解放され、ソウルで成田行きに早く乗り継ぎたかった。たった2週間ではあったが、バックパック旅で疲れ果てていたし、エコノミークラスの背もたれの立った座席で眠れるほど器用ではなかった。ドバイだろうがどこだろうが、一度降機して背中を伸ばせるのは有り難かったが、同時に、とっとと先に進みたいとも思っていた。

 やれやれ、早くも疲労困憊だなんて思いながら、隣の乗客がイエメンの実家に帰るということに少しワクワクもしていた。若かったこともあるが、自分にとっては初めてのイエメン人だった。イエメンがどんな国かも知らないし、アメリカ在住のイエメン人がアメリカでどんな生活をしているのかも知りようがなかった。今となってはもうよく覚えていないが、会話をしていて、イエメンという国がどうやらかなり美しい国のようだということだけは印象に残った。

 そうこうしているうちに、キャビンアテンダントがニコニコしながらやってきた。
「イエメンに乗り継ぎですよね。こちらの書類をどうぞ。」
いや、どう見たってイエメン系の顔立ちじゃないでしょ。そう思ったが、おそらくは韓国人のキャビンアテンダントは、私の顔なり身なりなりを見て、隣のイエメン人と同胞だと考えたのだ。確かにずっと話はしていたが、イエメンは、だからと言って旅行で行けるような国でもなかった。きっと仕事でイエメンに向かう外国人か、イエメン人か、そのどちらかだと思ったのだろう。

 その数年後、今度は日比谷の野音でラテン音楽を楽しんだ時のことである。満席の日比谷野音は、複数組のミュージシャンが参加してすっかり熱気に包まれた。本物の熱量はすごいなあなんて思いながら、下手なダンスを踊ったり、複雑なリズムを手拍子で楽しんだりしてライブを満喫した後で、全てが終わると放心したようになってその場に残った。多くの人が会場を後にし、まだ明るい夕方の会場にわずかな人だけが荷物を片付けたりしながら残っていた。

 さて、帰るかと腰を上げた時のことである。会場の隅からスタッフが一人、ニコニコしながらこちらに向かってきた。
「ペルーの方ですよね。在日ペルー人会にぜひ参加してください。」
いや、スペイン語は話せないし。そう思ったが、おそらくはずっと日本に住んでいるであろうそのペルー人は、私の顔なり終わった後の未練がましい振る舞いなりを見て、自分の同胞のペルー人だと考えたのだ。確かにペルーに限らず、中南米系と思われる人がそこそこいたことは確かだが、なぜペルーだったのかはよくわからない。

 さらに数年後、次の機会は上野公園だった。なぜ上野公園にいたのか思い出せないが、少なくとも何かの休み時間に上野公園の奥の方に散歩していたら、ステージが作られていて、インドフェアの休憩時間だった。そんなイベントをやっていたことを知らずにそこに行っただけなのだが、周囲にはインド関連のお店があったりして、そこそこ賑わっていた。きっと、直前までステージでインド音楽などをやっていたのだろう。興味深いので、少しばかり近寄って、誰もいないステージをぼんやりと見ていた。

 そうこうしているうちに、周囲にはまた人が集まってきた。次のステージかなと思って周囲を見ると、背の高いインド系の人で埋め尽くされている。すると、ステージに誰かが上がって何かを話し出した。何を言っているのかさっぱりわからなかったが、周囲は拍手をしたり大声をあげたりして盛り上がってきた。
 これはいかん。そう思って、慌ててその場を後にしたのだった。
「インドの方ですよね。」
きっとそう言われそうな気がしたのだった。

Bonne journée, Photo

Life

201805-411

愛すべき人間はどこにも出てこない。かろうじて現れる良識ある人々は思い出せない。そんなストーリーが成り立つはずもない。だが、その作品は見事にそれを描ききっていた。そして恐らくは映画館のシートに背中を預ける多くの人が思うのだろう。欠点だらけの登場人物にいつか引き摺り込まれていたのだと。I, TONYA、なかなかの佳作(本来の意味で)である。
多くの人にとって生活することはさして難しくない。だが、思い通りに生きることは簡単ではない。だから、人を嘲笑へばどこか不幸な気分を味わう。そんなものだろう。

 

Bonne journée, Cross Cultural

South Korea

201802-112

ユニクロの明るくカラフルな店舗の前を重い荷物を背負ってゆっくりと進みながら、ふと今日は暖かいなと思い返した。視線の先を横切る涼しげな顔立ちのカップルは、モノトーンの上下にコートの前を開け、何かを笑顔で話しながら颯爽と立ち去った。ショッピングモールの入口近くにある黒を基調にブラスで飾ったパン屋あたりで、きっとお洒落なサンドイッチでも買うのだろうと勝手な想像を膨らませ、背中の重さから解放してくれる近くのベンチを探す。目隠しを兼ねた植込みの向こうに見つけたステンレスのそれは、すぐに腰の曲がった女性のものとなった。レストラン街でもあればそこで休憩しようと辺りを見渡した。見わたせばいつもと変わらない風景がそこにあった。ただひとつ違うのは、書かれた文字が何ひとつ読めないことだけだった。行き先を示す案内板には、ハングル文字が書かれていた。

空港のエスカレーターは韓国語に続いて中国語と日本語が安全を喚起し、案内板にはカタカナが併記されていたが、ひとたび空港を離れれば右も左もハングルだった。表音文字なのだからしっかり勉強してくればよかったと少しだけ後悔し、すぐに読めても意味がないことに気がついた。右の矢印と左の矢印から、左右に行くと何かがあるのだとはわかっても、そこに書かれたハングルの音からはそれが何か分からない。全てが文字化けしたような、そんな気分を味わうこととなった。風景は見慣れているのに、文字だけが分からないのだった。よほどフランスのほうが楽だった。分からなくても英語と似た単語であれば、それなりに意味は想像できる。しかし、ハングルには何ひとつ想像できる要素がなかった。だから自分の頭がおかしくなったと思う方がかえって自然に思われた。見慣れた日本の風景なのに、ただ文字だけが読めなくなったのだ。あえてひとつだけ違うとすれば、ユニクロがひとけた値段の高い高級品に見えたことだけだ。29,000-のブラウスは、やけにオシャレに輝いていた。もちろん単位はウォンである。

201802-111

Bonne journée, Cross Cultural

Bookstores

201709-211

新聞を開けば年に数回は国語力の低下だとか活字離れといったニュースにあたる。先日も自治体の2割に本屋さんがひとつもないという記事があって、前にも読んだような気がするなと「google」した。案の定、2015年の似たような記事がすぐに見つかって、妙な安心感のようなものを感じた。2年経ってもほとんど変わらない内容なら状況が加速はしていないということである。もちろん一方でそれを調べるのにgoogleしたというその習慣は、新聞が報道する状況が加速している可能性も示唆しているということでもあろう。

個人的には、町の書店が減少するのは当然という感覚を持っている。誤解して欲しくないが、本屋という空間が大好きで、なくなったら大変だとも思っている。先日も時々立ち寄っていた近所の書店が閉店となって困ったと食事時の話題にしたし、学生の頃は古書店をハシゴしてみたり信じられないくらい小さな学生街の本屋で数時間を過ごしたりもした。そうやって生活の中にあったはずの街の書店は、しかし輪郭が曖昧になりつつある。旬の野菜と夜食のスイーツを買うためにある食料品店と区別がつきにくい不思議な場所となってしまったのだ。それはそれでもちろん需要もあるだろう。出たばかりの山積みになったツヤツヤとした直方体を早く仕事を切り上げてでも買いたいと急ぎ立ち寄ることもあれば、なんとなく夜の時間をやり過ごすためにぼんやりと雑誌の書架を眺めることもある。ただ、それは毎日の生活そのものではない。新刊と雑誌と参考書だけの書店に毎日立ち寄る理由はなかなか見つからない。であれば、書店が減るのが道理というものだ。

北米でもヨーロッパでも本屋さんが流行っているという話はあまり聞かないから、時代の流れではあろう。店頭にないからと注文すれば待たされるし、時間つぶしならネットかゲームの方がお手軽。数が少ないから偶然の出会いは滅多に訪れない。オンライン書店が街の本屋さんを駆逐したというより、そんな時代という方が正しいのかもしれない。まるで、生息域が狭まった希少動物のようである。森に逃げ込むにも、森は限られている。

 

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

Penguin?

201706-221

written only in Japanese

先日、Suica(JR東日本のICカード)を久しぶりにパスケースから取り出して、緑色のプラスチックのその隅に黒でペンギンが描かれていることを思い出した。きっと有名なデザイナーの手によるものに違いないが、実際のところ特にどうと言う訳でもない絵本にでもありそうなペンギンが、シルエットのようにカードの右下にプリントされているのである。最初の頃はSuicaを宣伝するためにもやたらとペンギンが登場していたように記憶しているが、最近はあまり意識することもなかったから、久しぶりに見つけたペンギンは、案外不思議な新鮮さを感じるものであった。
※後から調べたらペンギンはデザイナーによるものではなく、絵本のキャラクターだそうである。

これほど普及しているにもかかわらず何故いまもってペンギンが描かれているのか分からないが、Suicaであることをしめすスイカのような模様と合わせて分かりやすさを提供していることは間違いない。ただ、だからと言ってカードに描かれたペンギンがうれしいとか楽しいとかいった事はない。これは多分に個人的な好みによるものであって、もちろんこのペンギンが好きな人が多数いて普及に貢献したことは事実である。このペンギンはなかなか愛らしいとも思わないでもない。丸顔はキャラクターデザインの鉄則でもある。それにもかかわらず、個人的にはSuicaにはできればペンギンを描いて欲しくない。もう少し普通の無機質なカードにしてほしいのである。もちろん、普段見ることがないのだから困る訳でもない。単に事務的に扱いたいモノに特に好みでもないキャラクターが描かれていることに違和感があるだけである。セブンイレブンのキリンも診察券の不明な動物も、同じようにどうしても好きになれない。

そうやって気になりだすと、ありとあらゆる場所に妙なキャラクターがデザインされていることに気付く。それは企業やサービスのロゴデザインのようなものでもあれば、パンフレットの隅に書かれたキャッチコピーの話者であったりもする。自動販売機で単純化された線画が挨拶をしていることもあれば、バーコードの上を歩いていたりもする。国民性などと十把一絡げにまとめてみても良いが、それは些か乱暴というものだろう。

とりあえず困る訳でもない。気にすることもない。だったらどうでもいいだろうと思わないでもない。少しだけペンギンが減ってもいいかなと思うだけである。カードはもう少し無機質にしてほしいというだけである。

シンプルな方が良いことだってある。