Bonne journée, Photo

Life

201805-411

愛すべき人間はどこにも出てこない。かろうじて現れる良識ある人々は思い出せない。そんなストーリーが成り立つはずもない。だが、その作品は見事にそれを描ききっていた。そして恐らくは映画館のシートに背中を預ける多くの人が思うのだろう。欠点だらけの登場人物にいつか引き摺り込まれていたのだと。I, TONYA、なかなかの佳作(本来の意味で)である。
多くの人にとって生活することはさして難しくない。だが、思い通りに生きることは簡単ではない。だから、人を嘲笑へばどこか不幸な気分を味わう。そんなものだろう。

 

Bonne journée, Cross Cultural

South Korea

201802-112

ユニクロの明るくカラフルな店舗の前を重い荷物を背負ってゆっくりと進みながら、ふと今日は暖かいなと思い返した。視線の先を横切る涼しげな顔立ちのカップルは、モノトーンの上下にコートの前を開け、何かを笑顔で話しながら颯爽と立ち去った。ショッピングモールの入口近くにある黒を基調にブラスで飾ったパン屋あたりで、きっとお洒落なサンドイッチでも買うのだろうと勝手な想像を膨らませ、背中の重さから解放してくれる近くのベンチを探す。目隠しを兼ねた植込みの向こうに見つけたステンレスのそれは、すぐに腰の曲がった女性のものとなった。レストラン街でもあればそこで休憩しようと辺りを見渡した。見わたせばいつもと変わらない風景がそこにあった。ただひとつ違うのは、書かれた文字が何ひとつ読めないことだけだった。行き先を示す案内板には、ハングル文字が書かれていた。

空港のエスカレーターは韓国語に続いて中国語と日本語が安全を喚起し、案内板にはカタカナが併記されていたが、ひとたび空港を離れれば右も左もハングルだった。表音文字なのだからしっかり勉強してくればよかったと少しだけ後悔し、すぐに読めても意味がないことに気がついた。右の矢印と左の矢印から、左右に行くと何かがあるのだとはわかっても、そこに書かれたハングルの音からはそれが何か分からない。全てが文字化けしたような、そんな気分を味わうこととなった。風景は見慣れているのに、文字だけが分からないのだった。よほどフランスのほうが楽だった。分からなくても英語と似た単語であれば、それなりに意味は想像できる。しかし、ハングルには何ひとつ想像できる要素がなかった。だから自分の頭がおかしくなったと思う方がかえって自然に思われた。見慣れた日本の風景なのに、ただ文字だけが読めなくなったのだ。あえてひとつだけ違うとすれば、ユニクロがひとけた値段の高い高級品に見えたことだけだ。29,000-のブラウスは、やけにオシャレに輝いていた。もちろん単位はウォンである。

201802-111

Bonne journée, Cross Cultural

Bookstores

201709-211

新聞を開けば年に数回は国語力の低下だとか活字離れといったニュースにあたる。先日も自治体の2割に本屋さんがひとつもないという記事があって、前にも読んだような気がするなと「google」した。案の定、2015年の似たような記事がすぐに見つかって、妙な安心感のようなものを感じた。2年経ってもほとんど変わらない内容なら状況が加速はしていないということである。もちろん一方でそれを調べるのにgoogleしたというその習慣は、新聞が報道する状況が加速している可能性も示唆しているということでもあろう。

個人的には、町の書店が減少するのは当然という感覚を持っている。誤解して欲しくないが、本屋という空間が大好きで、なくなったら大変だとも思っている。先日も時々立ち寄っていた近所の書店が閉店となって困ったと食事時の話題にしたし、学生の頃は古書店をハシゴしてみたり信じられないくらい小さな学生街の本屋で数時間を過ごしたりもした。そうやって生活の中にあったはずの街の書店は、しかし輪郭が曖昧になりつつある。旬の野菜と夜食のスイーツを買うためにある食料品店と区別がつきにくい不思議な場所となってしまったのだ。それはそれでもちろん需要もあるだろう。出たばかりの山積みになったツヤツヤとした直方体を早く仕事を切り上げてでも買いたいと急ぎ立ち寄ることもあれば、なんとなく夜の時間をやり過ごすためにぼんやりと雑誌の書架を眺めることもある。ただ、それは毎日の生活そのものではない。新刊と雑誌と参考書だけの書店に毎日立ち寄る理由はなかなか見つからない。であれば、書店が減るのが道理というものだ。

北米でもヨーロッパでも本屋さんが流行っているという話はあまり聞かないから、時代の流れではあろう。店頭にないからと注文すれば待たされるし、時間つぶしならネットかゲームの方がお手軽。数が少ないから偶然の出会いは滅多に訪れない。オンライン書店が街の本屋さんを駆逐したというより、そんな時代という方が正しいのかもしれない。まるで、生息域が狭まった希少動物のようである。森に逃げ込むにも、森は限られている。

 

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

Penguin?

201706-221

written only in Japanese

先日、Suica(JR東日本のICカード)を久しぶりにパスケースから取り出して、緑色のプラスチックのその隅に黒でペンギンが描かれていることを思い出した。きっと有名なデザイナーの手によるものに違いないが、実際のところ特にどうと言う訳でもない絵本にでもありそうなペンギンが、シルエットのようにカードの右下にプリントされているのである。最初の頃はSuicaを宣伝するためにもやたらとペンギンが登場していたように記憶しているが、最近はあまり意識することもなかったから、久しぶりに見つけたペンギンは、案外不思議な新鮮さを感じるものであった。
※後から調べたらペンギンはデザイナーによるものではなく、絵本のキャラクターだそうである。

これほど普及しているにもかかわらず何故いまもってペンギンが描かれているのか分からないが、Suicaであることをしめすスイカのような模様と合わせて分かりやすさを提供していることは間違いない。ただ、だからと言ってカードに描かれたペンギンがうれしいとか楽しいとかいった事はない。これは多分に個人的な好みによるものであって、もちろんこのペンギンが好きな人が多数いて普及に貢献したことは事実である。このペンギンはなかなか愛らしいとも思わないでもない。丸顔はキャラクターデザインの鉄則でもある。それにもかかわらず、個人的にはSuicaにはできればペンギンを描いて欲しくない。もう少し普通の無機質なカードにしてほしいのである。もちろん、普段見ることがないのだから困る訳でもない。単に事務的に扱いたいモノに特に好みでもないキャラクターが描かれていることに違和感があるだけである。セブンイレブンのキリンも診察券の不明な動物も、同じようにどうしても好きになれない。

そうやって気になりだすと、ありとあらゆる場所に妙なキャラクターがデザインされていることに気付く。それは企業やサービスのロゴデザインのようなものでもあれば、パンフレットの隅に書かれたキャッチコピーの話者であったりもする。自動販売機で単純化された線画が挨拶をしていることもあれば、バーコードの上を歩いていたりもする。国民性などと十把一絡げにまとめてみても良いが、それは些か乱暴というものだろう。

とりあえず困る訳でもない。気にすることもない。だったらどうでもいいだろうと思わないでもない。少しだけペンギンが減ってもいいかなと思うだけである。カードはもう少し無機質にしてほしいというだけである。

シンプルな方が良いことだってある。

 

Bonne journée, Cross Cultural

padlock

201611-211written only in Japanese

川崎の比較的新しい裏通りにその猫はいる。正確に言えば、猫の像がひっそりと置かれている。耳や背中は磨耗して金色に輝き、背景にはあまり手入れがされているとは言えない雑然とした植込み。丁寧に説明書きが添えられているが、立ち止まってそれを読む人はいそうにない。その猫がなんであるかに興味があるわけではない。その金色に磨かれた両耳だけが気になったのだ。
ヴェローナのジュリエット像であろうが、どこぞのなんとか地蔵であろうが、人は何かを信じてその無機質な塊に触れてきた。宗教的意味がある場合もあれば、永遠の愛を誓って繋ぐ南京錠のようなある種の願掛けみたいな場合もあるだろう。人が何かに触れて願う時に必ずしも奇跡はいらない。
川崎の猫にどんないわれがあるのか知らないが、見ている目の前でそれに触れて行く人がいるとなると、何か不思議な感覚におそわれる。耳が金色になった猫は、またも誰かの手で磨かれたのだ。恐らくは何かを求めてその耳に触れたに違いない。いや、そんな大袈裟なものでもなく、なんとなくラッキーな気分を得たいだけだったのかもしれない。ただ、自分には咀嚼しきれない何かが目前に現れた時、トゲでも飲み込んでしまった後のように妙な違和感が残されたのだった。
201611-212

地球の裏側ではまだ万聖節だというのにハロウィンの夜を過ぎればクリスマスの飾りが現れる街は、こころなしか忙しい。そこに宗教的な世界観などもはやないのかもしれないが、もう少し静かな日を楽しみたい。