Bonne journée, Cross Cultural

フライト(後編)

(前編はこちら)

 フライト日の爽やかな朝〜とは言ってもいつもの雨降りなのだが〜思いがけず変更されたフライトのお陰でゆっくりとコーヒーとクロワッサンの朝食をとってゆっくりと向かったバスターミナルほどの小さな地方空港で、まずはパリ行きの搭乗券を受け取った。短いフライトだが、重いスーツケースから解放されるのがありがたい。搭乗券の裏にはしっかり預入れ荷物の半券が貼られ、行き先もちゃんと合っている。パリ・ロンドン経由東京行き。パリ乗り継ぎはいつもの事だが今回はロンドンが余計についてくる。とは言え、パリ-ロンドン間は40分ほどの距離だからさほど遠い感覚もない。シャルル・ド・ゴール空港で何して時間潰そうかな。そんな事を考えながら華奢なタラップを上り、落ち着く先のシート番号を確認した。それなりに大きなエンブラエルだが、空港が小さいから搭乗はいつでもタラップなのだ。雨が降っていようが地上を歩き、ずぶ濡れのままタラップを上る。それがパリに向かう儀式なのである。シャルル・ド・ゴール空港に着けば別世界だ。空調が効いた巨大な待合ロビーと馬鹿高いがホッとするコーヒーがどこに行ってもある。

 さて、その4時間後、先の旅程を考えてすでに疲れ気味の旅行者は、あと1時間ほどで飛び立つロンドン・ヒースロー空港行きのブリティッシュエアを待っていた。ゲートの前では赤と青のラインが入った制服を着た職員が、時代にそぐわない紙の束を持って右に左にと忙しそうに動き回っている。このオンラインの時代にミシン目の入った連続紙を何に使うのだろうと眺めていたが、もちろん理由など思いつかなかった。何もない空っぽの時間が過ぎて、やがて職員のひとりがマイクを手にしながら周囲を見渡す。
「ヒースロー行きは1時間の遅延となります。これにともない出発ゲートは51番に変更されます。」
 そんなものである。フランス語のアナウンスを聞いて半分が、続く英語のアナウンスを聞いて残りの半分が立ち上がり、ゾロゾロとゲートを移動し始めた。相変わらずゲート案内板には古いゲート番号が出ているが、誰も見もしない。表示変更など間に合う訳がない。今決まったことだ。運命を共にする100人と一緒になって大移動を終え、ふと考えた。1時間の遅延とはきっととりあえず設定された遅延であって、実際はもう少し遅れるのではないかと。次の乗り継ぎの余裕は2時間半しかないから、もし1時間の遅延ならすでにヒースローの推奨乗り継ぎ時間の2時間に30分足りない。残り時間、1時間半である。いろいろ考えたところで何か改善するわけでもないが、心に余裕も欲しい。そうこうしているうちに2回目のアナウンスである。
「ヒースロー行きの出発ゲートは47番に変更されます。たびたび申し訳ございません。」
 だんだんあやしくなってきた。ゲートの地上職員に聞く。
「遅延は1時間ですか?」
「ええ、ちょうど1時間の見込みです。」
「そうである事を祈ります。」
 ちょっとイライラしたような職員はしっかりこちらに目を向けてこう返した。
「すでにヒースローを出ました。必ず到着します。」
 それは良かった。最初の関門はクリアした。でもだからと言って出発が1時間遅延で済むとは限らない。待合ロビーの硬いビニールシートに再び腰を下ろし、まもなく到着する折り返し便を待つ。そうして聞く次のアナウンスはあまり安心できるものではなかった。
「ヒースロー行きの出発ゲートは再び51番に変更されます。」
 やれやれ。いよいよ話があやしくなってきた。わずか50mほどの距離とは言え、そろそろ状況に着いて来られなくなった乗客だっていそうである。
 再び10分後、
「ヒースロー行きの出発ゲートは49番に変更となりました。」
 結局落ち着いたのは当初から予定されていた49番ゲートとなった。搭乗ゲート案内版は実に正しい。まもなく飛行機も到着して、ロンドンからの乗客が降りると慌しく出発の準備も始まった。あとはヒースローでスムーズに乗り換えられればなんとかなる。たぶん。おそらくは。

 だが、狭い近距離便の機内に足を踏み入れて、それが単なる期待に過ぎない事を思い知らされた。通路は、大きすぎる荷物が入らないと押し合う乗客でいっぱいだった。ハードケースなど、どんなに頑張ったってアッパーコンパートメントに入らないものは入らない。縦にしたり横にしたり入れ換えてみたりと努力はするが、あちこちの蓋が閉まらない。露骨にうんざりした様子を隠さない乗務員も、のらりくらりと対応する。不思議なもので、それでもいつのまにか荷物はあるべき場所に収まり、飛行機は1時間20分遅れで駐機場を離れた。もう、ほとんど乗り継ぎの猶予はない。

 ヒースロー空港はシャルル・ド・ゴール空港同様に巨大な空港である。どのターミナルがどこにあるのかも案内地図を覗き込んだところでよく分からない。乗客はもちろん案内版に従って歩くだけだが、どこにいるのか分からないと距離感も掴めない。早く次の待合ロビーにたどり着いて、女王陛下が高貴な笑顔で微笑むクッキー缶でも眺めたい。もちろん、そんな時間などあるわけないが、乗り継げそうだという証拠が欲しいのである。
 空港内のシャトルに乗ってセキュリティチェックの前に着いた時には離陸まで30分と言ったところだった。
「乗り継ぎは保証されます。みなさんを待って出発しますから安心してください。」
 胸を張って確かにそうパリの職員は告げていた。公式にはきっとそうなのだろう。だが、以前のパリ乗り継ぎでは30分の遅延を待ってなどくれなかった。地上職員に聞けば言い訳するでもなく、下着と歯ブラシの入った宿泊セットとホテルバウチャを渡してきた。
「安心して下さい。すでに明日の朝一番のフライトを確保しています。」
 安心とかいう話でもないと思うのだが、いつものことというわけだ。今回のフライトも嫌な予感がする。
 果たしてセキュリティチェックへの角を曲がると長い列が待っていた。どうやらセキュリティチェックは1列しか開いていない。地上職員不足とはこういう事なのか。それでもゲートクローズまで20分ある。ギリギリ待ってくれそうな時間だ。職員は大声で注意事項を繰り返していた。液体はこの透明な袋に入れろ、荷物のトレーはひとりひとつだ、金属は全て外せ、そんな類の事が耳の周りで渦巻いた。
 ふと見ると同じ飛行機に乗っていた日本人がゲートを通過して搭乗機の職員と話をしている。日本行きの飛行機は待ってくれるのか。
 セキュリティチェックはたびたび停止し、長い長い目視検査が行われているようだった。すでに出発ゲートクローズの時間だった。一向に動かないセキュリティチェックの列に検査官は無関心を装い、半分ほどの荷物は再検査となった。「荷物を開けてください。あぁ、これは別なトレーに乗せて再検査します。重ならないように。他には何かありませんか。パスポートは不要です。」乗り継ぎが保証されている飛行機は、すでにゲートを離れたようだった。

「この裏にブリティッシュエアのカスタマー・サービスがあるようですよ。」
 そう先にセキュリティチェックを通過した日本人が教えてくれた。要は彼もフライトを逃したということだ。この裏というのは職員用通路のドアを開けた向こう側という意味であり、1時間もかけてせっかく通過したのにセキュリティ・ゾーンからまた出るという意味でもあった。
 セキュリティ・チェックの係官に聞けばすぐに緑色のボタンを押してドアを開けてくれた。「カンタンだろ?」ゾーンの外に出るにはもちろんチェックがいらない。そんなものだ。通常は一般人が通れないであろうそのドアを毎日のように一般人が通過しているに違いない。そのドアを抜けた向こう側で、ブリティッシュエアのカスターマー・サービスに遅延で乗り継げなかったことをクレームしなければならない。黙っていたって何も起きないから仕方ない。要は、次の列に並ぶということだ。すでに1時間以上もセキュリティチェックの列に並んだ後では、数十人の列など何でもない。精一杯のサポートなのだろう、列の隣のワゴンにはポテトチップスと水のペットボトルが無造作に積まれ、あなたのことを考えていますよというサインを送り続けていた。

 カスターマー・サービスの3つのカウンターは、すでに3組の顧客が熱心に自分の窮状を伝えているところだった。しっかりと糊の効いた白いリゾートシャツを着た背の高い男性と少しリラックスした雰囲気のドレスの女性は、長期戦になると覚悟したというより、旅行代理店でフライトとホテルを予約でもするかのように何度も希望を伝えているようだった。その向かいでは、顧客のクレームを優しく受け止める地上職員が、どこかに電話をかけては何度も首を横にふっていた。隣のカウンターでは、ビジネスで来たと思われるワイシャツ姿の男性が、粘り強い交渉を重ねている。3番目のカウンターもさして違いはない。誰もが旅行の途中なのだ。椅子も置いてないカウンターで交渉を続ける3組には見た目の共通点もなかったが、カウンターの様子はどれもこれも同じだ。顧客が何かを言い、動じない地上係員が首を横に振ってどこかに電話をかける。そうやって40分ほどが過ぎ、ひと組の対応が終わって、列は前にひとつ進む。カウンターに椅子がないのは手際よく事が進むからではない。いつまでも満足しない顧客が疲れるのを待つためだ。待ちながらそう気がついた。もちろん待っているキューにだって椅子はない。誰もがずっと立ったままだ。
 もう少しで自分の番が来そうだなと思えるようなところまで列が進んだ頃には、すでに2時間が経過していた。時計は夜21時を示していた。
 カウンターサービスの窓口はとうとうふたつがクローズとなり、係員も疲れきった様子だった。ただひとつ残ったカウンターの顧客があまりハッピーとは言えない様子でそこを離れると、待ち行列の先頭にいた可哀想な次の顧客を制して係員がカウンターを出てきた。周囲を見渡す。
「私の業務時間は終わりました。帰らなければなりません。皆さんはどうかそのままここで待ってください。私の上司がまもなくここに来ることになっています。上司が皆さんのサポートをします。どうかそのまま。」
 そう言って係員はカウンターを去っていった。20名の顧客をその場に残して。
 どうすることも出来なかった。誰もが唖然として、文句をいうことすらすっかり忘れていた。待ち行列のひとりが言った。「もう2度とヒースローには来ない。」ヨーロッパではよくあることだ。そう分かっている。分かっていても何か言わなければ収まらないというものだ。
 10分ほどして現れた上司は、仕事ができるタイプかクレーム慣れしているかのどちらかだった。
「はい、チケットを見せてください。今夜のうちに責任を持って代替フライトを手配します。明日の朝までにメールを受け取るはずです。こちらがホテルバウチャーです。ホテルまではこのバウチャでシャトルバスに乗れます。この10ポンドのバウチャーはお詫びの印です。空港でお使いください。では、次の方。」
 毎日やってるのだろう。あっという間に列は進んでいく。バウチャーを掴んで、一緒になったポーランドに向かうというギタリストとバスに向かった。誰もいないバス乗り場への通路は、よく知る空港とはおおよそ違う落ち着かない空間となった。バス乗り場まではすぐそこだというのに、迷路にでも入り込んだようだった。
「バス乗り場はここか?」
 そうギタリストが言った。
「もうバスは終わりました。乗車できません。」
「いや、バウチャーをもらったんだから上司に聞いてくれ。」
「いえ、すでに上司に確認したのです。残念ながらバスには乗れません。」
「どうやったら行けるんだ。」
「ここを真っ直ぐ行くとタクシー乗り場が。」
 やれやれ。
 結局誰も通らない通路でタクシー乗り場に出て、ロンドンのバカ高いタクシーを捕まえた。疲れ果てた移動で、タクシーがどこをどう走っているのかも分からなかった。空港をおおよそ3周したと思えるほど時間が経過した頃、急に目の前にホテルは現れた。やっと辿り着いたのだ。旅の目的地ではなかったが、やっと落ち着ける場所に行くことができる。食事もしていないが、ホテルのレストランで食べる気もおきない。一刻も早くチェックインして、シャワーを浴びてただひたすら寝たい。気づけばギタリストもチェックイン中だ。
「おい、いくらかかった?」
 ギタリストは不満げに聞いてきた。
「28だった。」
「こっちは30」
 バスに乗れず使ったタクシーは5000円だ。馬鹿馬鹿しい出費であることには違いないが、それ以上に呆れ果てたという感じだろう。気づくと23時を回ったところだった。部屋に入ってシャワーを浴び、バスローブのままベッドに倒れ込んだ。荷物は預入れたままだから、特に片付けるものもなかった。

 翌朝にeチケットを確認すると、フライトは1日遅れの同じ便となっていた。つまりは夕方の便だ。ゆっくりと朝食を取って、再び空港に向かえば良い。念のため予約した追加のPCRテストさえすれば、あとは特段の予定もない。流石にロンドン観光するような気力もないから、出来るだけ早くチェックインして出来るだけ早くセキュリティチェックを受け、出来るだけ早く登場ゲートに辿り着いて、あとはただひたすら待つだけだ。やることなど何もない。
 そんなことを考えながらとった朝食のクロワッサンは、正直美味しいとは言えない代物だった。そうだ、ここはヒースローであった。

(追補編に続く)