Cross Cultural, Photo

(Floral) Friday Fragments #272


 この写真は、ある人にとってはちょっとトリックっぽい。
 ジャスミンの強い芳香をたどって周囲を探してみれば、ハゴロモジャスミンのような白い5弁の花が朝の静まり返った空気の中で光にあたっていたのだが、よく見れば地中海の木陰のような涼しげな緑がキラキラしている。見たことのない美しい木だなと思って近付いたら、ジャスミンが絡みついていたのは低木のオリーブだった。オリーブももう間も無く開花の時期だが、これほど一体化していると、私のようにうっかりしている人間は、騙されてしまいそうな気配である。
 もしかすると、コーヒーの花やレモンの花もこうやって絡みついたら面白いかななどと想像しながら写真を撮った。どちらも木としては強く硬い枝が広がるから、ジャスミンのようにはいかないだろうなとも思うが、何だか興味深い。

 それにしてももどかしいのは、フォーカス合わせである。この写真は手元にiPhoneしかなかったので、その標準レンズで撮影したが、思ったところになかなかピントが合わない。これがファインダを覗いて手動でフォーカスできたら簡単なのになどとぶつくさ言いながら撮影しているのは、正直変なやつである。もちろん、スクリーンをタッチしてフォーカス位置を指定しているのだが、なぜか奥にピントがあったりもする。それでも機動力の高いiPhoneだからいつでも写真が撮れているので、どちらが良いとも言い難い。
 また来週にでも撮り直そう、なんて思っている間に花は終わってしまうのだけれど…

Cross Cultural, Photo

(Floral) Friday Fragments #271


 5月1日はメーデー。この日が労働者の日ではない国は案外少なく、北米、オーストラリア、スイス、日本など、数えるほどしかない。米国には、9月の第1月曜日にレイバー・デー(Labor Day)があって、ほぼメーデーと同様の扱いだが、米国発祥のメーデーがなぜレイバー・デーになったのかはよくわからない。日本には、メーデーに相当する祝日はないが、あえていうなら勤労感謝の日か?ただ、勤労感謝の日は、サンクスギビング(Thanksgiving Day)に相当するような気もするので、日本にはメーデーは存在しないのかもしれない。

 夏の訪れを祝う5月祭も起源のひとつであるし、世界的にお祝いムードなので、日本が労働者の賃上げ要求の日みたいに扱われるのも違和感があるが、素直に労働者の日として日本でもお祝いムードになると良いななんて思ったりもする。この日ばかりは、経営者も労働者に感謝して祝日にしても良いのではないか。

 海外取引をしていると、休みの多い日本のGWの只中にある5月1日は、つい仕事が集中してしまう日でもある。ここを逃すと、次は5月7日まで誰もいないとか、場合によっては、5月中旬まで人が少ないとか、色々あって、つい5月1日をあてにしてしまうのだ。で、海外にメールをしてから気が付く。あー、メーデーだった!もう、後の祭り。

 さて、緊急事態を宣言するときの言葉もメーデーである。5月1日はMaydayだが、国際救難信号のメーデーは何か?もちろん、5月とは関係ない。フランス語である。”m’aider” = “me aider” = “aide” + “me”、助けるの意味のエイドはカタカナでも通じるし、meは英語と同じ私であって、私を助けてという意味だ。案外あちこちにフランス語は埋もれている。

 正確には、”venez m’aider” 助けに来て!ということだそうなので、フラ語を勉強されている方、ネタに覚えておきましょう。私もvenezがついているとは知りませんでした。なるほど、そりゃそうか。

Cross Cultural, Photo

(Floral) Friday Fragments #270


 帰国していつの間にか4年が経過した。帰国直後は、日本を離れて季節感を忘れていたかなと思い込んでいたが、やっぱりここ数年の気候変動が意外に大きいのかなとも感じている。冬はもちろん平年通り寒い日も多かったが、それでも全体として見ればかなりの暖冬だった気がするし、桜も平年通りに咲いたが、花の順番が以前と違ったような気もしている。
 それでも、多少のずれがあっても、季節になればバラも咲くし、ジャスミンの香りも漂うから、気候変動なんて大袈裟に見すぎているのかもしれない。あまりにも目まぐるしく動く世界に、惑わされているだけなのか。そろそろ落ち着いた何もない時代に戻りたい。

 まもなくゴールデンウィーク。このBlogも多少変則になります。不在の時も予約投稿で何かしらポストしようとは思いますが、ご理解ください。
 どこか遠くに出かける予定があるわけではありません。正直、混雑の中を出かける元気もなくなりつつあります。それでも小さな用事はそこそこあって、いつもの何もない日々とはちょっとルーチンが違います。不思議なもので、そうしたちょっとした違いが予定を狂わせます。そんな、小さな歯車の噛み合わせの違いだと思っていただければ幸いです。

Bonne journée, Cross Cultural

機能安全


 たまには技術の話でも。

 自動車産業や機械産業の世界で働いていれば、「機能安全」なる堅苦しい言葉を必ず知っている。英語だとfunctional safety。不思議な事に、この世界中で広く知られた概念は、一部の産業の関係者でしか語られない。おそらく、いや間違いなく、ここにその説明を書いたら、数行も読まれずにこの記事は閉じられる。それほど退屈な内容だ。

 その日はドイツの老舗企業と映像の話をしていた。自分は映像系の技術者だったのだ。そのうち、相手企業の技術者が機能安全の話をし始めた。いや、ちょっと待ってくれ。知識としては知っているが、真剣に勉強したこともない。そう言う私に彼は事もなげに繰り返す。
「いや、簡単な話だよ。危ないと分かったら、危険のないように機械を止める。それだけの話だ。今時、機能安全が実装されてなければ売る事も出来ない。」
まあ、知ってはいる。だが、仕事として取り扱ったことなどなかった。なにしろ、あんたの仕事は人が死なないからいいよな、なんて知人から言われるような仕事である。
「自動車は凶器になり得るだろ。食料品だって管理を怠れば人を死に至らしめかねない。街の電気屋さんだって漏電でも起こせば火事になるかも知れない。なのにお前の仕事は、鈍器にすらならない。」
まあ、ある程度親しい知人だから言う冗談なのだが、機能安全とは程遠い仕事だったのは間違いない。

 昼食は、相手企業のご好意で、社員食堂で一般社員と同じ食事をとらせてもらった。
「早めの昼食ですみません。この後は混んじゃうので、この時間が良いかなと思います。今なら、品切れもありません。」
ドイツらしく時間に正確で、至れり尽くせりである。どのソーセージでも選び放題。選択肢が全部ソーセージじゃないかというモヤモヤは残ったが、想像以上に美味しいので問題ない。わけも分からず危険なものを取ってしまわないあたりが、本質安全である(すみません、分かる人には分かる冗談です)。

 さて、ドイツからフランスに帰ってきて半年後、フランスの通信会社が運営する社員食堂で昼食をとっていた。時間は午後1時半を回っている。さすがに時間にルーズなフランスである。すっかりフランス時間で動く事に慣れてしまっていて、そんな時間が当たり前になっていた。
 フランスだから食事が美味しいとは限らない。懐かしのソフト麺よりブヨブヨのパスタだったり、七面鳥の巨大肉と山盛りグリーンピース(だけ)の組み合わせだったり、およそ健康的ではない。そんな食事をしながら会話を楽しんでいたら非常ベルがなった。けたたましいベル音が響き渡る。あのルーズなフランス人が一斉に立ち上がり、非常ドアから整然と外に出た。荷物も食事も置きっぱなし。やる時はやるんだなとしばし感心した。

 結局、非常ベルは誤報だった。老朽化したシステムで何か起きたらしいがよく分からない。後で聞いたら、原因究明中にシステムが非常設備の基準を満たしていない事が分かったので修繕すると言う。発覚して良かったと思うべきなのか、今まで知らずに使っていた事に呆れるべきなのか、はたまた誤報の原因が分からない事に不安を感じるべきなのか。まあ、機能安全とかいう以前の問題ではある。

 機能安全って何か気になり始めた?それは結構。

 よく例題で取り上げられるのは踏切である。立体交差にして絶対にぶつからないようにするのが本質安全。ぶつかりようがないのだから、本質的に安全というわけだ。一方、電車が通る時に踏切を遮断して車が通れなくするのが機能安全だ。機能と訳しているが、仕組みとして安全にしているのであって、本質的に絶対安全なわけではない。もっと言うと、雪の日にはスリップして踏切で止まれないかもしれないから、この機能安全は雪の日には機能しませんなんて定義をする。なかなかややこしい。でも、こんなややこしい定義を重ねて安全は強化されている。

 さて、ドイツでのややこしい会話の後で、フランクフルト国際空港に向かって車を走らせていた。春は大雨の季節で、よく洪水も起きる。その日も大雨だった。そんな時に重要なのは機能安全である。さすがドイツ車、びくともしない。だが、激しい雨で前が見えないから80〜90キロで走っていた狭い道を馬鹿みたいに速い車が次々と追い越してゆく。いくら安定した素晴らしい車だって、機能安全がしっかりしていたって、人間が無謀ならダメだろ。そんな会話を同僚としながら、早く空港に辿り着きたいと思ったのだった。

Cross Cultural, Photo

(Floral) Friday Fragments #269


 春の雨に舞い散る真紅の花弁に思わず足を止めたとき、不思議と自分はもう若くないことを実感したことは、素直に告白しなければならない。
 とっくに頭の中で理性が分かっていたことだろうと煮え切らない自分を責めるのだが、どこか遠い高みから客観的に自分を見る目と、その視線から逃れようとしている自分とがいて、幾つになっても若いふりをしたくなるということは止められないのだ。

 若い頃はそんな年寄りを見てみっともないと思ったりもしたが、あるときふと、自分もそのみっともない側になったのだと気づいたのだった。それは自然な感情によるものなのだろう。どこかで年をとりたくないと言う気持ちがあって、それ自体は、年齢を重ねることだって悪くないと言う気持ちと相反するものでもない。むしろ、同時に発生する感情でもあるのだ。
 だって、若い頃には年をとった自分なんて想像できないのだから、その異なる二つの気持ちを感じることなんてできるはずもないではないか。ようやく、それを理解できるようになったというだけのこと。

 落ちてなお、濡れたアスファルトの上で輝く花弁と、それをどこからか見ている花頭と、やがて朽ちて茶色になりつつある花弁と、我関せずの新緑と。一体どれが本当の姿なのか。そんなことを考えた刹那だった。