Bonne journée, Cross Cultural

Yokohama

(日本語は下に)

The usual Yokohama is finally back. Some people say that after three strange years of hard days, life has returned to normal, but I may have forgotten what it was like at that time.
Three years ago, I was in Europe watching a TV news report about a large number of infected people on a large cruise ship from Hong Kong. The ship had dropped into the port of Yokohama to receive medical assistance but, for me, it didn’t sound real thing.
Then, two weeks ago, 6 large ships entered Yokohama Port at the same day and many tourists were enjoying their vacation. The usual Yokohama is finally back.

やっといつもの横浜が戻ってきた。 3年続いた奇妙な日々の後で、普通の生活が戻ってきたという人もいるが、私には以前の様子を忘れてしまっているような気がしている。
3年前ヨーロッパにいて、香港からの大型クルーズ船で多数の感染者が出たというテレビニュースを見ていたが、それは現実のものとは思えなかった。
2週間前、同日に大型客船6隻が横浜港に入港した。 ようやくいつもの横浜が戻ってた。

Cross Cultural

Pâque

15年ほど一緒に仕事をして来たフランスの知人によれば、多くのフランス人はもはやキリスト教など信じていないという事になる。ムスリムが増えたとかそういった事ではない。依然としてキリスト教徒が9割の国である。日曜礼拝どころか毎日カランカランと教会の鐘の音が響き渡る。それなのに、礼拝など行ったことがないのだそうだ。洗礼を受けただろうなんて言ってみようかとも思ったが、日本でも子供が生まれたらお宮参りしたりするが、毎日神社にお参りする人は多くないなと思い返した。その知人によれば、欧州の多くの国と同様、宗教はもはや習慣の類であって、真剣に神の存在を信じている訳ではないのだ。

それでも仕事で関連していたブルターニュはカトリックの強い地域である。日曜となれば教会にそこそこ人も集まる。あの教科書で習う宗教の自由を保証したナントの勅令は、プロテスタントを認める王令であってブルターニュとも関係が深いし、フランスの中では特に日曜日をお休みとするお店が多い地域でもある。小さな村であっても欠かさず毎日教会の鐘の音が響きわたる。それこそ1時間毎に。

そんなブルターニュでも、というよりキリスト教の根強いフランスであっても、この時期は鐘の音を聞かなくなる日が訪れる。復活祭(イースター)である。復活祭の前の木曜日の夜から教会の鐘は鳴らなくなる。鳴らしてはいけないとか、準備で忙しいとか、そんな理由ではない。そもそも鐘はそこにないのだ。いや、尖塔を見上げたらちゃんと鐘があったとか、そんなのは形だけだとか、今どき鐘はタイマーで鳴らしてるとか、そんな事は言ってはいけない。鐘はそこにない事になっている。鐘は皆、キリストの死を悼んでローマ方面に旅立ったのだ。鐘を鳴らす人ではない。鐘自体が旅立ってしまうのだ。

どんなふうにローマに飛んで行ったのかはよく分からない。羽が生えて飛んで行ったらしいが見た人はいない。バチカンでは教皇に祝福を受け、復活祭の日曜日に戻ってくる。そうでなければ困るのだ。何故なら、バチカンのお土産はチョコレートなのだから。祝福を受けた教会のそれぞれの鐘は、復活祭の日曜の朝、イタリア土産のチョコレートを持って復活を知らせにそれぞれの町に戻ってくる。戻ってくる途中でチョコレートはバラバラと落ちてしまうのだが、良い子たちは木々の間や茂みの中にそれを見つけ、復活祭の楽しいひと時を過ごすわけだ。無論、良い子でなければ見つからない。アメリカあたりだとチョコレートはイースターバニーが運んでくるらしいが、フランスはバチカンを訪問した教会の鐘たちのお土産というわけだ。そんなわけで、熱心なキリスト教徒にとってはもちろんクリスマスより重要な復活祭だが、子供達にとってもようやく春になって暖かくなったひとときを楽しく過ごす一年で一番重要なイベントでもある。もはやキリスト教を信奉していないなどと言いながらもすっかり生活に宗教が根付いているわけで、人の営みとはそういうものなのかなと思う。

そう言えば、日本にだって似たようなものがある。すっかり名前だけになってしまったが、10月を神無月というのは八百万の神々がみな出雲に行ってしまっているから神様の無い月なわけで、どこか似ているでは無いか。チョコレートこそお土産にもらえないが、ぜんざいは出雲発祥とのこと。神様の帰りを待ってもきっとお土産はないが、そこはそれ、今どきオンラインで買えば良いのだ。いや、10月まで待ってられないなら東京ディズニーリゾートでイースターを楽しめば、と思ったら、今年は40周年でイースターイベントはないそうな。まぁ、なんでもお遊びにしないほうが良いとは思うのだが。

ところで、昨年の復活祭(フランスではパクと言う)でふと疑問が湧いたことがある。いや待てよ、今年の復活祭はまだ金曜の夜だというのに教会の鐘がだいぶうるさいなと。気温が上がったので空気の入れ替えにと窓を開けたら、近所の教会の鐘の音が風に乗ってガンガン響いてくるのだった。そう言えば以前もなってたような。真相はわからないが、結局のところタイマーで自動で動いている教会の鐘は、復活祭の前であってもなり続けていたようだ。

まぁ、そんなものである。

今年の復活祭は、2023年4月9日。今年はフランスにいる予定はない上に、プロジェクトも区切りを迎えてここしばらくはフランス人と話す予定もないから様子もわからない。すっかりコロナの影響も無くなって、きっといつもの復活祭が戻って来たのだろうと想像している。

Cross Cultural

待合室

 佐藤さーん、お待たせしました。診察室へどうぞ。田中さーん、お会計お願いしまーす。
 待合室に響くそんな声を久しぶりに聞いた気がした。再び日本に戻って来て、健康診断や予防接種などで何度も病院にお世話になっているはずなのに、なぜかそんな声を忘れていたらしい。待合室のソファーには20人もの人が腰を下ろして、誰もが次は自分かなと思いながらスマートフォンを眺めている。壁にはマスク着用の依頼と、小さな文字がびっしりと書かれた数えきれないほどの案内。アクリル板で仕切られた受付の向こう側では、ふたりの担当者が書類を持って右往左往しながら、新たな患者と診察を終えた患者とに無駄なく対応していた。周囲が少しだけ暗くなって明かりがはっきりと分かるようになってきた夕暮れ時の病院は、早めに仕事を切り上げてやってきた患者で慌しかった。

 少し脚に痛みを感じてやってきた自分も、同じ待合室で待つ他の人々も、さして違いはないのだろうなとぼんやりと思った。何に違いがないのか、何が違うのか、そんな話でもない。ただ普通に日常を過ごす名も無い誰かであると言う点で、区別のしようのない自分がそこに順番を待っていたのだった。

 数日前に脚を捻って、坂を下る時に膝の辺りにわずかに痛みを感じていた。そのうち治るだろうと思っていつもの生活を続けていたのだが、治るどころか徐々に痛みが増して、とうとう医者に診てもらった方がいいかなと考えたのだ。

 確か前に訪ねたあの整形外科の先生はそれなりに信頼できそうな人だったな、などと思いながらWebサイトを眺めたら、「先代の院長への信頼を継続していただけるよう」などと書いてあった。どうやら医師も代わったらしい。そういえば、ここを訪ねたのはずいぶん前だったなと思い返す。案の定、ようやく見つけた古い診察用のカードを健康保険証と共に受付に出したら、「前回はだいぶ前ですか?」などと聞かれたのだった。後で新しいカードに交換してくれたが、それが前と何が違っているのかは皆目検討がつかない。ただ、間違いなく自分のカードは一目でわかるほどに古いものだったという事だ。数年もすればひと昔と言われるような時代に日本を離れていたのだから仕方ない。

「19人お待ちになりますが、お買い物など外出されます?」事務的で無表情に対応しているように見えた受付は、少し困ったような笑みを微かに浮かべて続ける。「脚が痛いからいらしたんですものね。歩きたくありませんよね。」
できればそこに座って待つほうが良かったが、待つにもソファーは人がいっぱいだった。
「待ち時間は1時間くらいですかね。」
そう聞いても答えは曖昧だ。
「そうですね。それ以上早いことはおそらくないと思いますが、なんとも。」
分かりきった質問への分かりきった答え。順番待ちなのだから、時間など確定できるはずもない。
「じゃあ、外出します。1時間きっかりで戻りますね。」
「分かりました。本当にお待たせしてすみません。今日はなんだか混雑してて。戻られましたら受付のお声がけください。」

 やれやれ、診療開始の時間に来て1時間待ちだとすると、一体どのくらい前にくれば良いのか。そんなことを考えつつ、カフェに転がり込むことにした。病院の窮屈なソファーよりも、雑多なカフェの騒音の中の方が、静かに過ごせるような気がした。

 そのカフェの落ち着かないソファーで大きめサイズのコーヒーを飲みながら過ごした1時間は、とり立てて書くようなこともない。1時間のゆっくりとした時間は、本を読みながら過ごした豊かな時間というよりは、コーヒーで胃が膨れただけの妙な空白でしかなかった。

 スマートフォンを取り出し、コーヒーをひとくち飲んで、ニュースサイトを開き、コーヒーをひとくち飲んで、興味もないニュース記事をひとつ読む。ふたたびコーヒーをひとくち飲んで、またも興味もないニュース記事をひとつ読む。さらにコーヒーをひとくち飲んで、次の記事を開き、コーヒーをひとくち飲む。無限に続く繰り返し。大岩を山頂へと押し上げるシーシュポスよりもまだマシというものだが、その単調な繰り返しは人生の縮図を見るようだった。

 やがて、Kindleを持ってくればよかったなどと役に立たない後悔をし、ふたたびコーヒーを飲む。1時間の繰り返しの後に残ったのは、底に微かに残った冷え切ったコーヒーと500円の領収書だった。

 病院に戻り、慌ただしい受付を感染対策のアクリル板の横から首を伸ばすようにして覗き込むと、すかさず受付の人が言う。「あ、戻られたんですね。」困ったような笑みは変わらず、「まだ10人ほど」と想像していたような一言。分かっていた筈ではないか、時間がかかると。分かっていたからこそコーヒーを飲みに出かけたのだ。だが、もしかしたら、次ですよという言葉を根拠もなくどこかでほんの少し期待していたのも事実だった。

 診察が終わって、特に異常がない事が分かってほっとしながら痛み止めの処方箋を薬局に出したあたりで、3時間が経過していた。きっと診療開始時間30分前に行けば1時間後には全てが終わっていたのだろう。やれやれ。

 それでも、とふと思った。確かにフランスでは全てが予約制で、病院の待ちはせいぜい20分といったところだったが、肝心の予約が数日先、時には数ヶ月先で、予約した日にはとっくに治っているのだった。つまり、自分で治せるようなら医者を訪ねるなという事なのだろう。もちろん酷い状態なら緊急で診察してくれることもあるが、あくまでも緊急なのだ。あなた、自分で歩いて来たんだから、緊急じゃないでしょ、なんて言われそうだ。

 その点日本は簡単で、気になったらすぐに医師を訪ねれば良い。どうして混んでる時に来たのかなどとつまらない小言を言われることもない。

 どちらが優れたシステムなのかといった話ではもちろんない。熱があって座っているのも辛いのに2時間も待ちたくないが、熱があって座っているのも辛いのに2週後の病院予約もしたくない。たったひとつ確実に言えるのは、ここは日本だというその確信である。ありがたいことだ。いやそうでもないか。

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文学と絵画とブルターニュ

 アンリ・モレの「ブルターニュの断崖」やポール・ゴーガンの「二人のブルトン人」を見たかったら、地の果てなどと揶揄されるブルターニュの西の隅まで出向かなければならない。所蔵するポン・タヴェン美術館は、パリからは相当遠い場所にある。だからフランスの西の果てと言われるくらいは仕方ない。だが地の果ては少々言い過ぎだろうと思う。TGVでブレストまで行ってレンタカーで南下してもいいし、そもそもバカンスを過ごすような場所なのだから、遠くからでも時間をかけて辿り着けばよいのだ。もっとも、ゴーガンのポンタヴェン派としての代表作である「美しきアンジュール」も「黄色いキリストのある自画像」もそこにはない。あるのはオルセー美術館だから、わざわざ行くまでもないと言われればそれまでではある。
 でも、行かなければわからないこともある。川のせせらぎ(下の写真)も、どこまでも透明な海も、行って体感しなければわからないように、アンリ・モレの描き出す色とりどりのブルターニュの断崖は、パリにはない。
 もっとも「黄色いキリストのある自画像」ですら日本にいては見られない。スマホで見ても大きさも色もタッチも違うから、分かるのは知識としてのゴーガンでしかない。
 それでも絵はまだ良いほうかもしれない。どんなにお金を出そうが、どんなに時間をかけようが、もはやショパンが弾くピアノは確かめようがない。ワグナーが恭しく指揮をとるワルキューレが聞こえる事もない。ひょっとしたらそれよりもずっと出来が良いオーケストラで、ずっと洗練された指揮の下、当時以上の再現演奏を聴くことが出来ているのかもしれない事が救いではあるが、絵とは違ってオリジナルはもうないのだ。
 その点、文学はありがたい。書き手が意図したそのままをいつでも手に出来ている可能性が高い。小さな誤りが訂正されていたり仮名遣いが現代表示に訂正されていたりすることもあるかも知れないが、模写やコピーとは違って劣化しないのだ。それがたとえkindleであろうが、そこで読む宮沢賢治は宮沢賢治そのものだ。
 いや翻訳ものはどうするんだとか、絵なら世界共通だとか、そんな指摘はあるだろうが、それはそれ、大目に見ていただきたい。文学の普遍的なアドバンテージはその劣化のない作品を手にすることの喜びなのである。
 ありがたいことにブルターニュ大公城にあるターナーの「ナント」は、まもなく国立西洋美術館で見られるらしい。3/18から始まる「憧憬の地ブルターニュ」という企画展のリストに確かにあった。熱烈なラグビーファンでターナー好きの方には残念だが、日本戦を応援に行ったついでにターナーの「ナント」は見られないのかもしれない。いや、その頃にはブルターニュ大公城の美術館に戻っているのか?

 トップの絵は「ダイヤのエースを持ついかさま師」などで知られるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの代表作のひとつ「聖誕」。
 地元の人はこれくらいしかいい絵がないと言って残念がるが、これを見るために行く人もいるレンヌ美術館所蔵品。他にも佳作がたくさん。

アヴァン川のせせらぎ
Bonne journée, Cross Cultural

マスクの日程

「苺をつぶしながら、私、考えてる。こんなに幸福でいいのかなあ、って。」
本当のところ中身の記憶は何ひとつ残っていないのだが、この書き出しだけは思い出す。良く知られた田辺聖子の「苺をつぶしながら」である。大袈裟に聞こえるかもしれないが、もうここだけでもう先が読みたくなる。きっと苺をスプーンの背でぎゅっと押しながら、それを見ている目は幸せな自分自身を眺めているのだろうなどと勝手に想像するのだ。そうやってこの部分はひとり歩きを始め、やがて本当に冒頭の部分だったかななんて不安になる。何しろその先の記憶はないのだ。読んだのはいったいいつだったか。

実際の気温など無視していなければやってられないなんて思っているのか、単に季節の行事が大好きで少しばかりその気持ちをお手伝いして儲けさせてもらおうというのか、街中はすっかりイチゴの季節となってきた。自分はといえば、やっぱりヨーグルトにイチゴを乗せて春を楽しんでいる訳だが、そのイチゴをスプーンで半分に切りながら、ふと目の先にある新聞記事が気になっていた。マスクをつけるかつけないかは、5/8からは個人の判断だという。いや、今だって個人の判断なのじゃなかったかなと思うのだが、その記事によればそうでもないらしい。

マスクをどうするかは色々考え方もあるが、気になったのはそこではない。国がそれを判断するってどういうことなのだろうと思ったのだ。日本に入国する時に国からの依頼だと聞いたが、もしかすると義務だったのかと今更気づいたのだった。緊急事態だから色々混乱もあるわけだ。出国したフランスはといえば、ある日政府がもはや義務ではないと言った瞬間から、誰もが自分の判断で好きなように決めたのだった。

マスクの着用のルールを変更するのは5/8からにするのは、ゴールデンウイークでの感染を避けるためだという。なるほどよく考えているなと思う一方で、これがフランスなら誰も従わないだろうとも思う。5/8がOKで、5/1がだめならその違いは何だと聞くだろう。だからなのか、ぎりぎりまでフランス政府は決定を言わない。1週間後から規制を撤廃すると言ったら、その日から誰も規制を気にしない。外出禁止であろうが、何だろうが、社会はゆる〜く動いていく。

そんなことを考えながら、イチゴをひとつ頬張るとスマホの通知がこう告げる。イチゴフェアのクーポンがあります。外は寒い。