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Mostly Monochrome Monday #440


Even if you squint your eyes and look at the road ahead, all you can see is uncertainty, not because the future is invisible, but because it may be better not to be able to see the future.

その道の先を目を細めて見ても不確かにしか見えないのは、未来が見えないからではなく、未来が見えない方が良いからかもしれない。

A Part of Mostly Monochrome Monday

Bonne journée

抽象


 ピート・モンドリアンの本当の名前は、ピエト・モンドリアンなのだと思っていた。モンドリアンという響きからしたら、ヨーロッパのどこからか移り住んだ移民で、英語の響きに合わせてピートと呼ばれたのだろうと。その推測はあながち外れてはいなかったのだが、本名は、ピーテル・モンドリアーン(Pieter Cornelis Mondriaan)で、オランダ人だそうだ。確かにaanという語尾はオランダ的ではある。
 言わずと知れた抽象画の巨匠で、抽象画というジャンルを作り上げたひとりと言って良いのだろう。少なくとも絵画の拙い知識はそう言っている。
 絵画好きなら誰でも知っているモンドリアンであるが、個人的には(素人の単なる絵画好きなのだから個人的に決まっている)、正直言えば、どことなくテキスタイルのイメージがこびりついて、さほど興味を持たなくなって久しい。現代の基準で見てはいけないとは分かっている。そう分かっていても、イヴ・サン=ローランの作り上げたイメージが強烈すぎるのだ。
 もちろん初期の作品や抽象画への移行期の作品はまるで違う。自然なリンゴの木が、やがて曖昧な空間に漂うさざなみのように画面を揺れ出すのを見ていると、ちょっとワクワクさせられる。

 そんなモンドリアンの作品で、これだけは心惹かれるという作品がブロードウェイ・ブギウギである。抽象化され、もはや元が何だったかもわからないほどの単純な図形と色になった作品の中で、これだけは元の形も色もリアルに想像できる。「あぁ、これがブロードウェイか」と車のクラクションの音まで聞こえてくるのだ。街角にはポスターが貼られ、宣伝用の音楽が流れている。
 きっとこれがモンドリアンの集大成なのだと勝手に想像した。目に見えるものも見えないものも含めて、映像を単純化し続けた先に、具象があったのかもしれないとさえ想像した。美術の専門家でもないからモンドリアンがどう言っていたかも知らないが、単なる美術のファンであれば勝手に想像しても良いという特権もある。だから、それが間違いであったとしても、自分にとってのモンドリアンは、ブロードウェイ・ブギウギに集約される。

 先日、早朝の街を歩いていると、ふと目に止まったドアがあった。そのドアは、東京にあったのであって、モンドリアンとは何も関係ない。おそらくは早朝だから目についたのであって、普段は気づくこともないドアだろう。冬の朝の冷え切った空気の中で凍りつく金属のドア。真っ白だったであろうそのドアは薄汚れ、誰も見向きもしない商店の横で静かに存在していた。
 そのドアについた汚れがモンドリアンに見えてきたのだった。しかも、ドアの横にはアナログのメーターがあり、有機物を思わせる緑色のホースがのぞいている。ひょっとするとメーターの針はそのドアの街のエネルギーのレベルを示し、ホースは時折息を吹き返して動いているのかもしれない。落ちた枯れ葉がカサカサと音をたて、固く閉ざされていると思ったドアは、意外にも鍵がかかっていないように見える。周囲を見渡し、誰もいないことを確かめると、そのドアを開けてみたいという衝動が強くなった。もちろん、そんなことをすれば犯罪になるかもしれないし、開けたら向こう側にその場所の所有者がいて、こちらを睨んでいるかもしれなかった。常識に囚われていることを幸いに、ドアを開けずに済んだのは、ラッキーだったかもしれない。
(写真の下に続く)


 このドアを見つけ、足を止め、しばらく眺めていると、ふと妙な考えが湧いてきた。もしかしたら突き詰めて作り上げる抽象と、偶然生まれてくる紋様の間には、差異はないのではないかと。意図したわけではないであろうオレンジ色のマグネットが、太陽の控えめな傾きを表現しているとしても、それを誰も否定できないであろう。

 バナーの写真は、自然に落ちた枯れ葉などではなく、誰かが散りばめた赤い実と枝なのではないかと思い始めると、急にそれを否定できなくなるような気がするのである。そこには時間が重層化され、たたみ込まれている。四半世紀前にもこの赤い実を落とす木がそこにあって、そこを通りかかった子供達が習ったばかりのカタカナのキを作り、その時間が焼き込まれた地面を、毎年赤い実が覆い尽くす。そうやって生まれたテクスチャは、もはやテクスチャなどではなく、子供達の楽しげな歓声を写し込んだ抽象なのではないか。
 モンドリアンのドアだって、そこで行われている毎日の規則正しい商売と、日々のランダムに揺れ動く予期せぬ時間軸が焼き付けられているのかもしれない。そうやって生まれた図形がたまたまモンドリアンの表現のように見えたとしても、何も不思議はない。

 考えすぎだよ。

 その通り。考えすぎが面白い。

Cross Cultural, Photo

(Floral) Friday Fragments #259


 北風が冷たかろうが、ようやく寒中から立春。これまでは気温も底に向かって低下する側だったけれど、これからは上昇局面。元気出して行きましょう。積分したらプラスですよ(って、ちょっと何言ってるのかわからない)。

 このところ、仕事の関係で久しぶりにベクトルとか行列とかを計算している。この手の計算は、得意だろうか苦手だろうが、どちらにしても嫌いという人が必ずいる分野なので、深くは立ち入らないことにしておく。

w=(X𝖳X+aI)𝟣X𝖳yw=(X^\mathsf{T}X+aI)^\mathsf{-1}X^\mathsf{T}y

こんなやつだが、見ればわかる人には分かる「ああ、なるほどね。そんなことしているのね。」という類の仕事だ。(WordpressでLaTeXが使えるとは。知らなかった。)

 で、そんなことはどうでも良いのだが、自分も若くないので、もうすっかり転置行列って何?くらいに数学を忘れているし、これが書いてある論文の中に出てくる英単語が思い出せなくなったりするのはもはや日常茶飯事になってしまった。こんなネガティヴな文脈で日常茶飯事なんて言葉が適切かどうかわからないけれど、思い悩むようなことはないくらいに当たり前のことなのだ。

 ひとつ大きなアドバンテージは、そうは言っても、忘れようが何しようが、一向に気に留めないということだ。「忘れちゃった。ま、いっか。」とニコニコしていられるのだ。しかも大抵は代替手段がある。他の言葉で言い換えたり、AIに頼ることなく数式を理解したり、抜け道を探したり、上手になったものである。

 そんなわけで、立春なのだ(関係ないか?)。菜の花だって咲き乱れている。写真は房総半島の先っぽで先週撮ったもの。黄色に輝く一面の菜の花を見ながら、立ち寄った道の駅で菜の花を買う。もちろん鑑賞のためではなく、食べるため。春を丸ごと食べる贅沢って良い。

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Mostly Monochrome Monday #439


I found myself standing there for a while, thinking that if that little cloud had broken through the wire mesh and escaped, no one could complain it.

あの小さな雲が金網を破って抜け出したのだとしたら、それに不平を言うことなどできないだろうと思いながら、しばらくそこに立ち尽くしている自分に気がついた。

A Part of Mostly Monochrome Monday