
Why is it that when I look at flowers nestled together, I feel both a strange sense of security and anxiety? Where do these ambivalent feelings come from?
寄り添う花を見て不思議と安心感と不安の両方を感じるのはどうしてか?このアンビバレンツな感情はどこからくるのか?
A Part of Mostly Monochrome Monday
capturing in prose

Why is it that when I look at flowers nestled together, I feel both a strange sense of security and anxiety? Where do these ambivalent feelings come from?
寄り添う花を見て不思議と安心感と不安の両方を感じるのはどうしてか?このアンビバレンツな感情はどこからくるのか?
A Part of Mostly Monochrome Monday

先日、近所の公園を抜けて買い物に行こうと歩いていたら、お庭に果物を植えているお宅の前で危うく落ちた柿の実を踏みそうになった。いつもきれいにされている方なので、きっと落ちたばかりだったのだろう。慌てて避けて通り過ぎた後で、ふと気になって振り返ったのだが、それが何故なのか、最初は自分でもよく分からなかった。でも、振り返って少し戻ってみて苦笑いした。その熟れたオレンジ色が気になったのだ。それはなかなか美しい色で、汚らしさよりも妖艶さが先に立った。熟れるという事の意味を本能的に感じたような気にさえなった。歩きながらどうにも気になって、帰り道に写真でも撮ってみようと考えたが、その時にはすっかり綺麗に掃除された後だった。きっと写真に撮っても、感覚は伝わらなかっただろう。
その後、用事を済ませて家に帰り、熟れた柿のことをすっかり忘れて、ウェブサイトでゴーギャンのパペ・モエ(タヒチの言葉で神秘の水)を眺めていた。岩の間からだろうか、一筋の水が真っ直ぐに落ちている。その水に腰に布を巻いた誰かが口をつけようとしている。女性か男性かも分からない。少し暗いその場所は、自然の色に溢れているようでもあり、緑と茶色だけの原始的な色に包まれているようでもある。
あまり日本では人気がないようだが、そこそこ知られた作品である。実は一時期日本人が所有していたと書いてあるサイトもあって、その辺りは定かではない。個人的にはシンプルであるが故に、情報が散漫にならず、好きな作品である。
現代の基準からすれば、ゴーギャンがタヒチでしてきたことはもはや許されるようなものではない。特に少女たちとの関係を含めた性の話は、無視できるものではないし、時に両性に区別のないほどに奔放であったとも言われるゴーギャンの振舞いについては、よく分からないままにここで触れるつもりもない。
ゴーギャンの時代は今とは違う時代であるし、時に批判される彼がどんな人物であったにせよ、写真でその作品を見ているだけで、どこか人間の根源の部分に触れたような気がしてくる。それが何かとはなかなかうまく表現出来ないが、その原始的な部分を感じさせる何かが、一筋の水に口を寄せる姿に感じるものと同じであるとは言い切れる。
楽園などという安っぽい表現では表現しようがない。生きることが水を口にする事に直接関係するように、生きることは時に性とも結びつく。そうであるにもかかわらず、上半身裸の姿で描かれた人々に感じるものは性欲に属するものではない。生きるエネルギーであると同時に、日々の生活を忘れて好きに呼吸するようなゆったりとした怠惰さでもある。生きるために水を口にし、日々の仕事を淡々とこなし、面倒になれば休み、誰かとおしゃべりする。時に腰に布を巻いただけの男女の絵は、都会の決まりきった生活と相反するのではなく、その都会の生活を覆う無駄なものを剥ぎ取ったものであって、見ているものはきっと同じものなのだ。
そんなことを感じていたら、急に柿のことを思い出した。その思い出した朱色に艶々と輝き、ねばねばとした液体がこぼれる様子は、正直に言えば少し猥雑で、性的なものであった。その性と関連したような感覚とゴーギャンが描く赤茶色のプリミティブな生きることとが、綺麗に裏腹にあるような気がして、急に腑に落ちたのだ。都会の生活を覆う無駄な覆いを剥ぎ取って生きるための基本的な部分を見つめるとき、きっと見えているものは性に感じるものと似ているに違いないと。両者は明らかに違うものであると同時に、どこか根源的な部分で深く関連していて、時に区別がつかなくなるものなのだ。
勘違いかも知れない。でもそう考えると、ゴーギャンの絵に感じる生きることの強さと弱さが理解できるような気がする。

あれ?秋晴れって何だっけな。
ふと疑問に思ったりする。秋雨が上がり、移動性高気圧に覆われてカラッと晴れた状態を秋晴れと言う。そう思っていたし、慌てて調べてみたらそう書いてあるサイトが多い。秋の台風が通り過ぎた後の青空なんて書いてあるサイトもある。でも、思うのである。それって頭で考えた情景じゃないのと。
秋雨が上がって青空が出たということは、秋雨前線が南に下がって、北からの少し乾いた空気が入ってきたということが多いのだろうか。あるいは、停滞する秋雨前線に沿って南岸を低気圧が通り、太平洋に抜けて発達した状態だろうか。停滞前線は、冷たい風が優位になり、寒冷前線となって通過して行ったあと、少し強い北風が吹き込んできたという状態だ。台風も似たような状態だ。偏西風に乗って台風が南岸を通過した後、北から少し冷たい風が回り込んでくる。あまり疑問を感じるような話でもない。
今回は、それが妙な感じがしたのだった。秋雨前線が一気に下がったのならわかるが、大抵は南で上がったり下がったりを繰り返す。確かに晴れたりはするが、モヤっとした空になって、カラッと晴れたりはしない。南岸を低気圧が過ぎ去って行っても、シベリア高気圧が十分に発達していなければ、台風一過の晴れにはならない。案外10月は秋晴れにはならないのだ。11月3日は晴れの特異日なんて言われるが、逆に言えば、それまではなかなかカラッと晴れない。結局、スコーンと抜けた青空が広がる晴れは、11月の冬型の気圧配置じゃないのだろうか。
どうでも良い話であることは重々承知している。でも、頭で記憶している「定義」は、案外思い込みのような気がしてしまったのだ。秋の空って案外湿っていて、冬の空気が流れ込んできた時に、太平洋側が乾いた空気に覆われた時だけカラッと晴れる。その機会は思いの外少ないのかなと。

A twisted metal spring and muscles with a constant flow of blood overlap, and sweat drips down. That’s what you see.
ねじ曲がった金属バネと血流が絶え間なく流れる筋肉とが重なる上に、汗が滴り落ちる。それが見えているもの。
A Part of Mostly Monochrome Monday