
先日、近所の公園を抜けて買い物に行こうと歩いていたら、お庭に果物を植えているお宅の前で危うく落ちた柿の実を踏みそうになった。いつもきれいにされている方なので、きっと落ちたばかりだったのだろう。慌てて避けて通り過ぎた後で、ふと気になって振り返ったのだが、それが何故なのか、最初は自分でもよく分からなかった。でも、振り返って少し戻ってみて苦笑いした。その熟れたオレンジ色が気になったのだ。それはなかなか美しい色で、汚らしさよりも妖艶さが先に立った。熟れるという事の意味を本能的に感じたような気にさえなった。歩きながらどうにも気になって、帰り道に写真でも撮ってみようと考えたが、その時にはすっかり綺麗に掃除された後だった。きっと写真に撮っても、感覚は伝わらなかっただろう。
その後、用事を済ませて家に帰り、熟れた柿のことをすっかり忘れて、ウェブサイトでゴーギャンのパペ・モエ(タヒチの言葉で神秘の水)を眺めていた。岩の間からだろうか、一筋の水が真っ直ぐに落ちている。その水に腰に布を巻いた誰かが口をつけようとしている。女性か男性かも分からない。少し暗いその場所は、自然の色に溢れているようでもあり、緑と茶色だけの原始的な色に包まれているようでもある。
あまり日本では人気がないようだが、そこそこ知られた作品である。実は一時期日本人が所有していたと書いてあるサイトもあって、その辺りは定かではない。個人的にはシンプルであるが故に、情報が散漫にならず、好きな作品である。
現代の基準からすれば、ゴーギャンがタヒチでしてきたことはもはや許されるようなものではない。特に少女たちとの関係を含めた性の話は、無視できるものではないし、時に両性に区別のないほどに奔放であったとも言われるゴーギャンの振舞いについては、よく分からないままにここで触れるつもりもない。
ゴーギャンの時代は今とは違う時代であるし、時に批判される彼がどんな人物であったにせよ、写真でその作品を見ているだけで、どこか人間の根源の部分に触れたような気がしてくる。それが何かとはなかなかうまく表現出来ないが、その原始的な部分を感じさせる何かが、一筋の水に口を寄せる姿に感じるものと同じであるとは言い切れる。
楽園などという安っぽい表現では表現しようがない。生きることが水を口にする事に直接関係するように、生きることは時に性とも結びつく。そうであるにもかかわらず、上半身裸の姿で描かれた人々に感じるものは性欲に属するものではない。生きるエネルギーであると同時に、日々の生活を忘れて好きに呼吸するようなゆったりとした怠惰さでもある。生きるために水を口にし、日々の仕事を淡々とこなし、面倒になれば休み、誰かとおしゃべりする。時に腰に布を巻いただけの男女の絵は、都会の決まりきった生活と相反するのではなく、その都会の生活を覆う無駄なものを剥ぎ取ったものであって、見ているものはきっと同じものなのだ。
そんなことを感じていたら、急に柿のことを思い出した。その思い出した朱色に艶々と輝き、ねばねばとした液体がこぼれる様子は、正直に言えば少し猥雑で、性的なものであった。その性と関連したような感覚とゴーギャンが描く赤茶色のプリミティブな生きることとが、綺麗に裏腹にあるような気がして、急に腑に落ちたのだ。都会の生活を覆う無駄な覆いを剥ぎ取って生きるための基本的な部分を見つめるとき、きっと見えているものは性に感じるものと似ているに違いないと。両者は明らかに違うものであると同時に、どこか根源的な部分で深く関連していて、時に区別がつかなくなるものなのだ。
勘違いかも知れない。でもそう考えると、ゴーギャンの絵に感じる生きることの強さと弱さが理解できるような気がする。



