Bonne journée

喰らうということ


 ひとには欲というものがあって、その重要なもののひとつが食するという行為である。それは時には楽しい会話と共に供された食事を楽しむということもあれば、命を繋ぐためにエネルギーを得るということもある。そうした食事をどういう訳か卑しく感じることもないわけではない。時に食べかけのテーブルを見ていると、時々その乱雑さに後ろめたさを感じたりもする。

 きっとそれは、その食するという行為が欲に発するものであって、その欲に対する卑しさをどこかで感じているからであるに違いない。その真偽はわからないが、少なくともそう感じたのである。何らかの食物を喰らうという行為は、貪欲さを曝け出すようで、気恥ずかしいところがあるからなのだろう。

 眠気を感じて寝たいという欲求は、あまり恥ずかしさを感じるものでもない。それが何故か、食事をするとなると、わずかに妙な感覚を伴うことがある。食事は敵に狙われやすい危険な行為だから隠れてするといった解説を見たこともあるが、それと関連するものかどうかはわからない。性欲も危険を伴うから隠れてするもので、そこに欲求と行為のバランスがあるのだという解説を読んだが、分かったようで卑しさとの関係ははっきりしない。

 上の写真は、実は病院食である。少し高級なフランスの病院で、健康な人向けに出した食事だから、病院食にしてはなかなか豪勢ではある。しかも、少したべた後で撮ったので、もうひと品かふた品が皿にのっていたと記憶している。フランスの流儀に従って、ちゃんとデザートもあるし、食事を終えてのんびりしていたらコーヒーのおかわりはどうかと聞かれたくらいだから、病院食というには特殊かもしれない。

 もしかしたら、これがもっと質素だったら食することに欲を感じなかったのかもしれない。検査のために空腹で過ごした午後のひと時の後で、食べかけの皿を見ながら、案外美味しいじゃないかと写真を撮る行為に気恥ずかしさを感じたのかもしれない。ただ、そう思った瞬間から、健康な食事をするという少し前向きな行為が、どこかで遅い昼飯を喰らう気分になったのは間違いない。

 ちなみに、まったく別な場所でまったく別な理由でフランスの病院食を食べたことがあるが、それは昼食ではなく、昼食抜きで簡単な手術をした後で、薬を飲むために供されたものだった。量も少なかったし、乳製品主体の簡素なものだったから、こちらは食事の卑しさみたいな感覚は一切なかった。思っていたのは、「腹減った」だけである。

Cross Cultural, Photo

(Floral) Friday Fragments #260


 咲きそろっているのが愛らしくて、つい車を止めて写真を撮りにいったのだが、ソフトフォーカス気味に写した写真をみたら、皆がこちらを見ているような気がしてきて何だか落ち着かない。ディズニー映画やパークでお目にかかる歌う花って、こういうことなのかと考えた。

 若い頃は動物でもない植物が、口でもない花弁を開いて歌い出すという表現が今ひとつ理解できなかったが、歳を重ねてみれば、花が歌って見えるというのを受け入れられてしまうのも不思議なものだ。それだけ、子供のような頭に戻ってきたのか、さまざまなものを受け止めるだけの余裕ができたのか、あるいは単純に興味を持つものが少なくなって、細部を受け入れるようになったのか。少なくとも、天真爛漫に物事を見られるほどは歳をとっていないし、そもそも法的にもまだまだ高齢者ではないので、それだけ許容範囲が広がったのだろうとポジティブに受け取った。

 とはいえ、いわゆる若者という部類ではないことは認めなければならない。だって、上みたいな写真をわざわざ撮ってしまうのだから。

 先日、知人がSNSでアニメーションを紹介しているのを読んで、少しやりとりした。その方に迷惑をかけるかもしれないので、そのやりとりについては書かないが、要は、自分がマンガというものを受け付けないという点がやりとりの背景にある。有名なマンガとかアニメーション作品というものがあるが、マンガ雑誌のようなものに連載される作品は、読んでもほとんど頭に入らない。それが動画として動きを持つと多少は分かるが、すぐに飽きてしまって最後まで見られないのである。

 一枚一枚の絵としてなら、「ああ、この絵は面白いな」とかいった感想はある。AKIRAのキービジュアルを見て、「アメコミみたいな絵なのに細かいな」なんて思ったりもする。でも、読んでみろと言われて借りた単行本には、何が書いてるのかよくわからない。だから、学生時代に漫画を読み耽ったなどという経験もない。そう考えると、若くないというよりは、マンガの読解力がないのだろう。もしかしたら、さらに歳を重ねると読めるようになるのか、それとも、脳の柔軟さが欠けてきて、ますます読めなくなるのか、どちらなんだろう。どうでも良い話なのだが、写真を見ながらくだらないことを考えたのだった。

Photo

Mostly Monochrome Monday #440


Even if you squint your eyes and look at the road ahead, all you can see is uncertainty, not because the future is invisible, but because it may be better not to be able to see the future.

その道の先を目を細めて見ても不確かにしか見えないのは、未来が見えないからではなく、未来が見えない方が良いからかもしれない。

A Part of Mostly Monochrome Monday

Bonne journée

抽象


 ピート・モンドリアンの本当の名前は、ピエト・モンドリアンなのだと思っていた。モンドリアンという響きからしたら、ヨーロッパのどこからか移り住んだ移民で、英語の響きに合わせてピートと呼ばれたのだろうと。その推測はあながち外れてはいなかったのだが、本名は、ピーテル・モンドリアーン(Pieter Cornelis Mondriaan)で、オランダ人だそうだ。確かにaanという語尾はオランダ的ではある。
 言わずと知れた抽象画の巨匠で、抽象画というジャンルを作り上げたひとりと言って良いのだろう。少なくとも絵画の拙い知識はそう言っている。
 絵画好きなら誰でも知っているモンドリアンであるが、個人的には(素人の単なる絵画好きなのだから個人的に決まっている)、正直言えば、どことなくテキスタイルのイメージがこびりついて、さほど興味を持たなくなって久しい。現代の基準で見てはいけないとは分かっている。そう分かっていても、イヴ・サン=ローランの作り上げたイメージが強烈すぎるのだ。
 もちろん初期の作品や抽象画への移行期の作品はまるで違う。自然なリンゴの木が、やがて曖昧な空間に漂うさざなみのように画面を揺れ出すのを見ていると、ちょっとワクワクさせられる。

 そんなモンドリアンの作品で、これだけは心惹かれるという作品がブロードウェイ・ブギウギである。抽象化され、もはや元が何だったかもわからないほどの単純な図形と色になった作品の中で、これだけは元の形も色もリアルに想像できる。「あぁ、これがブロードウェイか」と車のクラクションの音まで聞こえてくるのだ。街角にはポスターが貼られ、宣伝用の音楽が流れている。
 きっとこれがモンドリアンの集大成なのだと勝手に想像した。目に見えるものも見えないものも含めて、映像を単純化し続けた先に、具象があったのかもしれないとさえ想像した。美術の専門家でもないからモンドリアンがどう言っていたかも知らないが、単なる美術のファンであれば勝手に想像しても良いという特権もある。だから、それが間違いであったとしても、自分にとってのモンドリアンは、ブロードウェイ・ブギウギに集約される。

 先日、早朝の街を歩いていると、ふと目に止まったドアがあった。そのドアは、東京にあったのであって、モンドリアンとは何も関係ない。おそらくは早朝だから目についたのであって、普段は気づくこともないドアだろう。冬の朝の冷え切った空気の中で凍りつく金属のドア。真っ白だったであろうそのドアは薄汚れ、誰も見向きもしない商店の横で静かに存在していた。
 そのドアについた汚れがモンドリアンに見えてきたのだった。しかも、ドアの横にはアナログのメーターがあり、有機物を思わせる緑色のホースがのぞいている。ひょっとするとメーターの針はそのドアの街のエネルギーのレベルを示し、ホースは時折息を吹き返して動いているのかもしれない。落ちた枯れ葉がカサカサと音をたて、固く閉ざされていると思ったドアは、意外にも鍵がかかっていないように見える。周囲を見渡し、誰もいないことを確かめると、そのドアを開けてみたいという衝動が強くなった。もちろん、そんなことをすれば犯罪になるかもしれないし、開けたら向こう側にその場所の所有者がいて、こちらを睨んでいるかもしれなかった。常識に囚われていることを幸いに、ドアを開けずに済んだのは、ラッキーだったかもしれない。
(写真の下に続く)


 このドアを見つけ、足を止め、しばらく眺めていると、ふと妙な考えが湧いてきた。もしかしたら突き詰めて作り上げる抽象と、偶然生まれてくる紋様の間には、差異はないのではないかと。意図したわけではないであろうオレンジ色のマグネットが、太陽の控えめな傾きを表現しているとしても、それを誰も否定できないであろう。

 バナーの写真は、自然に落ちた枯れ葉などではなく、誰かが散りばめた赤い実と枝なのではないかと思い始めると、急にそれを否定できなくなるような気がするのである。そこには時間が重層化され、たたみ込まれている。四半世紀前にもこの赤い実を落とす木がそこにあって、そこを通りかかった子供達が習ったばかりのカタカナのキを作り、その時間が焼き込まれた地面を、毎年赤い実が覆い尽くす。そうやって生まれたテクスチャは、もはやテクスチャなどではなく、子供達の楽しげな歓声を写し込んだ抽象なのではないか。
 モンドリアンのドアだって、そこで行われている毎日の規則正しい商売と、日々のランダムに揺れ動く予期せぬ時間軸が焼き付けられているのかもしれない。そうやって生まれた図形がたまたまモンドリアンの表現のように見えたとしても、何も不思議はない。

 考えすぎだよ。

 その通り。考えすぎが面白い。