Cross Cultural

忘れ物


 今回は、10年以上前のポストの再録です。初出時は、読者の多くの方が日本語を母国語としていなかったこともあってかほぼ読まれませんでした。再録にあたって、一部を時代にあった記載に書き換えました。なお、イエメンに触れている部分がありますが、2015年以降、在イエメン日本国大使館は閉鎖され、現在も退避勧告が出ています。この記事は、イエメンへの渡航を推奨するものではありません。


 ずいぶんと昔のことだが、チューリッヒから中東経由で東京に戻ったことがある。いわゆる「南回り」である。ウクライナ情勢の問題やイランの状況もあって、もはや南回りも何もあったものではないが、当時も冷戦時代だったから、ヨーロッパ路線と言えばアラスカと北極を経由する北回りか、ドバイあたりを経由する南回りかの選択肢だった。南回りは多少時間がかかるとはいっても北回りの何倍もかかるというわけでもない。途中のトランジットを楽しんだ上に安いから、特に急ぐ旅でなければ、賢い選択肢だったのだ。

 その時の韓国人スチュワーデスは、十分と言うほどではないにせよ、英語、フランス語、韓国語、日本語の4か国語を話していた。さすがとしか言いようがない。韓国語もフランス語もわからない私は、もっぱらなかなか通じない英語で苦労をしたことが妙に印象に残っている。

 隣の乗客は、アメリカ在住の南イエメン人だった。確か、南部の何処かの州だったと思うが、そこからニューヨーク経由でヨーロッパの何処かに飛んで、さらにチューリッヒに飛び、いよいよ中東まで来たところだとしみじみと語っていた。長い道程であったが、実家までもう少しのところまで来たと。地球儀を眺めれば確かにもうすぐだが、これからもう一本乗り継ぐとかで、相当疲れた様子だった。

 正確には、南イエメンという国は、現在存在しない。30年ほど前にもうひとつのイエメンと統一され、最終的にイエメン共和国となった。統一後も内戦があったと聞く。今はどんな国となっているのか、接点もなくまったく知らないが、隣り合わせたイエメン人がとても嬉しそうにしていたところをみると、きっと素晴らしい故郷なのだろう。写真を見ていても、非常に美しい国土であることはすぐに分かった。もちろん、何もかもがバラ色などという事はないのが常である。彼は、搭乗時に預けた乾電池のことをしきりに気にしていた。手にいれにくいのだという。時代も代わり、今はもうそんなこともないのかもしれないが、少なくとも当時は電池を失くしたくないということだった。

 そこで彼はスチュワーデスに聞く。預けた乾電池はどこで受け取れるのか?簡単な質問である。だが、その簡単な英語がスチュワーデスに通じない。どうやら、batteryという単語がわからないらしいと気がついた。イエメン人の発音が通じないなら自分がと思って聞いて見たが、アメリカ英語風からカタカナ発音まで試して見てもいっこうに埒が明かない。チューリッヒで嫌な予感がしていた。搭乗直前のチェックで “by whom” で始まるやけに古臭い文語体のような不思議な質問をされたのだった。何だろうと訝っていると別な係官が飛んで来て、行っていいという。結局なんだかわからなかったがまともな英語の会話は期待できない様子だった。

 ともかく、今の問題は、隣のイエメン人が電池の受け取り方法を知りたい事をどう伝えるかである。幸いスチュワーデスは片言の日本語も話すので、乾電池と言ってみる。伝わらないので次は漢字で書く。最終的にどうなったのか分からないが、イエメン人は悲しい顔をしてあとで聞いてみるということだった。

 さて、もはやどの空港だったか覚えていないが、飛行機はドバイかどこかの中東の空港に着陸する態勢に入り、件のスチュワーデスはニコニコしながら入国カードのような書類を持って来た。
「イエメンまで乗り継ぎですよね」
とにっこり微笑みながら彼女は私にもカードを渡す。いや、この先もこの飛行機に乗っていきますと言おうと思ったが、面倒になってカードを受け取り座席のポケットに放り込んだ。

 着陸した飛行機は、しばらく駐機する予定であった。乗り継ぎの人はあちらへ、引続き登場する人はこちらへとアナウンスが入る。何れにせよ、燃料補給と整備のため全員下りるということだ。チューリッヒから乗る時にもアナウンスがあったかもしれないが、よく聞いていなかった。

 イエメン人とは別れ、ブリッジを渡り、自分が東洋人であることを証明するように、搭乗アナウンスを待つロビーはどちらに行けば良いか目で探す。結局は搭乗ゲートと同じ場所なのだが、見慣れない風景だから確かめるように一瞬立ち止まる。特にわからないというのではなく、さてどっちかなという瞬間的な思考停止である。目の前には、警備と思われるライフルを持った兵士が周囲に目を光らせていた。ぼんやりしながら再び歩き出す。兵士の前を通り過ぎた時である。兵士は、ライフルの銃床で背中のあたりを押しながら、急げと言ってきた。もちろん、早歩きでその場を離れた事は言うまでもない。

 特に治安が悪い訳でもない。空港の中である。恐らくは、兵士にも他意はなかっただろう。単に早く待合室に行ってくれという程度であったに違いない。とはいえ、銃床を振ることなど兵士にとって普通の動作だったのかもしれないが、それを銃になれない相手にしてしまったのだ。彼にとって日常でも、日常ではない相手には、不愉快というより恐怖である。もちろんそこは中東であって、銃が身近に存在しない日本ではない。そこでの異邦人は自分であると理解すべきだとはわかっていた。だから再び搭乗するまでの小一時間、かに残ったドルだったかスイスフランだったかの小銭でコーヒーを飲みながら、それでもスイスでの出来事を思い出していた。

 スイスとは限らず、ヨーロッパの鉄道駅には、いわゆる終着駅のような、それ以上行き先のない駅がある。ホームに滑り込んだ列車は、列車止めの前で停車する。線路はそこで終わりである。来た方向と違う方向に向かう時は、逆向き、つまりバックするように走り出す。神奈川の私鉄線にも同じような終着駅がないではないが、スイッチバックは珍しい。こうした終着駅が田舎の広々とした空間にあると、場所によっては、遥か彼方まで続くホームの先が誰もいない静かな場所だったりすることがある。

 その駅も、のどかな野原が遥かに広がるゆったりとした駅だった。遠く、鳥の鳴き声が聞こえてくる。乗り継ぐ列車まで小一時間あったので、ホームを散歩することにした。改札があるわけでもないので、気ままである。眺望もよく、遠くスイスらしい新緑の大地が続いている。

 しばらくするとその大地の向こうを貨物列車が走っているのが見えた。黒っぽい機械を載せて長々と続く列車は、視界の中でやがて大きくなり、そして積荷がはっきりと見えてくる。積荷は戦車であった。のどかな風景とは裏腹に、その国の確固たる現実が見えてきた瞬間であった。

 まぁ、そんなものだろうなと独りごちながら、暖かな春風に吹かれつつ先のベンチを目指す。誰ひとりいない静かな昼下がりである。ベンチにゆったりと腰を下ろしぼんやり山岳風景を眺めたい。

 ゆっくりと気持ちの良い空気を吸い込みながら歩いて行くと、ベンチには誰かが置き忘れるたのか、黒い杖のようなものがぽつんと立て掛けられたままとなっているのが見えた。列車に乗る時に忘れたのだとしたら今頃困っているだろうなどと思いながら近付く。しかし、それは、予想と違ってライフル銃だった。周りを見渡すが、誰も見当たらない。どうやらライフル銃の忘れ物なのである。遥か彼方の駅舎には少しばかり人がいるはずだが、こちらを気にしている様子もない。困ったことだ。ライフル銃を抱えて
「誰か落としませんでしたか?」
などと聞いてまわる気にはとてもなれない。結局、ベンチに座るのをあきらめ、駅舎で時間を過ごしたことは言うまでもない。

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(Floral) Friday Fragments #268


 椿は、死者の花木である。一部の地域では椿を葬送に用いる習慣があるそうだが、古椿にはいくつもの死者の言い伝えもある。どうしてこうも死と結びつけられるのか。

 若い頃を振り返れば、椿の花を美しいと感じたこともなく、ただ雨にぬれて汚らしくうなだれ、やがて地面に落ちて朽ちていくイメージばかりがあった。正直に言えば、サザンカと椿の区別もなかった若い頃に、そこまで思い描けるものがあったかどうか怪しい。それでも、時を過ごして記憶が積み重なった今、あの朽ちて茶色になった花を美しいと感じられるようになったのは、ある程度年齢が上がって少しだけ死が近くに感じられる年齢になってからという気はしている。

 資生堂のイメージが椿なのは、幅広い年齢層に訴えるためなのか、それともかつては広く美しいイメージがあったのか、興味があって資生堂のサイトにあたってみたら、「水を張ったガラスの器の中に椿の花弁と葉を浮かべ、ただようその様」とある。なるほど、資生堂らしい美しいイメージである。

 病院のお見舞いに椿を持って行ってはいけないのは、花の終わりに首がぽたりと落ちるからといった説明は、後からつけられた説明であって、よくある不思議マナーと同じだというのは説得力がある。花椿がぽたりと落ちて水に浮く様は、伝統的な日本の美でもある。決して不吉なイメージはない。

 ただ、作りが大きく見方によっては派手で鮮烈な椿の赤が、地に落ちて真っ赤に大地を染めるその風景は、確かにどこか強烈なイメージを残す。そこには、今時のカワイイ風景とは一線を画すものがある。だからこそ、旅人に息を吹きかけて蜂へと姿を変えさせ、花に吸い寄せられると蜂と共に大地に落ちる古椿の話(この話は言い伝えかどうか怪しい)があったりするのかもしれない。

Photo

Mostly Monochrome Monday #448


You gaze far beyond the horizon, unable to see anything, but perhaps there are people on that unseen side trying to see you but unable to.

遥か遠く水平線の向こうを見つめるあなたには、何も見えないが、見えない向こう側であなたを見ようとして見えないでいる人がいるのかもしれない。

A Part of Mostly Monochrome Monday

Cross Cultural

自転車(vélo)


 ご批判を覚悟の上で、道路交通法改正に関して少し書かせて頂こうと思います。自転車への反則金の適用に関するものです。賛成の立場ですので、もし、多少の不愉快さを許容していただけるなら、反対の立場の方もご一読ください。

 道路交通法改正については、さまざまなメディアで紹介されていますので、ここでは触れません。こんな時こそ政府がわかりやすい説明に努力すべきだろうと思いますが、民間の報道や団体がはるかに手厚いのが少々不可解ではあります。ともあれ、何らかの情報があちこちにあります。

 先日、職場でも春の交通安全運動や飲酒運転撲滅運動と共に、この改正についても紹介を兼ねた啓蒙運動がありました。驚いたのは、その中で、多くの方が批判的な立場であることでした。つまり、自転車は車道と言うが、危険極まりない車道を走らせるなど、国は実態が分かっていないのではないかと言うものでした。子供を乗せて不安定なのに車道など走れないとか、飲酒するから自転車なのにどうしたら良いのかとか、理解できるものもあれば、疑問符付きの横暴なコメントもありました。総じて言えるのは、自転車は歩行者の延長にあるように感じている人がほとんどだと言うことでした。

 気持ちはよくわかります。最近は、教育の機会もないので、自転車が車両であることを理解している人は少なくなりました。自転車は車道だからといって、車道の右側を走る人もいますから、すっかり混乱した状態なのだろうと思います。

 そのような状況下で、急に自転車は歩道を走るなとか、自転車に乗りながらスマホを見るなとか言われても納得できない人も多いだろうと思います。

 でも、一方で、確実に歩行者が危険にされされている現実もあります。歩道を走る電動自転車が歩行者にぶつかったりすることが増えましたし、場所によっては歩行者が仕方なく車道を歩いていることすらあります。自転車は速度が比較的遅いので、歩行者にぶつかっても痛い程度で済んでしまうことが多いものと思います。自分自身の経験からも、腕に軽くぶつけられたという程度なら何度もあります。幸いにも数日の打撲程度なので、そのまま放ってありますが、これが小学校低学年くらいの子供やお年寄りだったら大怪我となる可能性もありそうです。実際、自転車対歩行者の事故はじわじわ増加しています。統計に現れるのは警察が関与するようなケースだったりしますので、潜在的な事故はかなり多いのだろうと思います。

 原付バイクは、原動機付自転車の略ですが、モーターアシスト付き自転車は、踏むことを前提としているから自転車に近いのであって、原動機が付いていると言う点では同じです。そのようなものが歩道を走ることにはかなりの危険が伴います。そう考えると、きっと何らかの強制力が必要となったのだろうと思います。これまでは良心に任されていましたが、それでは事故が増加する一方だから規制を強化したのだろうと想像できるのです。

 欧州では、電動キックボードも電動自転車もたくさん走っているじゃないかとのコメントもありました。実際、モーターアシストのパワーは、日本よりずっと大きいものが許可されています。一つ大きく違うのは、多くの場所で自転車専用レーンが整備されていると言う点です。そして、専用レーンがない場所で歩行者用の歩道を走る人はほぼいません。誰もが車道を走ります。左折(日本での右折)は、車に混じって右折レーンを自転車が行きます。今はもう日本では見かけなくなりましたが、しっかり手で合図もしています。

 そのような環境が日本にはないことはもう変えようがありません。国土は狭く、一極集中型の国ですから、レーンを増やすことは容易ではありません。そうであれば、自転車が歩道を走るならゆっくりと歩行者優先で、可能な場所であれば車道を走ることが当たり前の環境を整備するしかないのでしょう。そう考えると、今回の道路交通法改正は、強制力を強めるという点で不可避だったのかなと思うのです。

 先日も、歩行者用信号が赤信号にも関わらず、右側を速度を上げて通り抜ける自転車にひやっとしました。どれほど危険なことなのか、理解されていないことは明確です。そうしたことを共有したくて今回はいつもと違う内容で取り上げました。