Cross Cultural

自転車(vélo)


 ご批判を覚悟の上で、道路交通法改正に関して少し書かせて頂こうと思います。自転車への反則金の適用に関するものです。賛成の立場ですので、もし、多少の不愉快さを許容していただけるなら、反対の立場の方もご一読ください。

 道路交通法改正については、さまざまなメディアで紹介されていますので、ここでは触れません。こんな時こそ政府がわかりやすい説明に努力すべきだろうと思いますが、民間の報道や団体がはるかに手厚いのが少々不可解ではあります。ともあれ、何らかの情報があちこちにあります。

 先日、職場でも春の交通安全運動や飲酒運転撲滅運動と共に、この改正についても紹介を兼ねた啓蒙運動がありました。驚いたのは、その中で、多くの方が批判的な立場であることでした。つまり、自転車は車道と言うが、危険極まりない車道を走らせるなど、国は実態が分かっていないのではないかと言うものでした。子供を乗せて不安定なのに車道など走れないとか、飲酒するから自転車なのにどうしたら良いのかとか、理解できるものもあれば、疑問符付きの横暴なコメントもありました。総じて言えるのは、自転車は歩行者の延長にあるように感じている人がほとんどだと言うことでした。

 気持ちはよくわかります。最近は、教育の機会もないので、自転車が車両であることを理解している人は少なくなりました。自転車は車道だからといって、車道の右側を走る人もいますから、すっかり混乱した状態なのだろうと思います。

 そのような状況下で、急に自転車は歩道を走るなとか、自転車に乗りながらスマホを見るなとか言われても納得できない人も多いだろうと思います。

 でも、一方で、確実に歩行者が危険にされされている現実もあります。歩道を走る電動自転車が歩行者にぶつかったりすることが増えましたし、場所によっては歩行者が仕方なく車道を歩いていることすらあります。自転車は速度が比較的遅いので、歩行者にぶつかっても痛い程度で済んでしまうことが多いものと思います。自分自身の経験からも、腕に軽くぶつけられたという程度なら何度もあります。幸いにも数日の打撲程度なので、そのまま放ってありますが、これが小学校低学年くらいの子供やお年寄りだったら大怪我となる可能性もありそうです。実際、自転車対歩行者の事故はじわじわ増加しています。統計に現れるのは警察が関与するようなケースだったりしますので、潜在的な事故はかなり多いのだろうと思います。

 原付バイクは、原動機付自転車の略ですが、モーターアシスト付き自転車は、踏むことを前提としているから自転車に近いのであって、原動機が付いていると言う点では同じです。そのようなものが歩道を走ることにはかなりの危険が伴います。そう考えると、きっと何らかの強制力が必要となったのだろうと思います。これまでは良心に任されていましたが、それでは事故が増加する一方だから規制を強化したのだろうと想像できるのです。

 欧州では、電動キックボードも電動自転車もたくさん走っているじゃないかとのコメントもありました。実際、モーターアシストのパワーは、日本よりずっと大きいものが許可されています。一つ大きく違うのは、多くの場所で自転車専用レーンが整備されていると言う点です。そして、専用レーンがない場所で歩行者用の歩道を走る人はほぼいません。誰もが車道を走ります。左折(日本での右折)は、車に混じって右折レーンを自転車が行きます。今はもう日本では見かけなくなりましたが、しっかり手で合図もしています。

 そのような環境が日本にはないことはもう変えようがありません。国土は狭く、一極集中型の国ですから、レーンを増やすことは容易ではありません。そうであれば、自転車が歩道を走るならゆっくりと歩行者優先で、可能な場所であれば車道を走ることが当たり前の環境を整備するしかないのでしょう。そう考えると、今回の道路交通法改正は、強制力を強めるという点で不可避だったのかなと思うのです。

 先日も、歩行者用信号が赤信号にも関わらず、右側を速度を上げて通り抜ける自転車にひやっとしました。どれほど危険なことなのか、理解されていないことは明確です。そうしたことを共有したくて今回はいつもと違う内容で取り上げました。

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(Floral) Friday Fragments #267


 当たり前のように至る所に咲くオオイヌノフグリの名前が話題になることはあっても、この花が帰化植物であることは話題にならない。そう書く自分もすっかり日本の植物だと思い込んでいた。何と言っても「大犬の陰嚢」である。そんな名前が外来種の帰化植物に付いているとは思いもしなかったし、あまりに小さな花を見ても、持ち込まれるような植物にも見えなかったからである。

 調べてみれば、そもそも大きな犬のフグリではなく、イヌノフグリに似た少し大きめの花が咲くから大きなイヌノフグリなのだそうだ。直径1cmにも満たないのに、大きいからとはどういうことなのかとさらに呆れる。しかも、イヌノフグリの名前の由来は、実が犬の陰嚢に似ているからだそうで、オオイヌノフグリの実は犬の陰嚢には似ていない。何とハート型である。

 と言うわけで、ハート型の実をつけるにも関わらず、犬の陰嚢に似た実をつける花に似ていて、その大きさがその似ている花より大きいからオオイヌノフグリと呼ばれているのだから、踏んだり蹴ったりなのかもしれない。そもそも犬にだって失礼だ。後ろから見たら、フグリの形はヒトもイヌもさして変わりはしない。むしろ、古語を使って奥ゆかしく表現しているのだから、それはそれでよしとすべきなのだろう。

 救いなのは、小さな淡いブルーの花がネモフィラに似て、案外人気だということかもしれない。見た目だけだが、小さなネモフィラなら、ヒメネモフィラと言う名前だって良さそうだ。それでもすっかり定着して愛されるオオイヌノフグリと言う名前を変えて欲しくないひとの方が多そうだ。帰化植物ではあるが、それだけ愛されている植物でもある。

Photo

Mostly Monochrome Monday #447


Sometimes I lose track of where my destination is, or where I’m even going, but as long as I keep moving forward, I’m sure I’ll get somewhere.

目的地がどこなのか、どこに向かって歩いているのか、時々わからなくなることがあるが、前に進んでさえいれば、どこかには辿り着くのは間違いない。

A Part of Mostly Monochrome Monday

Bonne journée, Photo

カメラというコンテンツ


 オンライン上での知人が、写真が好きだがカメラという道具にもわくわくすると書いているのを見て、少し羨ましくなった。もう、カメラを道具として見ることが出来なくなっている自分に気づいたからだ。

 カメラ開発に直接関わってきたわけではないが、開発者と会話をする機会は多かった。困っている事を聞き、その対処を一緒に考える事も少なからずあった。そんな開発の現場にはたくさんの夢があったが、それは技術開発の夢であって、カメラを道具として見ていたわけではなかった。それが正直なところだ。
 誤解があるといけないから書き添えておくが、カメラに関わる仕事をしている誰もがカメラという道具に夢を見なくなっていたわけではない。こんなカメラが欲しいといった話も聞いたし、カメラを片っ端から買ってたくさん持っている人もいた。ただ、それは自分が関わる技術開発の現場からは遠い場所の話だった。車だったら世界一速いスポーツカーが欲しいとか、どこでも走れる世界一ラギッドなSUVが欲しいとか、そんな事はもう思わなくなって、適切な価格で1リットルあたり30キロ走るエンジンを作らなければならないというのが目標だったというのがわかり易いだろうか。
 自然と道具としてのカメラには興味もなくなり、iPhoneで撮った写真を見ながら、もうこれでいいねなんて思うようになったのだ。トドメの一撃はよく覚えている。
「何十万円ものお金を出してるのに、バカ高いレンズがないと撮れないカメラなんでしょ。」
と言うのを聞いた時だった。
「しかも、SNSにもアップ出来ないなんて…。」

 昔は写真を撮ったらプリントして飾ったりしていた。24枚しか撮れないフィルムだから、自分の撮りたいものは何かを考え、じっくり狙ってシャッターを切った。その大切な表現のために使う道具だった。デジタルに移行してしばらくは、メモリーカードも高かったから、少しだけ似た文化も残ったのも確かだ。
 でも、今はいくらでも撮れるし、撮り直しも効く。額に入れて飾ったりしないから、印刷する事よりSNSにアップできる事の優先度が高くなった。つまりは、馬鹿みたいに高いお金を出してカメラを買うなら、スマホの方が便利で綺麗に撮れると考えるのは、自然な事なのだ。
そうなると、自然と道具としてのカメラに要求されるものは違ってくる。便利にお手軽に撮れるものか、やり直しの効かない業務用か。美しいデザインよりも、使いやすいかどうか。それに向かって技術開発は進む。そこに夢なんてない。

 道具というものは、便利でお手軽なものが求められるようになると、急激に廃れてゆく。もっと正確に言えば、日常の当たり前になる(コモディティ化なんてかっこよく言う)。だから、安くて必要な機能が満たされればそれで十分と見做されるようになる。連絡をしたり、調べ物をしたり、SNSを見たりする機能にカメラ機能がついていて、そこそこ美しく(コントラストが高めで)撮れれば良いと思うようになるのだ。
 もちろん、一部のユーザは、道具としてのカメラそのものに価値を見出したりもする。
「このカメラは暗所でもノイズが少なくて、ISO感度12800でも実用になるんだよ。しかも秒20コマ。」
正直、意味が分からない人も多い会話だったりするが、これが重要な人も少なからずいる。
「このアルミのローレット加工が綺麗だよね。フィルム時代と同じ。」
こちらも多くの人には意味不明かもしれない。

 スマホには難しかった暗所性能も、画像処理高度化で、カジュアルな撮影に使う分にはなんとかなるレベルにはなってきたが、カメラそのものに価値を見出す人にとっては、さして意味がない。
書き出したら際限がないが、要は、カメラというものが持つ技術的な課題をひとつひとつ解決して、より良くすることを積み重ねてきたことで、カメラは旧来からのカメラではなく、カメラ機能そのものに変わってきたのだし、カメラという機械は工業製品ではなく、それ自体がコンテンツになってきたのだ。

 個人的なことを言えば、その変遷に関わってきた自分には、カメラ機能はスマホで十分に満たされているし、カメラというコンテンツには興味を失くしてしまっている。せいぜい、iPhoneには望遠用レンズは必要ないが広角用レンズは欲しいななんて思う程度である。
 歴史的なカメラを見ても、近代史博物館に並ぶ二槽式洗濯機を見ているのと変わらず、面白いがそこに美しさも感じられない。「この時代は、まだ電子接点がなかったからなあ」なんて技術の古臭さだけが強調されてしまう。歴史として保存したいものだが、自分の家にあれば金属クズにしか見えない。若い時にすでに古くなっているのを手に入れたCanon F-1もOLYMPUS OM-1ももうどこかにやってしまって行方知れず。興味を持っていたからこそ多少古臭くても手に入れたのだが、興味を失くせば管理もしなくなる。

 これが、自動車だったら違うのだ。お金がかかって維持できそうにないとは思っても、MG-Bのクラシックカーをガレージに置いて時々乗ったら楽しいかななどと考える。
 やれやれ。

 とはいえ、カメラに興味を持って話をしている人を見かけると嬉しくなるのもまた事実だ。多少は関わってきた事だから、その自分の関わった仕事に興味を持ってくれているのは正直嬉しい。それどころか、羨ましいとすら感じている。カメラ自体をコンテンツではなく、道具と見られるように戻れるなら、なんと面白そうなことか。
 たった一つの救いは、写真というコンテンツには、未だに興味を持っているということだ。だから、写真にはカメラ名とか撮影パラメータを書いて欲しくない。写真にカメラ名が添えられているだけで、自分にはそれが写真ではなく、カメラというコンテンツのカタログになってしまう。写真は写真として、それを落ち着いて楽しみたい。写真がiPhoneで撮影されたものでも一向に構わない。写真が良ければ道具はなんでも良い。ここで写真に興味を失ったら、何も残らないのだから。