Bonne journée, Photo

古橋

特に歴史的価値があるわけでもないが、13のアーチからなる3つの橋が18世紀からここにある。それは何度も整備されたであろう石造の古臭い橋であって、住民が川を越えて反対側に渡るためにそこに架けられた日常の一部でもある。

ところが橋のたもとに設置された説明を読んでいると、歴史的価値などどうでもよいと思えるほどに、時代という時計が逆回転をし始める。1900年頃のセピア色になった写真に写る風景は、今と何ら変わりがないのだ。もちろん、教会は最近立て直されたものだし、左側に見えるChez Edgarというレストランの建物も、100年前とは全然違うものに見える。にもかかわらず、そこにある佇まいは100年前と同じなのだ。100年前と同様に買い物カゴを抱えた人々が橋を行き交い、橋の下ではもうボート遊びをしてはいないが誰もが水辺を楽しんでいる。土曜日になれば教会の広場に朝市がたち、鳥の声が響き渡る初夏を子供達が駆け回る。

街を守るということは、そういうことなのだろうと教えられる。

Bonne journée, Cross Cultural

CO2

「だって二酸化炭素出さないでしょ」と何度も聞かされてきた。正直に言って二枚舌だと感じることもしばしばだが、二酸化炭素排出量と有機農業に対する意識は相当深い。フランスという国の新しい文化のようでもある。

モン・サン・ミシェルへの道を一般車両に対して閉ざして橋を作り直し、移動手段を電動バスと馬車に切り替えたのは2014年の夏であった。実に調査に10年、建設に10年と時間をかけてモン・サン・ミシェルは島に戻ったのだが、この時から工事車両や島内のホテル関係者といったどうしても必要な例外を除いて、島に渡る方法は原則徒歩か電動バスということになった。実際のところ、二酸化炭素を気にして橋を架け替えたのではなく、調査の結果2040年にモン・サン・ミシェルは島ではなく砂洲に囲まれた突端になると分かったからだが、この時駐車場を島側ではなく大陸側において一般車両を締め出そうと考えたのは正解だった。大潮の時には一部が海に沈むという橋のアイデアもあって、今ではすっかり巡礼の道が戻ったように見える。

フランスも例外ではなく、政治的な発想がどこにでもあるから、モン・サン・ミシェルに貢献したとかいったよく分からない理由で一般車両が橋を渡ることもある。そんな時は案外大排気量のリムジンだったりするわけで、想像するほどストイックでもない。それでもやれることはやる国でもある。ある程度の大きさの街なら自転車レーンが用意されていることも当たり前だし、自転車レーンの設置ができないほど狭い道でも自動車用のレーンを制限してでも設置する。自動車の相互通行が一方通行になったり、片側2車線が1車線に変更されることも珍しくない。

先日、知人がハイブリッドの車をやめて自転車に切り替えた。少々太り気味だったから、すっかりトレーニングとダイエットなのだろうと思ったら、理由は二酸化炭素排出量削減だそうだ。だから電動自転車に乗っている。どうせなら電動じゃない方が良いぞとアドバイスはしておいたが、アドバイスが心に響いたかどうかは分からない。まぁ、確かに車よりは体力を使うし、電動であっても車よりは二酸化炭素を排出しない。やらないよりやったほうが良いというのは間違いない。二酸化炭素と体重は、ある意味似たようなものである。

Bonne journée, Photo

marronnier

marronnier

セイヨウトチノキという。栃の木の近縁種であって、フランス語でマロニエであり、栃の木を県木とする栃木県には、なぜかマロニエ・プラザとかマロニエ通りとかマロニエと名のついたものがあるが、マロニエは栃の木そのものではない(ややこしい)。マロニエという響きにフランスらしく少しファッショナブルな感覚を覚えることもあるかもしれないが、フランスの固有種でもない。話によるとトルコやギリシャ周辺からオーストリアを経て持ち込まれた外来種だそうだ。よく知られるようにパリの並木道などで使われているが、実際のところ、ヨーロッパ中の並木道や公園の植栽として重宝されている身近な広葉樹である。

まだフランスに来て間もない頃、もともと拠点としていた横浜よりもずっと多くのマロニエがあって、秋になるとたくさんの実が路上に落ちている様子をよく眺めていたものである。あまりにたくさんの実が落ちているのを見て、「あぁ、ここはフランスなんだな」などとボゥっとしていたら、知人がやってきて、
「それ、食べられないよ。」
などとつまらないことを言う。食べられないことも、フランス固有でないことも分かっているが、たまには感傷的な気分に浸りたいことだってあるというものである。いつも使っている駐車場にもマロニエの大きな木があって、秋になるとトゲトゲに包まれた実が無数にアスファルトの上に落ちるのだが、その実を車で踏むたびに「プツ」と悲しい音がする。その音を聞きながら、遠い異国の土地にいるような気分になることだって、あっても良いではないか。

その悲しい音がする実をじっと眺めれば、まるで栗のように焦茶色をして艶やかである。どう見たって胡桃なんかより美味しそうだ。でもアルカロイドを少し含むその実は食べられない。食して死に至ることもないそうだが、そもそも不味くて死に至るほどは食べられないという話もある。そこで思うのである、その不味い実を「マロン」というなら日本語で親しみのあるマロンとは一体なんだのだと。フランス人に言わせれば、
「マロニエの実がマロンなのは当たり前だ。栗(チェスナット)はシャテーニュ(châtaigne)と言う。」
いやはや、だとすれば、晩秋になると広場などで売り出す焼き栗(マロン・ショー:marrons chauds)はクリではないのか。それどころか、マロン(Marron)と書かれた栗が売っているし、マロングラッセだってあるじゃないか。結局よく分からないのだが、どうやらマロニエの実である食べられない栗とは近縁ですらないマロンと、大きな栗のひとつであるマロンと、マロン・ショーで使われる普通の栗とは異なるものらしい。

晩春になるとセイヨウトチノキは、白と赤の華やかな花を木全体に咲かせる。見てのとおり、その花はまるで毛虫のような栗の花とはまるで違って、街路樹ともなると爽やかな季節にぴったりの美しさである。写真は白だが、赤い種類もあって、まもなく夏がやってくるよと告げてでもいるかのようだ。良い季節になった。

Bonne journée, Cross Cultural

five tall trees

見慣れた公園を歩いていたら、急に5本の背の高い木がそれまで見たこともなかったようにこちらを見つめていて、訳もわからず威圧感を覚えたのはどうしたことか。

その5本のスッと立ち上がった木は、多少の権威でも背負っているようにアイロンをきちんとあてた制服を着て、両腕を腰の横に置き、落ち着き払った様子ではあっても気迫に満ちた眼差しをこちらにむけていた。気づくまではゆっくりとこちらに歩いてきていたのかもしれないが、背丈よりは少し遠い距離を置いて立ち止まり、何かを言いたそうにしているのだった。その5本の木を見上げて慌てて写真を取れば、木々は一言も発することなくいつもの木に戻っていた。

だから妖精の住む国の朝の散歩は面白い。

Bonne journée, Photo

canal

期待するように透明に輝くわけでもなく、
深緑に沈んだ底には何かを隠しているようで落ち着かないその水は、
長年にわたって内陸の街の物流を支えてきた
  流れようとしない川の生命の一部であって、
その傍らを歩く人はただその表面だけを見てきた。
生きるためのしがらみを取り去るために、
延々と続く恒例行事となった夏の休暇という時間を運ぶ運河として、
今となっては誰ひとり興味など持っていない水の行方を
  誰ひとり興味を持っていない誰かが管理する。
それでも深呼吸をするただそれだけのために歩き続ける。
携帯電話という道標にしがみつきながら。