Cross Cultural

Pâque

15年ほど一緒に仕事をして来たフランスの知人によれば、多くのフランス人はもはやキリスト教など信じていないという事になる。ムスリムが増えたとかそういった事ではない。依然としてキリスト教徒が9割の国である。日曜礼拝どころか毎日カランカランと教会の鐘の音が響き渡る。それなのに、礼拝など行ったことがないのだそうだ。洗礼を受けただろうなんて言ってみようかとも思ったが、日本でも子供が生まれたらお宮参りしたりするが、毎日神社にお参りする人は多くないなと思い返した。その知人によれば、欧州の多くの国と同様、宗教はもはや習慣の類であって、真剣に神の存在を信じている訳ではないのだ。

それでも仕事で関連していたブルターニュはカトリックの強い地域である。日曜となれば教会にそこそこ人も集まる。あの教科書で習う宗教の自由を保証したナントの勅令は、プロテスタントを認める王令であってブルターニュとも関係が深いし、フランスの中では特に日曜日をお休みとするお店が多い地域でもある。小さな村であっても欠かさず毎日教会の鐘の音が響きわたる。それこそ1時間毎に。

そんなブルターニュでも、というよりキリスト教の根強いフランスであっても、この時期は鐘の音を聞かなくなる日が訪れる。復活祭(イースター)である。復活祭の前の木曜日の夜から教会の鐘は鳴らなくなる。鳴らしてはいけないとか、準備で忙しいとか、そんな理由ではない。そもそも鐘はそこにないのだ。いや、尖塔を見上げたらちゃんと鐘があったとか、そんなのは形だけだとか、今どき鐘はタイマーで鳴らしてるとか、そんな事は言ってはいけない。鐘はそこにない事になっている。鐘は皆、キリストの死を悼んでローマ方面に旅立ったのだ。鐘を鳴らす人ではない。鐘自体が旅立ってしまうのだ。

どんなふうにローマに飛んで行ったのかはよく分からない。羽が生えて飛んで行ったらしいが見た人はいない。バチカンでは教皇に祝福を受け、復活祭の日曜日に戻ってくる。そうでなければ困るのだ。何故なら、バチカンのお土産はチョコレートなのだから。祝福を受けた教会のそれぞれの鐘は、復活祭の日曜の朝、イタリア土産のチョコレートを持って復活を知らせにそれぞれの町に戻ってくる。戻ってくる途中でチョコレートはバラバラと落ちてしまうのだが、良い子たちは木々の間や茂みの中にそれを見つけ、復活祭の楽しいひと時を過ごすわけだ。無論、良い子でなければ見つからない。アメリカあたりだとチョコレートはイースターバニーが運んでくるらしいが、フランスはバチカンを訪問した教会の鐘たちのお土産というわけだ。そんなわけで、熱心なキリスト教徒にとってはもちろんクリスマスより重要な復活祭だが、子供達にとってもようやく春になって暖かくなったひとときを楽しく過ごす一年で一番重要なイベントでもある。もはやキリスト教を信奉していないなどと言いながらもすっかり生活に宗教が根付いているわけで、人の営みとはそういうものなのかなと思う。

そう言えば、日本にだって似たようなものがある。すっかり名前だけになってしまったが、10月を神無月というのは八百万の神々がみな出雲に行ってしまっているから神様の無い月なわけで、どこか似ているでは無いか。チョコレートこそお土産にもらえないが、ぜんざいは出雲発祥とのこと。神様の帰りを待ってもきっとお土産はないが、そこはそれ、今どきオンラインで買えば良いのだ。いや、10月まで待ってられないなら東京ディズニーリゾートでイースターを楽しめば、と思ったら、今年は40周年でイースターイベントはないそうな。まぁ、なんでもお遊びにしないほうが良いとは思うのだが。

ところで、昨年の復活祭(フランスではパクと言う)でふと疑問が湧いたことがある。いや待てよ、今年の復活祭はまだ金曜の夜だというのに教会の鐘がだいぶうるさいなと。気温が上がったので空気の入れ替えにと窓を開けたら、近所の教会の鐘の音が風に乗ってガンガン響いてくるのだった。そう言えば以前もなってたような。真相はわからないが、結局のところタイマーで自動で動いている教会の鐘は、復活祭の前であってもなり続けていたようだ。

まぁ、そんなものである。

今年の復活祭は、2023年4月9日。今年はフランスにいる予定はない上に、プロジェクトも区切りを迎えてここしばらくはフランス人と話す予定もないから様子もわからない。すっかりコロナの影響も無くなって、きっといつもの復活祭が戻って来たのだろうと想像している。

Art, Bonne journée, Cross Cultural

文学と絵画とブルターニュ

 アンリ・モレの「ブルターニュの断崖」やポール・ゴーガンの「二人のブルトン人」を見たかったら、地の果てなどと揶揄されるブルターニュの西の隅まで出向かなければならない。所蔵するポン・タヴェン美術館は、パリからは相当遠い場所にある。だからフランスの西の果てと言われるくらいは仕方ない。だが地の果ては少々言い過ぎだろうと思う。TGVでブレストまで行ってレンタカーで南下してもいいし、そもそもバカンスを過ごすような場所なのだから、遠くからでも時間をかけて辿り着けばよいのだ。もっとも、ゴーガンのポンタヴェン派としての代表作である「美しきアンジュール」も「黄色いキリストのある自画像」もそこにはない。あるのはオルセー美術館だから、わざわざ行くまでもないと言われればそれまでではある。
 でも、行かなければわからないこともある。川のせせらぎ(下の写真)も、どこまでも透明な海も、行って体感しなければわからないように、アンリ・モレの描き出す色とりどりのブルターニュの断崖は、パリにはない。
 もっとも「黄色いキリストのある自画像」ですら日本にいては見られない。スマホで見ても大きさも色もタッチも違うから、分かるのは知識としてのゴーガンでしかない。
 それでも絵はまだ良いほうかもしれない。どんなにお金を出そうが、どんなに時間をかけようが、もはやショパンが弾くピアノは確かめようがない。ワグナーが恭しく指揮をとるワルキューレが聞こえる事もない。ひょっとしたらそれよりもずっと出来が良いオーケストラで、ずっと洗練された指揮の下、当時以上の再現演奏を聴くことが出来ているのかもしれない事が救いではあるが、絵とは違ってオリジナルはもうないのだ。
 その点、文学はありがたい。書き手が意図したそのままをいつでも手に出来ている可能性が高い。小さな誤りが訂正されていたり仮名遣いが現代表示に訂正されていたりすることもあるかも知れないが、模写やコピーとは違って劣化しないのだ。それがたとえkindleであろうが、そこで読む宮沢賢治は宮沢賢治そのものだ。
 いや翻訳ものはどうするんだとか、絵なら世界共通だとか、そんな指摘はあるだろうが、それはそれ、大目に見ていただきたい。文学の普遍的なアドバンテージはその劣化のない作品を手にすることの喜びなのである。
 ありがたいことにブルターニュ大公城にあるターナーの「ナント」は、まもなく国立西洋美術館で見られるらしい。3/18から始まる「憧憬の地ブルターニュ」という企画展のリストに確かにあった。熱烈なラグビーファンでターナー好きの方には残念だが、日本戦を応援に行ったついでにターナーの「ナント」は見られないのかもしれない。いや、その頃にはブルターニュ大公城の美術館に戻っているのか?

 トップの絵は「ダイヤのエースを持ついかさま師」などで知られるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの代表作のひとつ「聖誕」。
 地元の人はこれくらいしかいい絵がないと言って残念がるが、これを見るために行く人もいるレンヌ美術館所蔵品。他にも佳作がたくさん。

アヴァン川のせせらぎ
Bonne journée, Photo

missing snowy day

雪なんて降ってほしくないのに、降らないと残念と思うのはきっとわがままだからなのだろう。昨日の朝から舞い始めた粉雪に、早く帰ろうなんて言いながら、どこかで白い世界を期待している自分がいた。
予報では昼ころから夕方まで降り続きその後雨に変わるということだったが、実際には朝から降り始めたから、帰宅時にはそれなりに積もっているのだろうなと勝手に想像していた。きっとコンピュータ予想がはずれたのだろうが、雪なんて嫌だと言いながらもどこかで雪が見たいと思っているところがあるから、降り続けるものと信じたくなっていたに違いない。ところが11時前には雪が雨に変わり、ほとんど積もることもなく冷たい雨が降り続いたのだった。本降りの雨にずぶ濡れになりながら、ちょっとわがままな自分が可笑しく思えた金曜日だった。

写真はもちろん横浜などではなく、フランスの風景。この写真の地域も雪は珍しい。

I don’t want it to snow, but I was disapointing it didn’t, probably because I’m selfish. The powder snow began to fall from yesterday morning, and while I was telling myself to go home early, I found myself hoping for a white town somewhere.

Bonne journée, Cross Cultural

マスクの日程

「苺をつぶしながら、私、考えてる。こんなに幸福でいいのかなあ、って。」
本当のところ中身の記憶は何ひとつ残っていないのだが、この書き出しだけは思い出す。良く知られた田辺聖子の「苺をつぶしながら」である。大袈裟に聞こえるかもしれないが、もうここだけでもう先が読みたくなる。きっと苺をスプーンの背でぎゅっと押しながら、それを見ている目は幸せな自分自身を眺めているのだろうなどと勝手に想像するのだ。そうやってこの部分はひとり歩きを始め、やがて本当に冒頭の部分だったかななんて不安になる。何しろその先の記憶はないのだ。読んだのはいったいいつだったか。

実際の気温など無視していなければやってられないなんて思っているのか、単に季節の行事が大好きで少しばかりその気持ちをお手伝いして儲けさせてもらおうというのか、街中はすっかりイチゴの季節となってきた。自分はといえば、やっぱりヨーグルトにイチゴを乗せて春を楽しんでいる訳だが、そのイチゴをスプーンで半分に切りながら、ふと目の先にある新聞記事が気になっていた。マスクをつけるかつけないかは、5/8からは個人の判断だという。いや、今だって個人の判断なのじゃなかったかなと思うのだが、その記事によればそうでもないらしい。

マスクをどうするかは色々考え方もあるが、気になったのはそこではない。国がそれを判断するってどういうことなのだろうと思ったのだ。日本に入国する時に国からの依頼だと聞いたが、もしかすると義務だったのかと今更気づいたのだった。緊急事態だから色々混乱もあるわけだ。出国したフランスはといえば、ある日政府がもはや義務ではないと言った瞬間から、誰もが自分の判断で好きなように決めたのだった。

マスクの着用のルールを変更するのは5/8からにするのは、ゴールデンウイークでの感染を避けるためだという。なるほどよく考えているなと思う一方で、これがフランスなら誰も従わないだろうとも思う。5/8がOKで、5/1がだめならその違いは何だと聞くだろう。だからなのか、ぎりぎりまでフランス政府は決定を言わない。1週間後から規制を撤廃すると言ったら、その日から誰も規制を気にしない。外出禁止であろうが、何だろうが、社会はゆる〜く動いていく。

そんなことを考えながら、イチゴをひとつ頬張るとスマホの通知がこう告げる。イチゴフェアのクーポンがあります。外は寒い。

Bonne journée, Photo

習作

それはちょうどいいタイミングと言うにはあまりに遅い時間だった。同じ薄汚れた飛行機に乗っていた乗客のほとんどは足早に扉の向こうに去り、たったひとつのカフェはもう何年も開いてないのではないかと疑うほどに暗く静まり返っていた。自分はといえば、馬鹿げた大きさの袋をふたつ抱えた季節外れのサンタクロースみたいなもので、前にたった一歩進むにも遠くからやっとのことで運んできた荷物が邪魔をし、殺風景な到着ロビーに残ったわずかな乗客も見て見ぬ振りを決め込んだようにそそくさと距離を置いた。モーターの止まった小さな空港の小さなターンテーブルの横で、携帯電話に眼を落とす係員と傷だらけの忘れられたスーツケースと皺くちゃのコットンシャツを着た自分だけが静まり返った時間を過ごしていた。
「タクシーを手配しておきましょう。きっとご自分で見つけるのは難しいでしょうから。」
そうメールには書いてあった。

いくつか書きかけはあるのですが、とても公開できる状況ではありません。短い断片だったり、途中にメモが入っていたりと、単なる文字の切れ端ばかりです。とはいえ、ずっと作品らしいものは公開していませんでしたので、習作として冒頭部分をポストすることにしました。