Cross Cultural

切符

201401-061This article was written only in Japanese.

普段の会話の中で、切符という言葉をあまり使わなくなったような気がしている。思い出そうと思っても、切符という単語を使った文章すら出てこない。もちろん、日常会話においてという意味であって、切符が死語というわけではない。切符を買うと表現することに違和感はない。それでも、日常会話となるとどうだろう。切符という単語を使う機会などほとんど無いような気がするのである。

横浜から鎌倉に向かうのに切符を買う必要はない。PASMOをかざすだけで改札を抜け、そこに切符を買うから待っててといった会話は出てこない。大阪に行くならどうか。おそらく、指定券とか言うのだろう。横浜の港周辺をつなぐシーバスに乗るなら買うのはチケットだ。映画だろうがコンサートだろうが、買うのはチケットであって、切符ではない。

そんな事を考えていたら、ふと気がついた。相変わらず、仕事の言葉としては切符は生きているのではないかと。劇場でチケットを切り取る仕事は、相変わらず「切符もぎ」と言いそうだ。Webで探せば、切符もぎのバイトも出てこないわけではない。だがそれも長くはないのかも知れない。電子的なチケットの利用も増えているから、そのうち「切符もぎ」の仕事は無くなって、「切符をもぎる」という表現も意味の難しい語句になるのだろう。あるいは、切符は丁寧な表現や文語として残るのか。

実は、切符という言葉のある言い方を考えていて、別にひとつ思いついたものがある。警察に止められて切符を切られたという言い方である。切符が普通に使われているかどうか分からないが、少なくともチケットとは言い換えなさそうだ。寧ろ、反則切符は何故「切符」なのかという疑問が湧いてくる。切符には引き換え券的ニュアンスがあるから反則切符なのだとすると、なにやら違和感も感じなくもない。

ところで、交通違反の反則金の制度は世界中にあるらしいが、その仕組みには意図の違いなのか文化の違いなのか、だいぶ異なったものがある。例えば、日本なら反則金に加えて点数が加算される。何ポイント貯めると免許停止とこちらも何やら不思議な感覚だが、多くの国では罰金だけだそうだ 。その一方で、反則金の払込は遅延しても、多少高い利率の遅延金が発生するだけである。これがフランスだと、最初の支払い期限は2週間と日本より長いが、この2週を過ぎると倍になる。さらに2週を過ぎるとまた倍になる。45ユーロが90ユーロになり、さらに270ユーロになるといった感じである。真面目に対応すれば安く済むが、いい加減にしてるとひどく高くなりますよという意味では、ひとつの面白い方法かもしれない。

201401-060話が脱線したが、長距離列車に改札を作らないヨーロッパと二重に改札を作る日本の違いも興味深い。新幹線の改札は、何故駅の中に二重に作られているのか、どうしても理由が見つからない。原則として車内改札を行わないためとか、在来線との乗り換えで切符を買い直すニーズがあるからとかいろいろな話はあるが、どれもしっくりこない。あえて言うなら、特急券の改札を出入り口で行って車内改札を減らし、コストダウンするというのが一番もっともらしいだろうか。

一方で、TGVには改札がない。黄色い機械に切符を入れて刻印するのが改札であって、ゲートにはなっていない。だから、誰でも切符なしで乗り込むことができる。車内改札はしっかり実施されるからキセル乗車は少ないのだろうと思うが、良心に任せているという側面が大きいのかよくわからない。無人販売など不可能という国なので、良心に任せるというのは矛盾を感じなくもない。とはいえ、不正乗車には滅っぽうきびしい。打鍵を忘れると、高額な罰金が待っている。言い訳など通用しないらしい。必ず、時間に余裕を持って切符に打刻することが重要である。何しろまともに動かない機械なので、延々と切符を入れては抜いて、そのたび紙のカールを延ばしてみたり、いれる角度を微妙に変えてみたりと大変に時間がかかることがある。ただの機械に悪態をついて、隣の機械に鞍替えして見ても、運が悪ければまた同じことである。車掌さんに文句を言えば、「難しいのは分かってる。ルールだからなんとかやってくれ。」とつれない言葉。俺の責任じゃないといった感じだ。理解できないこともない。車掌さんが何かできるわけでもない。時間に余裕を持って打刻するのは旅行者の責任なのだ。ベルが鳴るまで打刻しなかったほうが悪いのだ。車掌さんができることはただひとつ。早めに打刻するようアドバイスして、ウインクしながら見逃すことくらいである。

さて、最後にもうひとつ切符の例文を。「甲子園の切符を手にする」というのは、なんとか会話水準の文章かも知れない。反則切符や罰金の話で終わりたくないので、爽やかな例文を見つけてみた次第である。

Photo, photo challenge

Weekly Photo Challenge: Juxtaposition

201401-050Here I think this is one of the most famous juxtaposition in terms of spatial  and temporal meaning. It’s a bit difficult for me to capture a downward pyramid simultaneously.

The lower picture is a part of what I  chose in the beginning of this month. Again, it’s a bit difficult for me to capture their cultural background.

201401-051

This challenge was set by the Daily Post.

Cross Cultural

Ice-breaker

needle ice
needle ice

先日、BBCのニュースを読んでいて、砕氷船をIce-breakerと言うことを知った。アメリカの砕氷船が南極で氷に閉じ込められた船を救出したという記事である。辞書にあたれば、Ice breaking boatなどとも言うらしい。英語圏の人には当たり前の語彙だろうが、普段に英語を必要としない自分には初めての単語であった。何しろ、日常の話題に砕氷船は出てこない。

南極の1月はいよいよ本格的な夏の始まり。砕氷船しらせが3年ぶりに昭和基地に接岸などといったニュースもあって、活動できる時期なのだろう。ペンギンも子育ての時期に違いない。

冒頭の写真は、お察しの通り特に意味はない。単に氷つながりである。霜柱は、needle iceやfrost crystalsなどと言うらしい。辞書にあたるとfrost needlesという表現もある。発生する場所が限られるので、こちらは分かりにくい表現だろう。

ところでIce-breakerという単語は初めて出会ったわけではない。知らない者同士で集まった会議や研修の最初に、場の緊張を解くためにやる軽い話題やゲームなどをアイスブレークという事がある。カタカナ英語か一般的な英語か分からなかったので辞書で探してみたら、こちらの意味も案外載っているので通じる単語なのかもしれない。

緊張を解くアイスブレークは対応する日本語が難しいところだが、砕氷船の意味ならそのままである。ひょっとするとice breaking boatの直訳が砕氷船なのかもしれないとも思う。だとすると、直訳が分かりやすい例のひとつだろう。日本語とヨーロッパ系の様々な言語は、外来語は別にして根っ子が完全にことなるので、いちいち単語を覚えないといけないが、砕氷船くらい分かりやすいとありがたい。フランス語のcommentに比べたら、よほど良いかもしれない。フランス語のcommentは英語ならhowやwhatなので、フランス人も混乱することがあるそうだ。フランス人が言っていたので半分大袈裟な冗談かも知れないが、多少は本当のことらしい。何だって?と聞き返すように思わずcomment?と言ったらAny comment? と勘違いされたりするのだろうか?

まだ1月だし、いつも硬い文体で書いているので時には軽い話題でもと思ったが、意味不明な内容になってしまった。これではIce-breakerにもならないか。

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Cross Cultural

les vendredis soir 金曜の夜

20131229-001This article was written only in Japanese.

12月はよりどころの無い季節である。あるいは、落ち着く場所が無いと言うべきか。果たして人は最後の仕事をきれいさっぱり片付けるべく、さして急を要するものでなくとも走り回る。1月に仕事を残したくないとか、年末は昔から報告書が多いと決まってるとか、支払い期限があるとか、それなりのもっともらしい理由はあるのだろうが、その実、12月と1月に特別大きな違いはない。それでいて人は走り回る。12月の何かのためではなく、1月のために。

忙しく走り回りながら仕事に追われているはずの12月の金曜の夜の街は、ひどく賑わっている。都心の鉄道は終電を延長し、飲食店は予約すらできない。「貸し切り、キャンセル出ました」などと店の前にカラフルな文字で大きく書かれた案内を見ると、それはそれで稼ぎ時なのだなと違う納得もしたりする。よりどころの無い12月の金曜の夜は、それぞれのさして重大でもない理由とともに過ぎて行く。

些か偏り過ぎた見方だろう。夫々の想いのこもった日々を過ごした人も多いに違いない。だが、どうしても日本全体を覆い尽くしたような「せわしなさ」と「浮かれ加減」には、ひどく落ち着かない感覚を憶えるのだ。今年もクリスマスの夜に仕事を抱え、金曜の通勤電車で赤ら顔の乗客と隣り合わせることが多かった自分を変えるべきなのだろう。他の誰かに金曜の夜くらい自分のために早く家に帰るべきだとか言う前に、仕事をさっさと片付けて自らが帰らなければならないのだろう。あるいは、仕事の仲間と過ごすのはウィークデーだけにして、金曜の夜から月曜の朝までは仕事とは一切関わらないくらいが良いのだろう。それでも日本の労働時間は世界トップクラスであり、仕事外の付き合いも多いのだ。

先日、フランス人を含むパーティーがあった。例によって金曜の夜である。その日しか日程が合わなかったのだ。多少遅くなっても翌日は休みだし、都合が良いでしょうと。色々と予定もあり、体調を崩していた私は欠席することにしたが、そう告げた時のフランス人の一人の返事は「そりゃそうだろう。自分も驚いた。欠席は当然だ。」であった。週末は自分と友人や家族のために使うのであって、休みだから金曜の夜は遅くなっても良いというのは変であると。欠席する私に気を遣ってのことであるのは承知している。それでも、これほどの言い方の背景には意識の違いがあるに違いない。

ルーブル美術館は、金曜の夜は遅くまで開いている。しかも26才以下は無料である。そんなチャンスを使って美術や歴史に触れることができるのは、自分自身のために使う時間が重要だとの考えが社会形成されているからだろうと勝手に考えている。もちろん、そんな大袈裟な話ではないのかもしれない。だが、そうした社会的合意がなければ、利用はされにくい。学校が近ければ、昼休みに家に帰って家族と食事をしたりする国である。だから昼休みが30分などということはない。であれば、休日の前の夜に同僚と飲みに行くなど考えられないというのも理解できる。まして、週末は取引先とゴルフなどありえない。

どちらが良いという事ではない。仕事仲間と親睦を深める週末が日本社会を作ってきた側面もあるだろう。北米、特にアメリカの管理職は休日も仕事の連絡を欠かさないといった調査もあった。どの程度信頼性があるか分からないが、地域によって考え方は異なっているらしい事は、経験でも想像ができる。

20131229-002年末は、アメリカもフランスも連絡をいれても音信不通という状況だった。クリスマス休暇で誰もいないということだろう。休日はクリスマスと元日だけだが、その間を会社の休業日にしたり、正当な休暇を全員が取得したりで、大抵は連絡がつかない。クリスマス休暇は日本でのお盆休みみたいなもので、特に教会に行くことのない人でも休みをとる。遠く離れた家族が集まったりするのも似ている。だから家族のための休暇でもある。休暇をとる前の挨拶は、「家族と良い休日を」だったりもする。

そして思うのである。金曜の夜も自分や家族のために使う習慣はどうかと。よりどころのない12月も少し違って見えないかと。

Bonne journée, Cross Cultural

Bonne journée (22):Chinese whisper

whispering bee(The article was written only in Japanese)

「何度も言ってるのに全然聞いてないんだから」という時は、ちゃんと伝える努力をしたかよく考えるべきだそうだ。ビジネス書などによく書かれている話である。曰く、相手の分かる視点で話をしたか。曰く、伝わったかどうか確認できる質問をしたか。曰く、相手の目を見て語りかけたか。要はコミュニケーションは思ったほど簡単ではありませんよということだろう。

小学校あたりだと、この伝えることの難しさを遊びで教えたりする。いわゆる「伝言ゲーム」である。ゲーム嫌いだから、バスでの遠足やお楽しみ会(なんという表現!)ではもっぱら影に隠れて参加しないで済むようにしてきた身としては、伝言ゲームを語る立場にないと思うほど記憶が薄い。だが、何やら紙を渡されて開いてみたらやたらと長い文章が書かれていたといった記憶はある。今になってみれば、記憶力ゲームじゃないかと思わないでもない。これが先頭なら簡単かと言えばそうでもない。最後の友達が答えを言うのを聞いて、完璧に伝わったと安心してホッとした途端、「はい、残念でした。おしい。」と打ちのめされる。「最初にこんにちはと挨拶がついてましたね。どこかで挨拶がなくなっちゃいました。」犯人はもちろん自分である。要件を一所懸命憶えたのに、頭がそっちに行って重要ではない部分が抜け落ちたのだ。記憶が薄いと書いたが嫌な事は思い出す。だからゲームが好きではなかったのだろう。さすがに大人になって、そんなつまらない理由でゲームが嫌だとは言わないが、未だ好ましくはない。

その伝言ゲームであるが、大人になると実際のゲームではなく、それは比喩的表現となる。先日も、伝言ゲーム状態で内容が怪しい情報を確認する必要があったが、そんなことは仕事をしていれば日常茶飯事だ。その時は、確認をとるのがまずは基本と連絡をとることにした。相手は例によってフランス人である。「又聞きの又聞きだから確認したい」と言う代わりに、伝言ゲームだからと書く。伝言ゲームは、英語でChinese whisperと表現する。中国人のささやきという感じだろうか。背景を知らないから何故そう表現するのかは皆目見当がつかない。まぁ、そう表現することだけは知っていたのでそう書いた。ところが返ってきた返事は、そんな表現は初めて知ったということだった。辞書か何かで調べて意味を理解したらしい。そして、素晴らしい表現を教えてくれたのだった。フランス語では、Téléphone Arabeと言うと。つまり、アラブの電話である。アラブの言葉が分からないからか、アラブの人の言うことが分からないかは不明である。ただ、違った言語で似たような表現をするらしいというのが面白い。次に使う機会がなかなかなさそうなのが少々残念ではある。

20131103-002そう言えば、先日も面白い言い方というか、名称を知った。ペリカンの写真を見てなんとなく辞書を引いたら、英国の押しボタン信号をPelican crossingというと書いてあったのだ。ペリカン横断である。おやと思ってよく読んだら、実はもともとはpelicanではなくpeliconだという(最後のところがcanではなくcon)。つまり、元は”Pedestrian light controlled crossing”(歩行者信号制御横断歩道)というわけで、押しボタン信号と言うのとたいして変わらない。本当に定着している名称なのかどうかは分からない。先日、イギリス人と会ったばかりなのに聞く事が出来なかったのが残念である。どなたか真偽のほどを教えてほしい。

日本でも交通系ICカードはSuicaにICOCAと語呂合わせ的な名前ばかりである。つまりはきっと同じ発想に違いない。覚えやすいとか、面白いとかそんなところだろう。となれば、pelican crossingはSuicaレベルだろう。ICOCAは一枚上手である。

さて、書いた内容にはほとんど責任を負えない伝聞ばかりである。Téléphone Arabeでないことを祈る。

今日も良い一日を。