Art, Bonne journée

la vie


 雨がザワザワと音を立てて落ちる午後だった。空を見上げると、森の中で騒ぎ立てる梢の隙間から、冷たい雫が額に落ちてくる。まだ日没までにはだいぶ時間があったが、ぽつりぽつりと明かりが灯り始めていた。
「この小道を奥まで進むと入り口があります。途中に小さな教会があって、その中は自由にみていただいて構いません。お写真をお撮りになっても結構です。でも、中は撮影できません。」
入り口のちょっとした門の屋根の下で、案内の方が丁寧に説明する。その門をくぐり、曲がりくねった小道を歩いてきたのだった。森の中は、多少のアップダウンもあって、小川の流れる谷の部分には小さな橋もかかっていた。
 迷うようなことのない一本道だった。それでも、要所要所に猫がこちらですと道案内をしていた。その案内に導かれて森を抜けると、赤と白の対比が鮮やかな扉が現れる。藤城清治美術館の展示室がそこにあった。

 百歳を超えてまだ現役の藤城清治の美術館が那須高原にあると知って、立ち寄ってみた。あいにくの雨だったが、施設案内のWebページに掲げられた写真とは違って、雨の降る足元の少し暗い美術館は、藤城清治の作り出す影絵のようにちょっとばかりファンタスティックな様相を見せていた。
 どこかの観光地にあるような小さな美術館というと、個人の趣味みたいなところもあるが、藤城清治が自分で作りたくて作った美術館ということで、想像以上に濃密な空間になっている。もう、これでもか、と言わんばかりの影絵の世界である。その中身については、美術館のWebページを見ていただいた方が良いし、写真撮影はできないから、ここに出せるのは外の写真だけである。それでも冒頭の道案内の猫を見ただけで、どことなく想像はできるかもしれない。

 藤城清治が飼っていた猫の名前はラ・ビー。その名前を冠したカフェも東京にあるらしい。自分にとっては、ケロヨンや笛を吹くこびとが真っ先に思いつくが、ラ・ビーのファンも多い。もし、藤城清治の影絵が好きなら訪ねる価値はある。小さな美術館なのに思いがけず長い時間を過ごし、ちょっと足が痛くなったというくらいには楽しい。

藤城清治美術館(那須)

Art, Bonne journée, Photo

Street art

 マリーアントワネットが残酷な断頭台に送られて以来続く、止やめてはいけない伝統なのだそうだ。18世紀の終わりのことである。日本では田沼意次の時代というかそれをことごとく覆した松平定信の時代というか、太平の世を謳歌した江戸時代が微かに傾き出した時期である。市民は国庫を食い尽くすフランス王政に愛想を尽かし、その混乱から逃亡しようとしたマリーアントワネットとすら国境から連れ返し、やがてフランス革命が成立する。案外日本では市民革命であるかのように伝えられるが、実際には資金力のあるブルジョワジーと貴族との戦いであり、給与が支払われずに不平を持っていた軍とその指揮官の戦いであり、革命を利用しようとした諸外国とフランスの戦いでもあった。
 その結果がナポレオンであれ何であれ、市民が政府に抗議するのを躊躇わず、強い軍が国家を守る伝統は、そうやって生まれたのだという。つまりは、新型肺炎が猛威を振るおうがロックダウン中であろうが、デモと軍は止められないのである。歴史家がそう言っているのかどうかは知らないが、少なくとも複数のフランス人の知人がそう言うのだ。強ち間違っているわけでもないだろう。どんな状況であれ、主張すべきものは主張すると言うのが彼らには正しい姿なのだ。
 冷静に客観視しながら忖度することにあまり抵抗を感じない世界で生活してきた身には、正直、少々理解し難い部分もある。毎日数万人の新規患者が出ている国であり、至る所に検査場がある中で、今日もデモの声が聞こえてくる。今日のネタは «Loi sur la sécurité globale» という新しい治安規制に関するデモである。多人数が集まることは禁止されているが、デモは特に咎められないのか、パリ以外の地方都市でも数千人規模の人が抗議の声を上げている。中にはマスクをつけていない者もいるようだし、もしかするとこれが原因でクラスターも発生するかもしれない。それでもデモは止まらない。遠く、デモ隊の叫ぶ声を聞きながらブラウザを立ち上げ、ニュースをぼんやりと読む。どこか他人事のような時間が過ぎていく。

 そういえば、と思い出す。フランスの美しく落ち着いた秋色に石畳の通りをぼんやり歩いていると、強烈なグラフティが目に飛び込んできたりする。あれほど伝統や景観を大切にする国は実はグラフティに溢れている。ガラスと鉄でできた改装したばかりの地下鉄の入り口は、翌日にはペンキで汚され、判別不能な文字に覆われる。それもまたフランスである。何もそんなところに描かなくてもとも思うが、何か描かずにはいられないのだろう。ただ、その半分は素人以下の単なる落書きでしかない。規制する法があるのかどうかはわからないが、間違いなく夜の間に落書きは増える。夜間外出禁止であってもそれは変わらない。
 そのグラフティは、でも、いつかストリートアートとして保存したいと思えるほどのものになる。アートと落書きの境はほとんど曖昧であり、主観による。あえて言うなら、より多くの人が共感するかどうかという程度の曖昧な物差しが、二つを正と負に分けているだけだろう。もちろんどちらが正しいというものでもない。家の壁に落書きされればもちろん怒るが、その落書きがバンクシーによるものだったりすれば、怒らない人もいるはずである。
 さて、Tamara Djurovic (Hyuro) がバレンシアで亡くなったそうである。あまり詳しく知らないうちにそんなニュースを見るとは思いもよらなかった。もし、ストリートアートに興味があれば上のリンクからどうぞ。ただ、本人はストリートには描かなかったと言っていたようだが。(残念ながら日本語のサイトはほとんどない)

 最後に蛇足。グラフティの歴史はデモよりも長い。なんと言っても知られた最も古いグラフティのひとつはラスコー洞窟にある。

Art, Photo

Street

海からの少しこそばったい風を感じに行くことはおろか、窓を開け放つこともあまりなくなった晩秋の午後、時間に追われるようにキーボードを叩いている自分よりもずっと速く、干からびた時がその瞬間を追い越していくような気がして、冷たさを感じ始めた指先を眺める。昨日と同じ何ひとつ変わらないくたびれた手が忙しない動きを止める。他人の手。自分の指。確かめる必要のない指先にキーボードの黒い石が規則正しく圧力を与える。
バカンスとクリスマスの間に落ち込んだ街にようやく他人事のような静けさが染み込み始め、夏の終わりに出しゃばりすぎたアコーディオンの音色も、つぶれたマロニエの実のようにいつの間にか歩道の隙間に沈み込む。今日もまた騒がしかった夏風の音を懐かしむように窓の外を眺める。他人の土地。仮の住処。締め切った窓ガラスのすぐ向こうにある壁を取り外そうとする。

街を歩いていて偶然出会したSethのストリートアートと展覧会の案内。さして遠くはないが行く機会はなさそうである。写真を撮るなら少しはリスペクトしたいと街並みを背景に封じ込めてみた。

Cross Cultural, Photo

The Planet with Photo

201703-321Written only in Japanese.

「地球を守ろう。この地球は、コーヒーの飲める唯一の惑星です。」
といった感じだろうか。RSSフィードでチェックしているブログを見ていたら、そんな言葉が手書きのサインボードに書かれた少しおしゃれなカフェの写真があった。旅先で見つけたら、ひょっとするとつい立ち寄ったかもしれない。念のため原文を書けば、”Save the earth. It’s the only planet with coffee.”である。こういったコピーは、冒頭のように直訳的な表現ではあまりしっくりこない。
「宇宙にたったひとつ、コーヒーの香り芳しいこの地球を大切に。」
これもいまひとつだが、最初の訳よりはまだ良いのではないか。言語にはそれぞれ固有の言い回しがあって、直訳するとしっくりこない場合が多い。逆にそれが新鮮であったりもするから一概に良くないとは言えないが、なかなか言葉は難しい。
これが絵や写真、音楽となると世界共通の様に言われて案外頓着しないが、実はまるで違うらしい。各国の民謡の音階の違いは言うまでもなく、山水画とヨーロッパ中世の絵画には大きな隔たりがある。音楽も絵も好きなだけで専門的な内容に詳しいわけではないから正確には表現できないが、大学でしっかり学ぶと地域差とか文化的な違いとかがわかってきっと面白いに違いない。絵であってもそこにはある種の文法のようなものがあって、誰もが鳥の絵を見て鳥と理解するにもかかわらず、その美意識は違う方向に向いていると感じられる。ただ、言語と絵画や音楽が大きく違うのは、符号化されていない絵画や音楽が世界中で了解できることである。符号化あるいは記号化は、その符号の意味が了解されていなければ通じることはない。
さて、特に注意することなく前段で「写真」と書いたが、この写真が文化の違いにあらわれるかと問えば、その答えはなかなか難しい。歴史が浅いからとも思ったが、19世紀後半にはカラー写真が登場していることを考えると極端に新しいわけでもない。そして誰が撮っても同じになるわけでもない。それでも差異が見つけにくいのは、写されたものが現実の映像をそのまま伝えるからだろう。オンラインで世界中の写真を見るのが当たり前になって、差異が生まれにくいこともあるだろう。そう思いながらフォトシェアリング・サイトの無数の写真を見ていると面白い事に気づかされる。やはり写真には文化の違いがあると。誰か、この直感が正しいかどうか調べてくれないものか。

201703-322