Books, Cross Cultural

A Book: 南仏プロヴァンスの12か月

201501-405Written only in Japanese.

知られたオーベルジュ(Auberge)でのディナーはフランス人にとっても特別な時間である。ミシュランの星が付いているとなればなおさら、気軽に夕食を済ますつもりで訪ねる場所ではない。工夫を凝らした料理を楽しむのはもちろん、オーナーとの会話や調度品、あるいは気持ちの良い中庭もまた食事の一部である。気取った日本のフレンチレストランよりは、支払う額はずっとリーズナブルだが、決して安くはない。特別な時間を過ごすに値する価格にはそれなりに理由がある。結婚記念日に若かった頃を思い出すのも、知人と新年を楽しく迎えるのも、その場所はそれに値する時を与えてくれる。

そんなディナーであっても、ネクタイとジャケットやロングドレスが必要な場所はほとんどない。他の客人に不快な印象を与えない程度に小綺麗な服であればよい。親しい間柄の誰かと過ごす時間を堅苦しくする必要などない筈、ただ、それに相応しいだけの装いであれば充分だ。

ディナーは8時過ぎから。もし、中庭での食前酒でも予約できたなら、少し早めに風を感じながらの雑談でもしながらテーブルが用意されるのを待つのも良い。席に案内されて配られたメニューを開きつつオーナーの挨拶に耳を傾け、今日はあいにく良い鴨肉が手に入らなかったから他にしてほしいなどと聞けば、かえって食事が楽しみとなる。デザートはどれもおすすめだけど、今日の苺は地元産だからひときわフレッシュですよとなれば、軽いシャーベットでも食べようという30分前の決心は撤回、たっぷりの苺のミルフィーユにせざるを得ない。そうやって特別な時間が始まり、ゆったりと過ぎて行く。そして、そのゆったりと過ごす時間がもうひとつの魅力でもある。弾む会話も、親しい間柄の優しい沈黙もその一部であり、馬車がかぼちゃに変わる頃、ようやく特別な時間は終わりを告げる。

ゆったりとした時間は、忙しいことに慣れきった人間に豊かなひとときを思い出させる一方で、時に苛立ちの感情をもひきおこす。勿体ぶった説明、なかなか現れない御目当ての皿、そもそも時間になっても現れない友人。約束の時間通りにディナーが始まるべきだなんて誰が決めたんだと言わんばかりの当たり前の遅刻は分かっていても、空腹をこらえて出てきた皿と格闘する気満々だから、もっと早く来いとでも言いたくなる。8時に予約したからねの意味は、8時過ぎくらいに行くからねであって、テーブルにつくのは8時半という程度でしかない。そんなものなのだ。7:58発の電車が30秒遅れたという時間スケールでは断じてない。

201501-403そして気がつくのだ。分刻みで動く必要がどこにあるのかと。仕事の打ち合わせが遅れるという話なら、人それぞれの価値観もあるだろう。忙しいのに自分の時間をどうしてくれるのかと不平を言う気持ちも分からないではない。でも、レストランで素晴らしい時間を過ごそうというのに分刻みの時間管理はいらない。

少々困るのは、時々仕事でもゆっくりしている場合である。フライトの搭乗時刻まであと30分だというのに手荷物検査場は長蛇の列。待っても待っても前に進まないなどといったことを度々経験する。いつだったか、もう間に合わないという時間になってやっと検査場が見えてきたと思ったら、案の定、検査ラインがひとつしか開いてなかったということがあった。担当者が何らかの理由で不在となり、たったひとつのチェックラインで数百人をこなしていたのだった。フランス流の時間にすっかり慣れていたから、チェックインもしてるし係官もいないのだから仕方ないなと割り切ったが、まず羽田や成田ではありそうもない。そのうち代わりの係官が到着してラインが動き出したが、その頃には搭乗時間はとっくに過ぎていた。一所懸命仕事してるし、人も足りないのだから仕方ないよねと言わんばかり。新らしく到着した係官とおしゃべりしながら淡々と検査が続く。コイン持ってない?ああそうだった、さっきのコーヒーでお釣りがあった。PCはバッグから出して。はいはい、分かってます。もちろん、列に並ぶ側もブツブツ文句は言っているが、これからの移動時間を思えば大差ないという雰囲気である。そうやって大幅に遅刻して搭乗ゲートに向かうと、聞きなれた日本語が耳に飛び込んで来た。
「お客様!定刻を過ぎております。お急ぎください。」
やれやれ。時間に追われた日本がパリまで迎えに来た。

We have always found that New Year’s Eve, with its eleventh-hour excesses and doomed resolutions, is a dismal occasion for all the forced jollity and midnight toasts and kisses. And so, when we heard that over the village of Lacoste, a few miles away, the proprietor of Le Simiane was offering a six-course lunch with pink champagne to his amiable clientele, it seemed like a much more cheerful way to start the next twelve months.

大晦日の夜となれば、最後の土壇場の大騒ぎと最早逃げられない誓いとで無理にでも陽気に振る舞い、深夜の乾杯とキスの憂鬱な時を過ごすのだといつも気付かされる。だから、ここから僅か数マイルのラコストの村にあるルシミアンのオーナーが懇意の顧客に6皿のコース料理とピンクシャンパンのランチを出すと聞いた時は、これからの12か月を始めるにはなんとも素敵な方法だと思ったのだった。(tagnoue訳)

ピーターメイルの南仏プロバンスの12か月はこんな一節から始まる。ゆったりと時の過ぎるどうという事のないフランス南部の田舎は、同時に誰もが一度は住みたくなる美しい田舎であり、実際に住むには少々面倒な田舎でもある。ラベンダー(lavande)の青、輝くオリーブオイル(huile d’olive)の香り、白く濁ったパスティス(pastis)の焼けるようなのどごし。魅力的な文化と愛すべき困った人たち。あとは、いつ行くか?それを決めるだけという気になってくる。

最近読んだ本

南仏プロヴァンスの12か月
ピーター・メイル 著、池 央耿 訳

 

Bonne journée, Photo, photo challenge

Weekly Photo Challenge: Express Yourself

201501-401
Let me express myself

When I was young and interested in the space science, for whatever reason, I don’t know why, the place at the top of my bucket list was not cape canaveral nor Mauna Kea Observatories but southern France, where I thought something interesting was.

Indeed, I was 15 years old.

201501-404

Of course, there was nothing related to the space science but I always found me being still connected with French people somehow.

What a wonderful life, isn’t it.

In response to the weekly photo challenge, Express Yourself by The Daily Post.

Bonne journée, Photo, photo challenge

Weekly Photo Challenge: Converge

201411-511

I took this picture in France as a memorandum because I was interested in the priority of pedestrians and automobiles. Simultaneously, when I looked at the vanishing point, I found that it was shinning at the end of the street as the energy converges there.

201411-510

In response to the weekly photo challenge, Converge by The Daily Post.

Cross Cultural

Le Manga

201411-211written only in Japanese

長距離便の機内では、アニメーション映画を見ることも多い。あるいは、正直あまり面白いと思ったこともないものの、いわゆるマンガをもとにした映画を見ることもある。暇つぶしということもある。だが、どちらかと言えば、折角の機会だから見てみたいといった理由である。妙なアクションサスペンスを見るより明らかにその回数は多い。

ところがである。マンガそのものが実は苦手である。そもそもイメージが湧かないから、なんとなくストーリーを追っているだけになってしまう。何故か動きのあるシーンが止まっているように見えたり、会話が不自然に見えたりと絵の中に入り込めないこともある。その点、風刺画や4コマ漫画はそのものズバリでまだ読みやすい。どうやら、連載マンガの類がだめらしいのだ。最近は電車で雑誌としてのマンガを読んでいる人も少なくなったような気がするが、たまに熱心に読んでいる人を横からそっと見て、純粋にすごいなと感じてしまう。

201411-212もちろん、マンガは日本固有のものではない。ベルギーにはバンドデシネ(タンタンが有名)と呼ばれるマンガの文化がしっかり根付いているし、いわゆるアメリカンコミックは指摘するまでもない。もはや明確に文化としての歴史と位置を持っている。こうなると、アニメーションではなく、マンガを楽しめないのは少々残念でもある。

最近は日本のマンガが一定の評価を得て、フランスあたりでは、若い層を中心に多くの読者がいる。先日も知人のフランス人が頼まれて数十冊のマンガを買ったとのことで、スーツケースに入らないからそれでも半分諦めたと話していた。やれやれ。どこまでブームは続くのか、マンガを読まない身としては、半ばあきれ顔で驚くしかない。いまや、地方都市にも専門店があり、ひょっとすると文化として定着するのだろうか。本の左右の開きの違いから、フランス語訳ではなく日本語で読む人も少なくないから、マンガで日本語の勉強をして、妙に今風な日本語を話す生粋のフランス人が現れるのは時間の問題だろう。変な日本語を覚えなければ良いが。

Books, Cross Cultural

A Book: 里山資本主義

201410-024Written only in Japanese.

狭い意味でのデザイン、あるいは見た目という卑近な言葉までは必要ないが意匠とでも言うべき姿としてのデザインには、好き嫌いはあっても良い悪いはない。ゴッホの絵にも好きな人も嫌いな人もいるように、感性の違いは必ずある。比較的安価なものであればあまり気にしないかも知れないが、車のような安くはない買い物なら、デザインの好き嫌いは気になる人も多いだろう。安価であっても、ペンのような手にするものは、デザインが重要だったりする。ところが、それが良い悪いかと言われれば、感性に対して良い悪いもない。

無論、実際には「良い」デザインがあるという反論があることは分かっている。多くの人が好きなデザインは良いデザインであろうし、誰もが使いやすい工業デザインが優れていることは間違いない。ただ、そこには「商業的に」という説明が見え隠れする。商業的であることが悪いわけではもちろんない。売れることで安価になるかも知れないし、誰もが使いやすくあった方が良い。それでも、どこか、「良い」デザインによって失う何かがあるような気がしてならない。

企業活動にとって、なるべく多くの人に受け入れられることは重要である。たったひとつしか売れないなら受注生産のほうが良い。100個売れるデザインより10000個売れるデザインのほうが良い。そうやっていくとやがて、万人受けするデザインだけが生き残る。どれもが同じようなデザインになり、同じ文法の中で表現を少し変えたものばかりとなる。いつだったか、会話内容から製品の意匠デザインを担当していると思われる人が、ため息を吐きながらこんな話をしているのを聞いたことがある。その人は、新しい形態のデザインを提案しても、良いデザインだが次に考えると言われて受け容れられないというのである。だから、もう少し普通のデザイン案も用意すると。仕事をするなら真っ当な話である。自分の思うところと、より保守的な案のふたつを提示し、意思決定者が選択可能にする。結果は保守的なほうと分かってはいても、考えは提案しなければならない。
「日本車なんてつまらないよね。みんな先っぽが斜めに丸くなってて、どのメーカーもデザイン同じなんだから。」
とその人は言う。そのつまらないデザインは、世界中で売れている。T社にいたっては、世界トップを争っている。そうやって、販売の視点でデザインが決まり、どれもが同じになるのだろう。

都会だろうが、地方都市だろうが、人口数十人の村だろうが、それは等しく存在する。万人受けするデザインであれば、どこでも売れるだろう。特に工業デザインなら地域差は少ない。だから都会の論理が良いということになる。東京は田舎にも持ち込まれ、人は東京を目指す。そうしたことが悪いことでもない。

201410-025ところが、いつも仕事をしているフランス人と話していると、どこか違うような気がしてくる。原点のずれのようなものを感じることがあるのである。彼の地元では大きな青空市が週末に立つ。その市では、生鮮食料品を中心に日用品が売られている。さぞかし新鮮で安いたくさんの種類の野菜でいっぱいなのだろうと思うと、そうでもないと言う。新鮮であるのは間違いない。だが、値段も高いし種類が多いとも言えないのだそうだ。安くて手軽な食料品が欲しいなら、郊外の大型スーパーの方が良いと。それでも彼は、時間があれば市で買う。安全でエネルギーを使わないエコな野菜を選ぶのだ。大型スーパーは、画一化された工場で作ったような野菜を大量に買い付けて運ぶ。手間がかかる有機農法などコストに見合わない。何が使われたかなど分かったものではない。そもそも、そんな物が美味しいはずがない。そんなことらしい。もちろん、季節はずれの食品は手に入らないだろう。いつも必ず市で買うわけにもいかない。時間のある時に会話を楽しみながら美味しそうな食材を探し、ついでにブランチを楽しむということなのだろう。売る側も自信と誇りを持って売っているから、あまりいい加減なことはしない。そんな人々が集まれば、自然と地元の伝統文化を残そうといった話にもなる。パリも良いけど地方も悪くないなと思える場所にもなる。

さて、ここに書いたことと本書は直接関係ない。本書に書かれていることの正否は(そんなものがあればだが)、時代と社会が決めることであって気にする必要はない。そもそもこのブログで書いたことでさえ甚だ怪しい。どこかに勘違いはないかと問われれば、記憶自体が大きな勘違いでしかないのかもしれない。であれば、どうして直接関係のない話を書き連ねたのか。本書を読んだことで思ったこと、思い浮かべたこと、それ自体が本書の価値なのではないかと感じるからである。どこかにひょっとすると同じバックグラウンドがある可能性がありはしないか。そんなことを考えることだって、一つの読み方だろう。

最近読んだ本

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く(角川oneテーマ21)
藻谷 浩介、NHK広島取材班 著