Bonne journée, Books, Cross Cultural

永遠に完成しない

201607-111

6月26日付の朝日新聞の書評にて、加藤出氏が「東京β 更新され続ける都市の物語」(速水健朗 著)について書いていた。未読であるのでその書評にも著書そのものにも詳しく触れるつもりはないが、ただその書評にあった一文が気になった。自分の常識と現在が少しずれていることに気づいたからである。書評にはこうあった。
「ITの世界で永遠に完成しないことを「β」と呼ぶことに倣い…」
この言葉が、著書を言い表すものかどうかはわからない。察するに、永遠に作り続けられる未完の都市としての東京がβなのだろう。その通りだろうと思う。変わりつつもどこかに完成したバランスがあるのが普通の都市だが、東京は変わり続けることが東京の定義であるかのようだ。少なくともそう見える。
しかしながら、ITの世界でのβという話であれば別である。ソフトウェアでのβは、完成したものでなければならない。
「すべて要件を満たし、もうやることはありません。完成です。ただ、テスト完璧に終わっているわけではありません。もし、何か違ってたら直すかもしれません。」
そう、どこかに未完の可能性を残しているかもしれないという言い訳のような気配を残して言われることはあっても、完成はしているのだ。そこには物事に対する向き合い方の違いが明確にある。ウェブで「β」という時、それは、
「このサービスには完成形としての自信があります。ただ、皆さんにご協力いただいて少しばかりテストさせてください。」
と言っている。未完成だとは言っていない。どこかに不完全な部分があるわけではない。アップデートされるのは、完全だと思っていたものに対する何かしらの改善が必要だと分かったからである。永遠に完成しないのではない。

201607-112
冒頭の写真も、遠景は毎年繰り返すように雑然としたまま何も変わらない。

いつからか、完成しないことが当たり前のように言われるようになってきたような気がしてならない。完成しないことがいけないと言いたいのではない。ITであれ都市であれ、その時々で人は対象を完成をさせてきたのだろうと思うだけである。あとで振り返って永遠に完成しないと評されれば、それは後出しジャンケンみたいなものである。
十分な時が経てば、恐らくは都市のある瞬間のスナップショットは完成した様子を見せるだろう。それでいて、その次の時代には更新されている。そう言うものだろう。

美しく植えられた花壇には美しく花が咲き、季節はそこでも着実に進んでいく。いくら手をかけても、時は止まることがない。たとえ雑草であっても、前年に一所懸命刈り取った場所であっても、それは季節とともに帰ってくる。永遠に完成しないと思っているのは、案外繰り返す日常のなんらかの言い訳程度のものかもしれない。

 

Bonne journée, Cross Cultural, Photo, photo panoramique

Kamakura 鎌倉にて

201606-411

English text at bottom

湿った青い匂いと何もかもを露わにするかのような強い日差しが千年の歴史の上に降りそそぐ。そのあまりに強い初夏の光のコントラストに、御堂の奥は無限の深みへと沈み込む。
音のない青が重なり合った竹林に遠くを見渡し、降りそそぐ黄金と緑の伽藍が外にあることを思い出す。その微かなざわめきと沈黙のコントラストに、止まりかけた時間のエコーが霧散する。

肩に食い込むレンズの重さは千年の歴史の質量を現し、ファインダーに捕らえられて見ひらくことの叶わない眼に時間の重なり合った光を届ける。
網膜に届く光の重さは現代の喧騒との葛藤にますます熱を帯び、盲目に動き続けるセンサが長い時代の流れと停滞を冷たく記録する。

背後に鈍く響く梅の実の音に慌てて振り返り、修学旅行生の甲高い声に遠くを見る。
ディーゼルエンジンのガラガラ声がバラバラに動き回る10代を呼び集め、
スマートフォンのカメラが紛い物の咳払いをする様子を風景のように眺める。
千年の歴史と明日が共にあることをに理由のわからない安堵をおぼえる。
静寂と喧騒がいつまでも繰り返しそこにあることを確認する。

縁が茶色になった紫陽花の水滴。
深みに落ちていく鐘楼の柱。
陽光の反射に身を隠す鯉。
黙りこくる仏像の眼。
仰ぎ見る初夏。
海風。

 

先週の”Weekly Photo Challenge“で鎌倉の写真を使ったが、その鎌倉の続きである。6月はちょうど修学旅行の季節。あじさいと夏至の強烈な光もあって、静かな鎌倉と観光地としての鎌倉とが混じり合った不思議な空間となっていた。

Above text written in Japanese is a prose poem about the ancient capital Kamakura (see also Weekly Photo Challenge: Curve). I hope you could enjoy some scenes through my eyes if you aren’t familiar with Japanese language.

Bonne journée, Cross Cultural, Photo, photo panoramique

Le Guide Vert

201606-211
葉山、旅人が行くかのような海辺

(written only in Japanese)

京急に乗ったらミシュランとの提携企画なのか、三浦のいくつかの写真とともに、城ヶ島がミシュランでふたつ星となったようなことが書いてあった。神奈川とその周辺地域に住む方以外には三浦半島も京急電鉄もいまひとつ位置関係がわかりにくいかもしれないが、ともかく手近な観光地と言うか、ふらっと海を楽しみに行く場所である。だから、正直に言えばミシュランふたつ星と言われてもピンとこないところもある。三浦半島から羽田空港までカバーする京急電鉄からすれば、これを機会に三浦を見直しましょうといったところか。どこかに歴史すら感じる田舎の港町とリゾートと新興住宅街を混ぜ合わせたような葉山から、カタカナで書くほうが似合いそうな大人の影を漂わせるヨコスカを経て、観光地としての油壺や城ヶ島の突端まで役者はそろっている。なるほど、ミシュランに選ばれる日本らしさも充分理解できる。それでもなお、私にような横浜市民にとっては身近なお出かけスポットが三浦である。

日本では、ミシュランと言うとレストランの格付けみたいなところがあって、旅行ガイドの方はあまり知られていない。例えば歴史的背景やその遺構に事細かに説明があったりして、なかなか日本の旅行ガイドにはない魅力があるのだが、オシャレなガイドブックになれた日本人には合わないのかも知れない。

面白いことに、このミシュランの日本旅行ガイドは、日本では「グリーンガイド・ジャポン」と呼ばれている。伝統的に緑の表紙が使われており、まさにグリーンガイドである。ミシュランはフランスの会社であるので、地域名だけはフランス語にしたかったのか、何故かジャパンや日本ではなく、地域名にはジャポンが使われている。英語とフランス語がカタカナで書かれているあたりに「おフランス」なニュアンスが見え隠れしないでもない。それでいて、この「グリーンガイド・ジャポン」に日本語版はない。昔からミシュランの旅行ガイドを知っている身からすると、なんだか妙な気分である。そもそも、古くから使うひとは「ギドヴェール」と呼んできた。ガイドのフランス語であるギドに緑を意味するヴェールなので、グリーンガイドはそのまま直訳でもある。

そう言えば、数年前から使っているクリアフォルダ(プラスチックの紙挟み)には、ミシュランのガイドブックの古い広告がデザインされている事を思い出した。古いと言っても1972年と1995年なのでひどく昔と言う訳でもない。出張で日本に来たフランス人はそれを見てこう言い放った。
「ずいぶん古いねぇ。そんな古いガイドじゃ役立たないよ。」
まぁ、その通りではある。数十年前程度では、単なる古本だろう。

201606-212
横須賀、灰色の海と華やかな海のせめぎ合い

 

Bonne journée, Cross Cultural

croissants and bagels

201605-511クロワッサンは焼きたてでなければならない。パン屋で茶色の紙で無造作に包まれたそれを受け取った瞬間から、包み紙を通して感じるほのかな温かさとふわりとした触感に、早く喰らい付かなければならないという罪悪感のようなものすら感じ始める。思わずゴソゴソと包みを開き、あたりをうかがいながら大きな口を開けて嚙みつけば、口中に広がるサクサクとした甘みとバターの香りの組み合わせが幸せを呼び起こす。脂っぽいパン生地のかけらが口の周りに着こうが、周りに散らばろうが、味わいに比べれば些細なことである。朝7:30の開店と同時にクロワッサンを買うということは、そういうことだろう。フランス語でクロワッサンはパンではないとか、ナポレオンがどうしたとか、もはやどうでも良い。半日経っても美味しいクロワッサンというのもあるだろうが、それでも焼きたてでなければならないのだ。
一方、ベーグルは焼きたてを楽しむことが本筋ではない。半分にスライスして、たっぷりのクリームチーズとハムを挿み、時にはレタスなどの野菜類も加えて、美味しく健康的にいただくべきものである。時にパンが冷たく冷えきっていても、それ自体は重大な問題ではない。ビタミンすら感じながら、もっちりとした歯応えとフレッシュな空気感こそ似つかわしい。

201605-512いきなりパンの話で始めたのには理由がある。個人的な感覚だと言われればその通りだが、いつもの街で少しばかり妙な感覚をパン屋の前で感じたからである。
先日、混雑した電車から降りてようやく一息ついたところで、その妙なものに気がついた。吊り革を掴む腕が揺れるたびに関節に感じる湿気にうんざりしていた後だけに、いっそうすっきりしない感覚が増したのかもしれない。駅のパン屋に並ぶ朝の美味しそうなパンとパンの間に、奇妙なポップが置かれていた。
「クロワッサン・ベーグル」
対極にありそうなこのふたつのパンが、何故ひとつになったというのか。しばらくは、何が書いてあるのか理解していない自分を疑わざるをえなかった。そして、思い至ったのだ。つまりは、「餅茶漬け」とか「ブレッド・アンド・ライス」とか、兎も角も似たようなものを強引に組み合わせたのだろうと。確かに、随分と前のことだが「おにぎりパン」なるものが売っていて、血気盛んなチャレンジ精神でそれを買ってみたことがある。それはそれで面白いし、不味いというわけでもなかったが、正直、面白さとカロリーがその主たる中身だったように記憶している。誰が考えたのか知らないが、できれば美味しいものはそのまま頂きたいものである。

201605-513ところで実は、もうひとつ奇妙なものがある。なんと「ミートドリンク」である。とはいえ、こちらは見間違い。自分が勝手に間違えただけなのだが、朝から多少胃に違和感を覚えたことだけは告白しておきたい。

ところで、冒頭の写真は本題とは全く関係ない。本文でいつもと違った写真を使ったので、少しばかり悩んだような写真を持ってきてみただけである。

 

Bonne journée, Books, Cross Cultural

映画と読書

201605-311

どんなに息苦しい場面であっても、どんなに退屈な日常であっても、映画の中の時間は製作者が意図するように進んでいく。ちょっと辛いと感じようが欠伸がでようが、見る側の介在をきっぱりと拒絶し、ささやかな抵抗と言えば、せっかく買ったチケットをあきらめ自ら席を立つこと程度しかない。だからなのか、映画館では眠っている輩も少なくない。いったい、激しく音が鳴りわたるアクション映画を見ながらゆっくり休むことが出来るものなのか、私にはとんと分からないが、そうやって居眠りしていても時は流れて行く。長距離便の機内で疲れきった体の中をコーヒーで洗いながら見る映画となれば、時に悲劇が訪れる。ゆったりと時が流れる映画の途中で意識を失い、目覚めた時には急展開の後半に、事の背景も分からないまま結論だけが提示されたりする。

そんな映画へのアンチテーゼというわけではないだろうが、時の流れを基準に映像をつなぎ合わせた「The Clock」は秀逸である。12時の時を告げる緊張感とランチタイムの安堵感は、まさに「時」そのものを見せてくれる。ともあれ、楽しみながら見ようが居眠りしようが、時には自宅のDVDを停止して食事をしようが、それが断片的であれ、映画は製作者の意図のままに時が流れるものである。
しかるに、本を開きその世界に入っていこうとする時、それは強い意志を持って時間を切り開かなければならない瞬間ともなり得る。辛ければ本を閉じれば良い。退屈ならコーヒーを沸かしのんびりしたって良い。紙切れの向こうの主人公など気にしなければ良いのだ。それでは困ると作家は思うのかもしれないが、知ったことではない。読者が好きなようにして良いのが本なのである。だが、同時にそれは、読者が強い意志を持って読み進めなければならない瞬間もあることを示している。先に進みたくなければ本を閉じるだけで良いのに、意志を持って読み続けなければその先の地平線が見えないことだってある。辛かろうが退屈だろうが、地平線が見えるその場所には自らの意志で読み進めなければならない。そうやって努力して読み進めたから得られる感慨もまた、読書の一部である。