
6月26日付の朝日新聞の書評にて、加藤出氏が「東京β 更新され続ける都市の物語」(速水健朗 著)について書いていた。未読であるのでその書評にも著書そのものにも詳しく触れるつもりはないが、ただその書評にあった一文が気になった。自分の常識と現在が少しずれていることに気づいたからである。書評にはこうあった。
「ITの世界で永遠に完成しないことを「β」と呼ぶことに倣い…」
この言葉が、著書を言い表すものかどうかはわからない。察するに、永遠に作り続けられる未完の都市としての東京がβなのだろう。その通りだろうと思う。変わりつつもどこかに完成したバランスがあるのが普通の都市だが、東京は変わり続けることが東京の定義であるかのようだ。少なくともそう見える。
しかしながら、ITの世界でのβという話であれば別である。ソフトウェアでのβは、完成したものでなければならない。
「すべて要件を満たし、もうやることはありません。完成です。ただ、テスト完璧に終わっているわけではありません。もし、何か違ってたら直すかもしれません。」
そう、どこかに未完の可能性を残しているかもしれないという言い訳のような気配を残して言われることはあっても、完成はしているのだ。そこには物事に対する向き合い方の違いが明確にある。ウェブで「β」という時、それは、
「このサービスには完成形としての自信があります。ただ、皆さんにご協力いただいて少しばかりテストさせてください。」
と言っている。未完成だとは言っていない。どこかに不完全な部分があるわけではない。アップデートされるのは、完全だと思っていたものに対する何かしらの改善が必要だと分かったからである。永遠に完成しないのではない。

いつからか、完成しないことが当たり前のように言われるようになってきたような気がしてならない。完成しないことがいけないと言いたいのではない。ITであれ都市であれ、その時々で人は対象を完成をさせてきたのだろうと思うだけである。あとで振り返って永遠に完成しないと評されれば、それは後出しジャンケンみたいなものである。
十分な時が経てば、恐らくは都市のある瞬間のスナップショットは完成した様子を見せるだろう。それでいて、その次の時代には更新されている。そう言うものだろう。
美しく植えられた花壇には美しく花が咲き、季節はそこでも着実に進んでいく。いくら手をかけても、時は止まることがない。たとえ雑草であっても、前年に一所懸命刈り取った場所であっても、それは季節とともに帰ってくる。永遠に完成しないと思っているのは、案外繰り返す日常のなんらかの言い訳程度のものかもしれない。



クロワッサンは焼きたてでなければならない。パン屋で茶色の紙で無造作に包まれたそれを受け取った瞬間から、包み紙を通して感じるほのかな温かさとふわりとした触感に、早く喰らい付かなければならないという罪悪感のようなものすら感じ始める。思わずゴソゴソと包みを開き、あたりをうかがいながら大きな口を開けて嚙みつけば、口中に広がるサクサクとした甘みとバターの香りの組み合わせが幸せを呼び起こす。脂っぽいパン生地のかけらが口の周りに着こうが、周りに散らばろうが、味わいに比べれば些細なことである。朝7:30の開店と同時にクロワッサンを買うということは、そういうことだろう。フランス語でクロワッサンはパンではないとか、ナポレオンがどうしたとか、もはやどうでも良い。半日経っても美味しいクロワッサンというのもあるだろうが、それでも焼きたてでなければならないのだ。
いきなりパンの話で始めたのには理由がある。個人的な感覚だと言われればその通りだが、いつもの街で少しばかり妙な感覚をパン屋の前で感じたからである。
ところで実は、もうひとつ奇妙なものがある。なんと「ミートドリンク」である。とはいえ、こちらは見間違い。自分が勝手に間違えただけなのだが、朝から多少胃に違和感を覚えたことだけは告白しておきたい。