Bonne journée, Cross Cultural

padlock

201611-211written only in Japanese

川崎の比較的新しい裏通りにその猫はいる。正確に言えば、猫の像がひっそりと置かれている。耳や背中は磨耗して金色に輝き、背景にはあまり手入れがされているとは言えない雑然とした植込み。丁寧に説明書きが添えられているが、立ち止まってそれを読む人はいそうにない。その猫がなんであるかに興味があるわけではない。その金色に磨かれた両耳だけが気になったのだ。
ヴェローナのジュリエット像であろうが、どこぞのなんとか地蔵であろうが、人は何かを信じてその無機質な塊に触れてきた。宗教的意味がある場合もあれば、永遠の愛を誓って繋ぐ南京錠のようなある種の願掛けみたいな場合もあるだろう。人が何かに触れて願う時に必ずしも奇跡はいらない。
川崎の猫にどんないわれがあるのか知らないが、見ている目の前でそれに触れて行く人がいるとなると、何か不思議な感覚におそわれる。耳が金色になった猫は、またも誰かの手で磨かれたのだ。恐らくは何かを求めてその耳に触れたに違いない。いや、そんな大袈裟なものでもなく、なんとなくラッキーな気分を得たいだけだったのかもしれない。ただ、自分には咀嚼しきれない何かが目前に現れた時、トゲでも飲み込んでしまった後のように妙な違和感が残されたのだった。
201611-212

地球の裏側ではまだ万聖節だというのにハロウィンの夜を過ぎればクリスマスの飾りが現れる街は、こころなしか忙しい。そこに宗教的な世界観などもはやないのかもしれないが、もう少し静かな日を楽しみたい。

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

旅先の朝は

201610-111written only in Japanese

旅先で迎える朝は、大抵すこし面倒だがワクワクする儀式が待っている。昨夜、逃げ込むように潜り込んだホテルのベッドから抜け出し、カーテンを開け、まだ下着のまま朝の日差しを浴びて伸びをする。シワのついたシーツはそのまま放ってバスルームに向かい、顔を洗って鏡で目を覗き込む。多少疲れた目には異常がないことを確かめると、おもむろに身支度を始めて思いを巡らす。さて、今日はどんな食事で1日を始めようかと。
ペンキがはがれかけた窓枠を強く押し出し、わずかに湿気を含んだ外気を吸う。歪んだガラス越しに朝日にシルエットとなった鳩が羽音をたて、煙突のひとつから微かに煙がたなびく。余韻を残すように短いクラクションの音。再び静寂。そして、少し甘酸っぱいものが食べたいなと思う。協会の鐘。

知らない土地で朝食を探すのは面倒だ。コンビニでもあれば適当に何か買って胃に入れるかなどと思うこともあるが、日本から一歩出ればそうもいかない。だからといって、知らない土地では探しようもない。朝はまだ街が始動していないのだ。そのまだ人々の騒々しい声も通奏低音のように続くエンジン音も無い朝、その土地の日常の隅っこにある土地のパン屋さんを訪ねるのは、フランスでの案外代え難い楽しみである。街であれば少なくとも数ブロックにひとつはパン屋さんが開いている。季節がよければリンゴなどの果実類を売っていることもある。朝、モーニングのあるカフェで過ごすのも良いが、8時前ではコーヒーとクロワッサンをカウンターでというのが精一杯。であれば、焼きたてのレザンでも買ってどこかで食べるのも悪く無い。

久しく遠い旅をしていない。

201610-112
横浜港、大桟橋。プリンセスクルーズの大型船が出港を待つ。
Bonne journée, Cross Cultural

サルスベリ crape myrtle

201609-341

written only in Japanese

「本日はご利用ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております。」
もはや記号であって、そこにメッセージがあるわけではない。誰もがスマートフォンを覗き込み、誰かと話をし、バッグに本や新聞をしまい込み始めて、おそらくは耳に残ってはいない。実は頭に入る必要などないのだ。ベルがなるのと同じく、そこには終点ですよという合図としての「音」が雑音に紛れて聞こえるいつもの通勤電車だけがある。
だが、その次に続く英文のアナウンスは少しだけ違う。もちろん、英語であろうと本質的に「音」でしかないことには違いはない。だからこそ、音ではない意味のあるメッセージとしてアナウンスが耳に入ったその朝は、こう返してしまったのだ。
「そうだといいね。私もそう願ってます。」

英語と日本語では、実は主語となる部分が違っている。日本語での「またのご利用」をするのは乗客だが、英語では「また御奉仕することを願っています」と言っているのであって、主体は鉄道会社なのだ。決まり文句と言えばそれまでだが、立場はまるで逆である。サービスを利用して欲しいのか、サービスを提供したいのか。
どうでも良いことには違いない。メープルシロップのたっぷりかかったパンケーキが良いか、パンケーキにメープルシロップをたっぷりかけて欲しいかという程度の話である。いつもの「音」。ただそれだけだ。

このところ、スマートフォンには毎日のように電車遅延の通知が届く。すぐに復旧することもあれば、しばらく動かないこともある。その度に、面倒な思いをする人がいて、傷つく人がいて、やるせない思いをする人がいる。時には、ラッキーと探していた言い訳を見つける人もいる。ポイント通過に揺れる車内でじとっと汗をかいたつり革にしがみつきながら、「そうだといいね」と言う自分に、少し都会の疲れを感じなくもない。

写真はそろそろ終わりのサルスベリ。天候不順のためか今年は長く楽しめた。

 

Bonne journée, Cross Cultural

いい加減 Irresponsible?

201609-211

Written only in Japanese as “cross-cultural”
どうしてこうもいい加減なのか。隣り合ったエレベーターくらいボタンの配列を揃えてほしい。そう思うのは、日本人だけなのか?あるいは、自分だけなのか。
世界中をこの目で見たわけでもないし、すべてがいい加減に出来ているというわけでもない。自分が見ている世界は、どれほど注意深く見つめようとしてもどこかで客観性を欠いている筈であって、そのある種自分自身でかけた呪縛からは逃れようもない。だから、世界が無神経に準備された乱雑なものから出来ていて、人はその整えようもない世界に苛立っていると考えるのは、いささか傲慢な考え方である。そうであっても、隣り合ったエレベーターのボタンの配列が異なっていることは、どうにも腑に落ちない。
「そのくらい大目に見ろよ」と思うむきもあるだろう。「いや、エレベーター2台に同時に乗らなきゃ問題ないだろう」そう考えるかもしれない。「それともお前はふたつに分裂する癖でもあるのか」と。
実は、この状況は、ホテル住まいなどで短期間いつもと違う場所に生活する時だけ問題となる。そのホテルに滞在して3日が過ぎたあたりからが問題なのだ。

ある朝、いつもようにウォーキングに出て、体を目覚めさせてホテルに戻ってくる。ロビーには並んでふたつの銀色のエレベーター。あなたは「上」のボタンを押してほんの少し周りを伺っている。奥の方からは食器がカチャカチャとぶつかる音とコーヒーの香りが伝わってくる。少しばかり空腹感。すると、不意に右側のエレベーターが空いて、中から誰かが出て来た。「あぁ、おはよう。」そう言いながら、危うくぶつかりそうになったひととすれ違いつつ左上の隅のボタンを押した。エレベーターが動き出す。「お腹空いたな。」と独り言。程なく開いたドアを出て部屋に急ぐ。そして気づくのだ。エレベーターホールの角にある花瓶も花も、かけられた複製の絵も、昨日とどこか違うと。エレベーターを振り返ると、そこには果たしてひとつ上のフロアーの番号。エレベーターの同じ場所のボタンを押したつもりが、違ったのだ。

日本のエレベーターの多くは、縦一列に番号が並んでいる。二列の配列でも縦書きの日本語のように列内で順番に並んでいる。だが、ヨーロッパでは二列で右左と順番に並んでいるものも多い。この配列、実は悪くない。左側の上から2番目のように、なんとなくパターンで位置が頭に入るのである。だからこそ、左右のエレベーターで配列は同じにして欲しいのだ。閉じるボタンはいらない。それよりまずは配列を直して欲しい。でないと不意に違う世界を味わうことになる。

さて、違うフロアに降りてしまったからは、自分の部屋があるフロアに行かなければならない。非常階段は、平常時は従業員用だ。再びエレベーターを待つ。そして開いたドアの向こうに笑顔を発見したりする。先ほどすれ違ったビジネスマンが降りてきた。
「部屋に忘れものをしたよ。君もか?またあとで。」
やれやれ、今朝はホテルのダイニングで朝食にするか。

201609-214

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

Totalitarian mentality?

201608-112English text a t bottom

最近は画一的だとか、異なる意見を排除する風潮があるとか言われるが、先日、日本はもともと多様性を受け容れる文化だったといった事が書かれた記事を読んで、はたと気がついた。確かにそうなのだ。フランスからの客人を日光や鎌倉に連れていって説明することと言えば、先ずは多様性と寛容性の文化だったりする。神社仏閣が仲良く並ぶのは自然なことであり、おしゃれな和食店の店名がアルファベットで書かれているのも普通のことで、ついでに変な英語がTシャツに書かれているのはむしろおしゃれだったりする。
もちろん、フランスにはアフリカ系はもとよりアラブ系もアジア系もたくさんいて、それぞれが伝統的なヨーロッパ文化の風景の中で当たり前のように生活しているから、日本に比べればずっと多様であるに違いない。だが、同時に日本にもたくさんの異文化が混じり合っていることも事実なのだ。ただ、日本に長く住んでいると、それに慣れてしまって気付かないというだけに違いない。たまには古くからの文化を見直す時間をとっても良さそうである。
でないと、フランス人の質問に答えられず
「あんた、ホントに日本人なのか?」
と聞かれかねない。

Some pessimistic people say that totalitarian mentality is begging to fall over Japan again. Maybe true, maybe no. Nobody knows.
Few days ago I found an article discussing about a culture of diversity in Japan. Indeed, it was saying Japanese had a flexible mind and still have it today. I completely agreed with the writer. That’s because we know a Buddhist temple is next to a shrine, a lot of Japanese restaurant have an alphabetical signboard or T-shirts sometimes argues strange things in English.
Anyway most of Japanese need to learn their culture more deeply.

201608-111