A Part of Wordless Wednesday
capturing in prose
English text at bottom
レオナールフジタ(藤田嗣治)のような写真を撮ってみたいと時々思う。その絵に思い入れがあるわけでもなく、特に好きな絵があるわけでもない。ただ、あの分厚くも透明な乳白色がどうしても気になるのである。
ある種、モノクロームの写真は色が十分に塗り重ねられた状態に似て、作り手にも見る側にも想像力を要求するものだと思っている。色のない写真には頭の中で作られた色が乗せられて形となる。物理的なプロセスは容赦ない。赤も緑も同じ明るさなら同じグレーへと切り捨てる。だからこそカラーでは見えない画像が現れ、想像力を要求する。
そうしたモノクロームの色と彩度の低い色とは、だからこそ根本的に違うものとなる。彩度の低い画にはそれでもやはり明確な色があって、色調の淡い固有の風景がある。フジタの絵には豊かな色があって、それでいて乳白色という彩度の低い絵を構成している。だから誰も色の薄い絵だとは思わない。
彩度の低い写真を撮っても彩度を低く編集しても、撮影しようとした透明感や空間の深みは現れない。結局のところ、上手くいかずに妥協する。デュフィーのような色が好きだとか、クレーの線が美しいとか理由をつけて、そのどれでもない写真を撮る。
フジタに関する本を新しく読んだついでに、別なフジタの本も再読した。その書評についてはまた別途。
Sometimes I get the urge to take a picture like an art L.Fujita drew. Honestly saying, I don’t feel so much for his pictures. Let’s say, I can’t get out of my mind about his milky white colors.
Black and white photos require imagination to reconstruct colors both of viewers and photographers just like fully layered color paintings. In other words you can paint freely with your favorite colors.
However his paintings show us his colors with his milky whites. Maybe I could say it is a low chroma painting and with full colors. I have tried to take such pictures but failed so far. Sometimes I make an excuse myself like I love Raoul Dufy also.


6月26日付の朝日新聞の書評にて、加藤出氏が「東京β 更新され続ける都市の物語」(速水健朗 著)について書いていた。未読であるのでその書評にも著書そのものにも詳しく触れるつもりはないが、ただその書評にあった一文が気になった。自分の常識と現在が少しずれていることに気づいたからである。書評にはこうあった。
「ITの世界で永遠に完成しないことを「β」と呼ぶことに倣い…」
この言葉が、著書を言い表すものかどうかはわからない。察するに、永遠に作り続けられる未完の都市としての東京がβなのだろう。その通りだろうと思う。変わりつつもどこかに完成したバランスがあるのが普通の都市だが、東京は変わり続けることが東京の定義であるかのようだ。少なくともそう見える。
しかしながら、ITの世界でのβという話であれば別である。ソフトウェアでのβは、完成したものでなければならない。
「すべて要件を満たし、もうやることはありません。完成です。ただ、テスト完璧に終わっているわけではありません。もし、何か違ってたら直すかもしれません。」
そう、どこかに未完の可能性を残しているかもしれないという言い訳のような気配を残して言われることはあっても、完成はしているのだ。そこには物事に対する向き合い方の違いが明確にある。ウェブで「β」という時、それは、
「このサービスには完成形としての自信があります。ただ、皆さんにご協力いただいて少しばかりテストさせてください。」
と言っている。未完成だとは言っていない。どこかに不完全な部分があるわけではない。アップデートされるのは、完全だと思っていたものに対する何かしらの改善が必要だと分かったからである。永遠に完成しないのではない。

いつからか、完成しないことが当たり前のように言われるようになってきたような気がしてならない。完成しないことがいけないと言いたいのではない。ITであれ都市であれ、その時々で人は対象を完成をさせてきたのだろうと思うだけである。あとで振り返って永遠に完成しないと評されれば、それは後出しジャンケンみたいなものである。
十分な時が経てば、恐らくは都市のある瞬間のスナップショットは完成した様子を見せるだろう。それでいて、その次の時代には更新されている。そう言うものだろう。
美しく植えられた花壇には美しく花が咲き、季節はそこでも着実に進んでいく。いくら手をかけても、時は止まることがない。たとえ雑草であっても、前年に一所懸命刈り取った場所であっても、それは季節とともに帰ってくる。永遠に完成しないと思っているのは、案外繰り返す日常のなんらかの言い訳程度のものかもしれない。