A Part of Wordless Wednesday
capturing in prose
しばらく前に降った雪が、雪掻きの努力の褒美でもあるようにそこかしこに残り、冬枯れの木々の間に強くなった陽光が降り注ぐ森の中にその建物はある。コンクリートとガラスが光を反射し、自然とは相反するかのような造形は、思いのほか森と一体化して違和感を感じさせない。入り口近くの空間には、巨大な歯車の一部のような錆びた何かが時を止め、いずれ春の緑に覆われることを拒絶するかのようにじっとしているが、やがてその試みも無為に終わるのだろう。
だからなのか、その建物に入るにはちょっとした儀式がいる。明るい木々の間にかけられた橋が、道と建物を隔てているのだ。それは、本を読むことに似て、読者と本の世界を隔てる表紙を丁寧にめくるように、人は橋を渡らねばならない。そうやって、森に囲まれたその建物の中で、違う世界を感じることになる。
箱根の少しばかり分かりにくい曲がりくねった道を通った先にポーラ美術館はある。1900年頃の西洋絵画を中心としたコレクションは、国内屈指の充実したものとなっている。そのポーラ美術館で、3/29まで「紙片の宇宙」という企画展が行われている。藤田嗣治やシャガール、ローランサンなど、ポーラ美術館のコレクションや美術館が得意な画家が好きならもちろん、挿絵本好きにもお勧めできるいつもと少し違う展示である。なかなか見ることのない豪華本も展示され、普通の印刷でよいから買えないかななどと見ながらつい考えた。
あいにくとあと3週しか会期はないが、ちょうど春休み、箱根に本の扉をめくりに行くのも悪くない。
今週のWordless Wednesdayはポーラ美術館の写真を予定。
六本木というよりはむしろ乃木坂の感覚の国立新美術館を久しぶりに訪ねた。そのメタリックな威容は、それ自体がアートであると同時に、アートを楽しむ場所としては些か落ち着かない不安な感覚を覚えなくもない。巨大な空間もさることながら、大きな展示が同時開催され、それぞれの思いでたくさんの人が集まってくるその忙しなさがひとつの理由であるかもしれない。つい先日まではオルセー美術館の有名作品が展示されていたと思えば、日程を重ねるようにチューリヒ美術館のこれまた有名作品の展示が始まるといった具合である。教科書で見たあの絵を実際に見てみたいという人もあれば、印象派の絵が好きだという人もいる。ともかく絵が好きで、全部の展覧会に脚を運ぶ人もいるだろうし、六本木に遊びに行ったついでにふらっと立ち寄るということもある。さすがに稀かも知れないが、全部の展覧会を1日でハシゴする強者もひょっとしたら案外そこそこいるのかもしれない。
そうやって、まるで大型のショッピングモールのように行き交う人の流れが、静かなアート空間という決まりきった概念と喧嘩する。そんな意味では、ある種、コンテンポラリーアートの中にでも入ってしまったような感覚でもある。
その対極にあるというわけでもないが、どこかの邸宅で個人コレクションでも見ているかのような錯覚を覚える美術館として、東京都庭園美術館、原美術館、日本民藝館などは、落ち着いてゆっくりと過ごせる場所である。もちろん、他にもそんな美術館はたくさんあるが、個人的にはこの3つは好みである。東京都庭園美術館(過去記事)は3年もの休館を経ていよいよリニューアルオープンということで、どうなっているのか楽しみでもあり、少しだけ不安でもある。美術館サイトの情報を見る限り、どうやらあの雰囲気はしっかり残し、建物それ自体が美術品と言って良い旧朝香宮邸の修復も進んだとのことなので、きっと思っているあの雰囲気は守られているだろう。
近代的な美術館にも古い美術館にもそれぞれの良さがあり、どちらが良いという話でもない。ルーブル美術館などは新しさと歴史が同居した巨大美術館として多くの人々を呑み込み、ガイドブック片手に行ってみたものの、結局あれがどこにあったか分からないといった話はもはや当たり前となっている。一方でこの国立新美術館は、めまぐるしく展示が動き、いつも新しい。公募展の場としての役割もあるからだろう。巨大な展示室は殺風景でもあり、エネルギーにもあふれている。
なにやら、自分が美術品を見に行っているのではなく、美術館を見に行っているような気がしてきたが、それもまた楽しみ。そう思いたい。
今日も良い一日を。
The article “Yokohama Triennale 2014” was written only in Japanese.
何も書かれていない白を見る。じっと見る。目を凝らし、何も見逃すまいと隅々まで眺める。何の変哲もない四角に切り取られた白い枠を覗くように見る。首を伸ばし、何ひとつ変わったところのない異常な白を見てみる。足音が聞こえてくる。リーフレットのノイズとともに近付いてくる誰かを肩の向こうに感じながら、また何も書かれていない白を見る。体をおこし、3歩下がる。どこか不安を感じて周囲を見渡し、周囲にある他の作品を感じながら再び観る。首筋を掻きながら、もう一方の手で腰を押さえ、白い空間を凝視する。そこに白がある。白い色はやがて影を持ち始める。わずかな陰影に白が歪み、クリーム色の模様が見えたような錯覚をおぼえる。しかしてそこには完全な白がある。
首を曲げて離れた場所に置かれたケースを見る。また白を見る。小さな説明書きに気付き、それを読む。作品名と作者の名前を作成年と共に記してそれ以上何も語らない四角は、白い四角を残して記憶から直ぐに消えて行く。白いそれから目を逸らし、離れたケースを見に近付く。ゆっくりと近づく。五線譜と説明書き。書かれていない音符。白い五線譜。ノイズ。
白い空間を漂いながら、次の部屋に迷い込む。自らの意思で迷い込む。そうやって迷いながら歩きまわる間に、時は容赦なく流れていく。生きるイメージと死を約束されたイメージ。その狭間に、時は流れていく。容赦なく流れる時間の中で、もどかしいほどゆっくりと作品が動く。ふと気付くと、強烈に色が自己を主張する。
開催の度に参加する横浜トリエンナーレは、まさに参加すると言う言葉が合っている。ぼんやりと眺めることもできないわけではないが、いつも必ず自分が作品の中にいるような錯覚をおぼえる。それがインタラクティブ性やインスタレーションそのものが作品と成り得るコンテンポラリーアートの面白さでもある。いつだったかのトリエンナーレ。実物大のサッカーゲームに興じながら、自分自身が参加しなければ感じることのないアートを楽しみ、狭い隙間を障害物を避けながら今を感じた時、観るアートはリアルタイムで存在するアートに変わったのだろう。
昨年はすっかり話題になっていた”The Clock”を見て、正午を迎える緊張感と正午を迎えた安堵感を同時に味い、急にランチタイムにしたくなったのが妙に記憶に新しいが、それでもなお、アートの中にいる感覚、あるいはそこにあるアートがある意味全体の印象であることは間違いない。
横浜のビルに巨大なバッタが取り憑いてから13年。次はまた3年後なら参加しておかなければならない。11月3日まで。
Three years ago, I had a chance to visit the exhibition of Jean-Michel Othoniel, who is well-know artist and his works are made of glass.
The refracted light was blended in colored glasses and reflected around you.
Time to time, we are confused and think where we are in the refracted world.
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In response to the weekly photo challenge, Refraction by The Daily Post.