Bonne journée, Cross Cultural

Sushi

 フランスから日本への主な輸入品目について、ある大手教育出版会社が子供向け教材にワインや化粧品と書いているのにちょっと驚いた。自分の記憶違いを恥じて統計データを見たが、やはりそんな事はない。機械装置類や医薬品が多いのである。しかもその教材には、日仏間の貿易は活発ではないともある。確かに大きくはないが、それでも15位程度だからむしろ活発だと言うべきだろう。
 恐らく少し古い資料なのだろう。今も使われている資料かどうかも分からない。だからその教材をとやかく言うつもりもない。ちょっとした事で状況も変わるだろうし、今や日本酒を輸出しようとしているくらいだから時代は日々変わるものなのだ。
 案外変われないのは社会よりも人間のほうである。一度思い込むと、事実を見せられても俄には信じられないのが常だろう。ワインや化粧品のイメージがつきまとうフランスから機械装置類が輸入されていたとしても、何の事かピンとこない。むしろワインと言ってもらったほうが安心できるというものである。

 先日酒屋の前を通り過ぎながら、ボジョレーヌーボーの広告が店の幅いっぱいに広がった横断幕の形で出ているのに気がついた。 日本みたいに大騒ぎはしないが、青色吐息のフランスのワイン業界にとっては大きなチャンスであることは間違いない。若者はワインよりもビールを選び、ロックダウンで最大顧客のレストランは大幅な売り上げ減となれば、お祭りだろうが何だろうが、なんとか買って欲しいと思うのが道理である。そんな中で空輸費用が上乗せされているとは言え、フランスの4倍の値段で売れる日本は重要な市場だろう。普段のテーブルワインと比べれば少しお高めの600円もするワインが、日本では2500円だったりするのだから、ワインそのものだけでなく、ワイン文化を輸出するくらいの勢いが良さそうだ。

 逆に日本からの文化の輸出と言えば、スシだろうか。この場合、寿司ではない。スシである。最近はどこのスーパーに行ってもスシコーナーがある。寿司のお弁当パックが並んでいる日本のスーパーを想像してはいけない。教育を受けたと思しき料理人が、売り場でスシを作って売っているのである。フランス人の知人曰く、巻いてあればなんでもスシだそうなので厳密には寿司ではないのだが、よほど日本よりも人気があるのだろう。ただ、巻き寿司の周りが七味唐辛子というのだけはやめてほしい。あれは味がどうこう言う以前の問題である。

 さて、フランスから日本に輸出する機械装置類と医薬品とは一体何なのか。どこかに詳しい統計データがあるのだろうが、調べた資料には記載がなかった。公的機関のデータだから詳細までは記載しないだろう。それ以上は調べていない。ただ、誰でも知っている企業名であれば、たとえば輸送機械のエアバスは数字に寄与しているに違いない。旅客機以外も作っているから、案外たくさん輸入されているかもしれない。医薬品といえばサノフィがある。抗ヒスタミン薬のアレグラの会社である。
 案外、日仏間は近い関係にある。

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パン・ド・ボワ

 この季節になると、大西洋岸を流れる暖流からの湿った空気が気まぐれで暖かな雨をもたらし、少しでも日差しがあれば外に出て太陽を見たくなる。一日中降り続くわけでもなく、グレーの雲の隙間にはわずかに青みがかった乾いた空のかけらも見え隠れする。だから、買い物には邪魔な傘を嫌々さして出かけてばかりというわけでもない。小さな折り畳み傘をバッグに無理やり詰め込んでみたりはするものの、大抵はコートの襟を立てて雨を凌ぐ程度である。街中を歩いていて雨が降り出せば、小さな軒下の雨のあまり当たらない隙間に体を押し込み、ショーウィンドウでも眺めながら雨が弱まるのを待つだけである。買ったばかりのバゲットが雨にあまり濡れないようにと脇に抱え込むのは、案外多数派でもない。

 パリからTGVで2時間ちょっとのフランスの西の果てにあるブルターニュには、中世から続く木組の建造物がたくさん残っている。木材で細かく骨組みを作った後で木材の間を土や石で埋めるハーフティンバー構造であり、フランス語ではパン・ド・ボワ(Pans de bois)などと呼ぶ。直訳すれば木枠構造だろうか。屋根や一部の壁にはスレートが使われ、細かな冬の雨をしのぐには優れた形式なのだろう。2階と1階(フランスでは1階と地上階)には時には僅かな大きさのズレがあって、2階の方が少し道路に張り出している。多少の雨ならこの出っ張りの下でやり過ごすこともできるから、自然とそんな作りになったのかもしれない。上越などにもある雁木と発想は同じであっても不思議ではない。もっとも、一説には土地の面積で決められた税金を少しでも安く済ませるためとか、下水がずっとなかったため窓から汚物を捨てていたのを通りを歩く人が避けるためとか、あまり楽しくない話もないではない。

 流石に16世紀の建築物を維持するのは容易ではない。それでも法的には外観の変更を許していない。内部の構造物も同じ形で補強する以外は認められない。壊れたからと言って直すには許可が必要である。19世紀以降の建築物でも簡単に許可が出ないそうだから、補修には時間もお金もかかることになる。それでもそこには誰かが住み、少しずつ住みやすいように改造しながら受け継がれていく。明らかに傾いた床も、慣れればなんとか住めるそうである。そう言いながら数年そこに住んだ知人は、やっぱり辛いと郊外に引っ越して行ったのだが。

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

Salt farm

 何というか、要するに塩である。

 結晶学的には塩素とナトリウムが交互に規則正しく並ぶ面心立方格子という面白くも何ともない結晶構造を持ち、式量はおよそ58。電気的には絶縁体であって、見た目は無色透明な直方体となる。水溶性があって、水に溶ければ塩素イオンとナトリウムイオンが電導性を示すが、融点は意外に高く、およそ800度になる。地球上には海水及び岩塩として大量に存在するが、多くの生物にとって生命の維持に必須の物質であって、口に入れれば他にはない塩味を感じる。

 要するに塩化ナトリウムの結晶なのである。

 ただ、純度100%かどうかと言われれば、食用の塩はマグネシウムを多く含んでいる。カリウムやカルシウムも少なくはない。それどころか、おそらくは多くの不純物が含まれている。これらの塩化ナトリウム以外の成分が「まるやかな」塩を生む。

 物質の多くは結晶化する際に不純物を自ら排除する。大雑把に言えば、異なるイオンがあると規則正しく並びにくいため、不純なイオンは結晶に入り込みにくい。だからゆっくりと結晶化させて不純物濃度を下げるといったことも行われる。人間が手作業でやるとなると大変な労力を必要とする。海水が多ければ生産できるというものでもない。もちろん熱を加えて水溶液から水を飛ばすことで生産できるが、多くは太陽熱と風による蒸発を利用した天日塩である。海から少しずつ海水を取り入れ、徐々に浅くしながら海水濃度を上げる。やがて現れる小さな結晶を少しずつ陸にかきあげながら「乾いた」塩にしていく。雨が多く寒い地域では生産は容易ではない。暖かくて晴天率の高い地域が生産には適している。

 そうやって作る塩の北限と言われる場所のひとつが写真の「塩田」である。アジア出身の自分にはどう見ても水田なのだが、ここは紛れもなく海であり、遠くまで続く塩田の先には我々が普通知る海が広がっているはずである。

Bonne journée, Cross Cultural

A-un

This article was written only in Japanese.

阿吽(あ・うん)が何かと問われても案外理解できていない。サンスクリット語が語源だなどと言うつまらない知識の向こう側で、狛犬と何が違うのかとGoogle検索の呪縛にでも引き込むような疑問が次々と湧いてくる。どうでも良い話なのだろう。少なくともそれを知らずに生活するのは難しい事ではない。それは富士山の高さが何メートルなのかといった疑問とさして変わらない。一度登ったきりで、普段の生活では気にも留めない存在である。

そんな普段から気にも留めない阿吽について、日本語の分からないフランス人に説明を始めてしまったとなると、話は別である。「あぁ、止せば良かった」なんて思っても、真剣に聞いている相手にいい加減なことを言わないくらいの分別はある。元はといえば、コミュニケーション不足をどう解決するかという解決の難しい課題である。考え出せばキリがない。そこに阿吽を持ち出してしまったのは自分だが、阿吽など説明せずともコミュニケーション・ギャップの背景を伝える事はできる。余計なことを言ったものである。
「まぁ、自分でもよく分からないのだけれどね。」
と言って話を終えても良いが、結局は日本的コミュニケーションというステレオタイプな説明をせざるを得ない。もっと自国文化を知っておくべきだったなんてつまらない反省までしたりする。

もし阿吽の呼吸に興味があるのならここに調べた事を書いても良いが、もはや問題は阿吽の呼吸にはない。あの阿形吽形が何であれ、狛犬がなんであれ、日本を訪れて寺社を見ているうちに気がついたあの左右の一対の何者かが「あ・うん」であって、どうやら口で言わずとも了解しあえる状況でそれを形容するのにその「あ・うん」が出てくるらしいということが了解されたら、興味はなぜ「あ・うん」なのかである。いや、実は知らないわけである。口を開いているのが「あ」で口を閉じているのが「うん」であると言った程度であって、阿吽がどんな関係にあるかなど何もわかっていない。仕方ないから正直に説明をするしかない。
「いや、実は自分もわからないのだ」
結局行き着く先はここである。それでも少しでも何かをつけたそうとする。悪あがきというやつである。「あ」は始まりの意味であり「うん」は終わりを意味するから、宇宙を表しているのだと言った類である。
「何でこんな話をしちゃったんだろう。知らないんだから止せば良かった。」
と独り思う。
その時である。
「あぁ、そういうことか。分かった。アルファ・オメガだね。アジアもヨーロッパも同じなんだ。」
何が分かったのかがわからないが、相手は急に納得したのである。
阿吽は今後ΑΩと訳さねばならない。

一度は書いた記事のつもりでずっといたが、見当たらないので新たに書き直してみた。

もしΑΩに不案内であれば、この写真にある新しい教会の入り口の上を拡大してみていただきたい。写真をクリックすれば拡大する。

Bonne journée, Cross Cultural

WfH

今年の戦勝記念日は何もなかったらしい

 なんだか距離感のつかめないWeb会議の頻度が高まって、集中する事の意味が違ってきたような気がしている。ロックダウン前だって頻繁にWeb会議をやっていたのだから何も違いはないはずなのだが、Web会議がデフォルトになって、そもそも相手の顔を見なくなったような気がしている。要は、関係のない話だったらその間に別な仕事をしようかなと思ってしまうのである。生産性の低い会議などしていれば、そのウィンドウの裏に隠れている別な課題に取り組もうという気になってくる。

 追い討ちをかけたのは、映像がなくても良いと気づいたことだった。元はと言えば、リモートワーク(日本ではWfH – Working from Homeの言い方が定着してきたらしいがフランスは昔ながらの télétravail テレトラヴァイユが主流か)で集中した通信回線負荷を下げようという話であった。ビデオはそれなりに負荷が大きいからオーディオだけにしょうと映像を消したのだった。映像がなくても会議はしっかり進むし、会議で解決すべき課題にも結論が出る。逆に言えば、何も進まない会議なら別な事をしても良い。それが人の心理というものである。

 一方で、リモート飲み会なら映像が欲しい。音声だけでは臨場感に欠けるというものである。最近は、「Skypeでzoom飲みする?」というらしいから、動詞としてのzoomが映像付きのカジュアルコミュニケーションという意味を持ってきたのだろう。なんだか急激にZoomが市民権を得たようである。SkypeだろうがWebExだろうが、あるいはJitsiであってもさして違いはないのだが、Zoomは仕事のツールではないところまでユーザを広げられたのがよかったのか、それとも名前が良かったのか。

 少し前だったら「yahoo!でググってみたら」という言い方と同じなのだろう。その時点で検索という行為では勝負がついてしまったわけだが、果たしてZoomるのが定着するのかどうかは分からない。MicrosoftもGoogleもそう言えば自社にもサービスがあったと思い出したように宣伝し始めたし、この後で大きく勢力図が書き変わる可能性だってないわけではない。ただ、ちょっと面白いのは、Zoomを作った人は元WebExの技術開発トップの人だし、SkypeはMicrosoftの一部なわけで、案外内輪で盛り上がっているだけのように見えるという事だ。

 果たして時代はまたひとつ進むのか、それとも余計なツールがひとつ増えるだけなのか。
「この書類、Xeroxして郵送しなきゃ」と言っていた時代のXeroxも郵送も、最早クラシカルな商習慣の一部となった今、ZoomがTV会議であるうちは何も変わらないのかも知れない。

Bonne journée, Cross Cultural

Quick Lunch (2)

201806-311

(This article was written in Japanese)
前回、文章が長すぎたので2回に分けた後編。前編はこちら

さて、その翌々日。少し遅めのランチへと再びフランス人と外に出た。どこまでも透明な空気はカラッと乾燥し、さらに空は青く、強烈な日差しに痛みを感じながらなんとなく件のサンドウィッチ屋の方に向かう。気付けばもうひとり一緒になり、さらにひとり増え、やがて自分以外はフランス語を話しているのだった。知り合いのフランス人がこれはいかんと皆を紹介してはくれたものの、結局は会話はフランス語に落ち着いた。だから、どういったわけでサンドウィッチ屋の手前で道を逸れメキシコ料理に向かう事になったのかはわからない。ただ気付けばタコス屋に皆が入って行く。
西海岸でタコス屋と言えば手軽で安い典型である。初めてのロサンゼルス空港でタコスを食べようしたら、隣のマックは長蛇の列だというのにタコス屋は誰一人いなくて不安になったことがあるが、あれはきっとアメリカ人の少ない時間帯であったからで、本来はマック並みには人が入るものである。日本で言ったらラーメン屋か牛丼屋くらいに庶民派だ。少なくともそう勝手に思っている。だから、昼に手軽に食べるなら悪くない。ところが、前日の夜も豪華なディナーと言うわけでもなく、もう少しそれらしい食事がしたいと思っていたから、ホントはタコス屋よりは歩いて5分ほどのカリフォルニアスタイルのレストランにでも行きたいところだった。2日続けてサンドウィッチ屋というのもなんだが、前日が牛丼屋で今日がラーメン屋くらいのお手軽さには少々飽きていたのだ。店を替えるなら他にあるだろう。
気がつけば、昼食も夕食も、もう4日も建物の中で食事をしていないのだった。もちろんキャンプしていたわけではない。どこまでも深い青空の下、爽やかな外のテーブルのゆったりとした環境で食事をしていたのだから、不平をもらすような状況ではない。風が冷たく日差しが少しばかり強いことに文句を言う輩はまれにいるだろうが、多くの人が羨むような環境と言うべきだろう。それでも、4日も外だとたまには屋内が良い。
2日目であったか、会議でだいぶ遅くなった夜にホテルのレストランで軽く食事でもしようとロビーに向かったのだが、レストラン前のバーカウンターにはすっかりリラックスした数人が、赤や青の間接照明がグラスを輝かせる中、1日の終わりのひとときを思い出深くすべく歓談しているところだった。天井近くのディスプレイにはバスケットボールの試合が映され、アコースティックなロックが周囲を包み込んだ。カトラリーの金属音はむしろその場の雰囲気を盛り上げるための効果音であって、さほど離れていないレセプションも舞台装置の一部となった。そのカウンターとレセプションの間にレストランへとつながるドアはあった。食事には遅い時間だったが何かしら食べるものはあるだろうし、ガラス戸の向こうにはランプが揺らぎ、笑い声も聞こえていた。ライトがガラスに反射してよく見えなかったが、確かに大きなテーブルには5、6人がディナーの最中なのだろう、楽しそうに歓談しているようだった。その向こうをウエイターが通り過ぎて行くのが見える。ひとりだがここで食事でもしよう。そう思ってドアに手をかけた。照明の落とされた落ち着いた空間がガラス越しに見える。テーブルにはランプの揺らめく灯り。そうして、1/3ほどドアを開けた時にふと気付いたのだった。それは、外への扉だったのだと。レストランなど存在していなかった。食事も供するバーがあって、その外にあるテーブルへの出口があっただけなのだ。ランプの置かれた丸テーブルは夜の湿った冷気に包まれながら、その向こうの歩道とホテルを曖昧に切り分けていた。
空腹であればあまり細かいことは気にせず手近なところで食事が出来ればそれで良い、そのレストランの幻影を見た夜と同じようにそんな面倒臭さもあったが、皆が入って行くタコス屋で十分という気にはなっていた。そして少なくともタコス屋にはかろうじて屋根があった。しっかりとビルの1階にあるという点では「かろうじて」という表現は正しくないかもしれないが、例によって、開け放たれたドアは強烈な日差しの降り注ぐ外を区別しようとはしなかった。ともかくやけに背の高いその入り口近くのテーブルで日差しを避けながら、しっかりと夜の分も食事をしておきたかった。その夜は、またしても10時過ぎまで打ち合わせであろうことは、想像に難くない。であればせめて肉と野菜を胃に入れておきたい。そう思っていた。
ところが、いざメニューを見ながらその肉と野菜を選ぼうとすれば、それがどんなものかさっぱり分からない。近くで食べている人を盗み見たところで、ラップされているタコスは中身がよくわからない。
「おまえ、タコスは詳しいか?」
「知るわけないだろう。」
それはそうだ。フランスのタコス屋はフランス語で、日本のタコス屋は日本語で説明されている。しかも、セットで5ドルである。それならいっそ、少しボリューム感のあるブリトーがいい。そうだ、ブリトーならきっと肉もしっかり入っているし、ボリュームもそこそこある。9ドルならそれなりに満足するだろう。そういえば、カリフォルニア・ブリトーなるものが流行りだったのではないか。
もはやそれが何であったか忘れたが、ともかくそれらしいブリトーを頼んで止まり木を確保した。会話はフランス語のままだったし、英語であっても仕事以外にあまり共通の話題もない。ぼんやりと外を見ながら、時折気を遣って英語が混じる会話に曖昧に参加する。先にタコスをオーダーしたフランス人は、はやくも半分を平らげた。程なくして、カウンターの奥と何やら意味不明な会話を大声でしながら、そのブリトーは運ばれて来た。給食のトレイにようやく収まるかどうかのそれは、小さな枕ほどの大きさでずっしりと重かった。やれやれ。タコスにしておけばよかった。

201806-312

 

Bonne journée, Cross Cultural

Quick Lunch (1)

201806-211(This article was written in Japanese)

数年ぶりにペンキを塗りかえたように妙にテカテカと床のコンクリートを反射するカウンターは、ファストフード店としては幾分背が高く、これといって装飾も注文のヒントにでもなるような写真も見当たらず、店員はただその向こうを右に左に忙しそうに動き回っていた。その店員と客を隔てるカウンターのこちら側で、遅い昼食を少しでも簡単に美味しく摂ろうと、文字ばかりのメニューを睨んでいたのだった。赤地に白のうわべだけポップな文字だけでは、それがどんなものなのか想像が難しい。
仕事での行き先と言えば洗練された都市部がほとんどだから海外出張で食事に困った経験はないが、どう注文したら食べたいものが手に入るかわからず、店員に聞くのは毎度のことである。これがスノッブなレストランなら、食材や調理方法もきっちり黒できめたムッシューが、時に恭しく時に気取って説明してくれるのだろうが、地元の金のないやつが時間を潰しに来るような店では期待できるはずもない。ちょっとおしゃれな値段高めの店であっても所詮はファストフード。手っ取り早く食事するのが目的だから、あまり多くは期待できない。うーんと悩んでいると「こんにちは」とひと言だけは言ってくれたが、大量に並んだ肉と味付けのリストを見ても想像がつかないことには変わらない。仕方なく聞く。
「そのサーモンは辛いの?」
愚問である。しっかりHOTと書いてあるのだか辛いに決まっている。知りたいのは「辛いサーモン」がどんなもので、どんな形で供されるかだ。バーガー屋(と言うかサンドウィッチ屋)なのだから、パンにレタスと辛い味付けのサーモンが挟まっているのだろう。辺りを見回せば近くにほとんど客はいない。唯一近くの席で遅い昼食をとっていると思しき赤いブラウスのスレンダーな女性の前には、どう見てもバンズなどのかけらもない巨大なサラダがあって、全部平らげる頃には夕食になりそうなほどゆっくりとそれをつついている。仕方ないのでボローニャソーセージよりは面白そうなその「辛いサーモン」を頼むことにした。
「で、どのパンにする?」
店員は足元の方を指で示す。気がつけばカウンター下のショーケースには4種類のパンがディスプレイされている。一瞥してブルーチーズを選んだものの、サーモンと合うのかどうかそもそも想像しようもない。
「ハーフサイズでいい?」
もちろん良い。巨大な事は分かっている。隣り合ったカナダはそうでもないのに、カリフォルニアのサイズはまともではない。ひょっとしたら逆に喰われるのではないかと不安になる。
結局はよくわからないままオーダーし、そうやってスリリングな最初の一口を楽しむのがいつもの習わしなのである。フランスあたりで言葉が通じないままタジンなど食べに行こうものなら、通じない会話を楽しみ、予想外の味にワクワクする以外にない。いくらか想像できるだけファストフードは気楽である。
さて、建物から出て(建物の中にあるのはカウンターと先程のサラダに取り掛かる人がいるカウンターだけだ)、外の馬鹿みたいに背の高いカウンターにようやくとまりながら、その怪しいサーモンを待つ。番号札は52番である。この際、何番でも良いのだが、ランダムに渡しているに違いない。見渡せば番号はバラバラである。屋根の代わりに波打ったプラスチックの板が据え付けられ、強烈な日差しが明るくカウンターを照らす。すぐ向こうには歩道と裏通りがあるが、カウンターとその道を隔てるのは透明な厚手のビニールだけである。天気が良いのだから仕切りなど要らなそうだが、その向こう側は寒流からの冷たい風が吹いている。カウンター席はTシャツでも寒くはないが、ビニールの囲いをはずして風が当たれば長袖シャツが欲しくなる。歩道にはみ出したその内とも外ともつかない空間は、大急ぎで遅い昼食をとって仕事に戻るには最適な空間であった。

201806-212

待つと言うほど待つこともなく、そのサンドウィッチはやってきた。予想通り、ハーフサイズでもいつもの日本サイズの倍はある。あとは味がまともである事を祈るばかりである。なにせ、昼休みなどとっくに終わって、できるだけ早く会議に戻らなければならないのである。食べやすい味だと有難い。ふと気付けば、一緒に食べに来たフィンランド人はハーフではなくレギュラーサイズである。こんな量を食べられるのかと聞きたくなったが、やめておく。食べられるのだ。人のことなど気にせず、真剣に食事に向き合うべき時が来たのだ。
そうは言っても心の準備と言うものがある。ひょっとすると巷では作法と呼んでいるかもしれない。先ずは、オマケのポテトチップを食して様子を伺うべきである。その間にさっと周囲を見渡す。かのフィンランド人は、すでに1/4を平らげつつあった。

201806-213

巨大なサンドウィッチを両手にとって、口をめいっぱい開き、後悔などないとばかりに辛いサーモンサンドに食らいついた。食いちぎられた手の中にサンドウィッチは、思いのほか小さくならず、口の中にはトロッとしたアボカドの風味が広がった。そこにはサーモンも何もない。もう一口。やがてチリの辛さとブルーチーズの刺激をアボカドが包みこむ中に、サーモンらしい味が加わって来た。スモークターキーにでもしておけば良かった。そう思うまではあっという間だったが、なかなか経験しない不思議な味も悪くはない。これを旅の醍醐味と言うか否かは人それぞれである。
さて、その不思議な味を半分まで楽しんだところで周囲を見渡せば、フィンランド人はとうにレギュラーサイズを平らげ、同僚は巨大なスムージーと戦っているところだった。どうやらとっとと食事を終えて会議に戻らざる得ない。そう観念すると、食事も不思議と捗った。日本人は食べるのが速いなど、だれが言ったのか。
そもそもフランス人がゆっくりと食べるなど単なる思い込みである。確かに星のつきそうなお洒落なオーベルジュで、大切な誰かと年に幾度もないディナーを楽しむなら別である。ランチだって良い。新しい仕事のパートナーと親交を深めるためにフルコースの食事をゆったりととりながら、アイデアを相談するのもあるだろう。だが、社員食堂でさっとお昼御飯を食べるだけなら時間はかけない。それどころか、家から持ってきたタッパー詰のパスタをさっとつついて食事は終わり。そそくさと車の屋根から自転車を下ろして走りに行ってしまうなど、食事に頓着しないようにすら見える。時と場合を使い分けているのだろう。
結果、フィンランド人とフランス人が巨大サンドウィッチを平らげ、Nokiaのケータイがどうのこうのと盛り上がっていた頃、自分はといえば、ようやく半分を超えてチリ風味のソースがHOTの意味だったのだと悟ったところだった。(続く)

最近はすっかり書くのを忘れていたcross cultural な話を、久しぶり書いたらすっかり長くなってしまったので、今回は前後編に分けることにした。来週もお付き合いいただければ幸いである。