Art, Bonne journée

Le génie

Le génie, c’est l’erreur dans le système.
天才とは、システムのエラーである。

Paul Klee
パウル・クレー

 ソフトウェア技術者が聞いたら勘違いして大喜びしそうなこの言葉は、残念なことにコンピュータとはまったく関係ない。パウル・クレーが亡くなったのは1940年の6月の事である。ソフトウェアの原型を作ったアラン・チューリングが若くして亡くなったのは1954年だから、関係ないと断言できる。ソフトウェアがシステムレベルとなるのはずっと後の事だ。
 この言葉がどんな文脈で発せられたのかは把握していない。原典にもあたれていない。だから本当にパウル・クレーの言葉かどうかも分からない。きっとあちこちに書いてあるからパウル・クレーの言葉なんだろうという程度である。だから誤解している可能性がある事を承知で書くが、ここでいう意味は日本語にはなかなか訳しにくい「系」なのだろうと思う。
 平たく言えば、「系」とは様々なものの組み合わせで出来ている仕組みのようなものだ。だから、社会そのものでもいいしスーパーマーケットの物流網を想像したって良い。その仕組みにエラーがあった時にそれを天才だと言っているのかなと思う。まずこれをやって、次にこれをやって、そうしたら誰かにその結果を渡して、なんていう手順と実際に行う仕組みは、物事をスムーズに行うための仕組みである。それがあるから失敗なく短時間で仕事が終えられる。それなのに、こんなことやめてこっちの方を先にやったら?などと一日がかりの仕事を30分で終えてしまうようなやつは、仕組みを壊すエラーであると同時に天才というものだ。
 そんな事を言っているのかどうか知らないが、あの他の誰にも引けないような線で天使を描いたパウル・クレーがどんなことを考えてこれを言ったのか興味深い。忘れっぽい天使は、誰に才能を与えたのかすら覚えていないのかも知れないが、その感性に満ちた才能とシステム・エラーは関連しているのだろう。

 Paul Kleeの日本語表記は、ほぼパウル・クレーに統一されているようですので、これに従いました。

Art, Bonne journée

Jazz


 クラシック音楽は歴史として記録されるアートである。ミケランジェロの彫刻がギリシャ芸術の復刻であろうと素晴らしく、ミケランジェロの彫刻の精巧なコピーがこの現代に飾られていても美しい事に変わりがないように、グレングールドの弾くAACで記録されたバッハのゴールドベルク変奏曲を通勤電車の喧騒の中で聴いたとしても、歴史に刻まれたアートは普遍の価値を持つ。

 ジャズはライフスタイルである。それがブルースやラグタイムに期限を持とうとその拡大期に大衆音楽として完成したものであろうと、ひとたび生活の場にその音楽が漏れ出せば、軽快で自由闊達な空気が周囲を包み込む。

 ポップスはエンターテイメントである。人は街角に今流れるポップスに時代の空気を感じながら、嫌なことも楽しいことも思い出す。そうやって咀嚼し切れない一日の出来事は昨日の記憶へと昇華する。エンターテイメントとして消費され続けるからこそポップスは記憶に刻み込まれる。

 ロックは生き様である。ロックが流れていようといまいと、自分のスタイルを貫けばロックは成立する。ただ、自分を貫くことは容易ではない。容易でないから生き様になるのだ。

 若い頃はロックに憧れたりもしたが、今はもうジャズばかりを聴いている。ラップには音楽を感じられないし、 K-POPもJ-POPも時に雑音にしか聞こえないことすらある。きっとそれは、歳をとってきたということなのだろう。自由が容易に得られるものではないと知り、日々の機微をいなす法を覚えた今、ジャズあたりが落ち着くということなのだとふと思ったのだった。

Art, Bonne journée

ブツバンテルン


ブツ
バン
バブンツ
ブバン
右の目尻を引っ掻くいかづちのカケラ。
茫茫たる摩天楼へとぶら下がるクモ。
有りもしない頭巾でゼンマイ仕掛けの頭を隠し、
気づきもしないエンジン音を遠ざける。
ザンザンと落ち続けるジュラ期の豪雨は
やがてブバンと鎮まりかえる。
ツブツン
ンテル
バブン
多忙だった昨日がガサつく午後と
自由とジョーシキの狭間に堕ちる後日と
強靭なジルコニア製の刃先が光る作業台と
バラバラに分解されたスケジュールとが、
自在に飛ぶ青光りしたチョウの飛ぶ伽藍の如く
何も変わらない今日を示す。
テルン
ブツバン
音を立てずに背後を走り抜ける猫。
見上げる先のいかづち。
バン

 万物流転(flux)はギリシャの哲学者ヘラクレイトス(Ἡράκλειτος)の唱えた概念らしいが、大雑把に見ればどこにでもある普遍的な見方で、仏教では諸行無常と言われる概念にも似ていないこともない。何事も絶えず変わり続けるものであり、同じように見えても、今見ているものは、つい先ほどに見たそれとは同じではない。ヘラクレイトス流に言えば、
「人は同じ川に2度と入ることはできない。川には常に違う水が流れている。」
という事になる。その言葉を知ってか知らずか、鴨長明は方丈記でこう書き出す。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」
直訳みたいなものである。
 毎日が目まぐるしく変わり続けたらとても人は生きていけない。雷が鳴る日があっても、仕事が回らず苦労する日が来ても、日常は何も変わらず過ぎていく。それでもその変わらない日常は、今を生きる人々にそれぞれにとって同じものではない。
アメリカの作家ウィラ・キャザー(Willa Cather)の言葉をたびたび取り上げているが、再度ここに掲げたい。
「人のある物語はたった2つか3つしかない。そしてその物語は何度も繰り返されるのだ。かつて経験したことのないかのような激しさで。」

 今回のブツバンテルンでは、ネコトコトリで試した手法を久しぶりに使ってみた。もし読みにくいと感じられたら試みは成功したのだが、どうだろう。
 おまけでちょっとひとこと。Grandfather’s old axeという言い方がある。年季の入ったおじいちゃんの斧なのだが、刃は3回、柄は2回交換している。としたら、それは本物のおじいちゃんの斧と言えるのか?木造の建造物を絶えず直しながら使い続けるのは、歴史なのかレプリカなのか?万物流転は古典でありながらちょっと難しい。

Art, Bonne journée, Cross Cultural

柿の実


 柿の実がボツリと落ちた。テカテカと光アスファルトに咽せたように、その小さな独り言が溶け落ちた。夏空の隅々まで覆い尽くす蝉がいっそう大きく騒いでいた盛夏の午後。
 足元に打ち付けられた緑色の柿の実は転がることもなく、焼けるような日差しには似つかわしくない瑞々しい内臓を曝け出して無言のままそこにいた。日差しはますます休む事なくアスファルトを照らし、何も覆うもののない首筋に突き刺さった。重く澱んだ盛夏の午後。
 踏みつけた小さな何かが薄茶色のため息を吐いても、それに気付かなかったふりをして引き攣った次の足を前に押し出す。そこに入れた事すらも忘れていたスマートフォンのバイブレーションが、汗が染み込んだ右の背中を振るわせ、半分開いた唇の渇きが、左の首筋を押さえつける。もうひとつ、青い柿の実が落ちた。

 本当に「記録的」な暑さだなと思っていたら、7月の記録としては更新していて、年間の記録更新も間違いないとのこと。本当に涼しい日は来るのだろうか。熱中症で倒れた経験から言うと、水分は「喉が渇く前に飲む」が原則。自分で気付かないうちに急に倒れます。お気をつけ下さい。

Art, Bonne journée

波打つ昨日

実直にまっすぐ張られた架線と
波打つスレート屋根との隙間を
ゆったりと流れる雲と雲の間に、
冷たく銀色に冷えた夕暮れ時の月を見つけ、
雨と曇りの合間に忘れられた晴れを思い出した。
もうまもなく
地球上のどこかの水平線か
そんな捉えようもない何かに沈む太陽は、
薄汚れた雲の積み重なる向こう側に
おそらく、
たぶん、
きっと、
あるはずだった。
耳たぶのような
冷たく柔らかな刃物で
何時間も切り刻まれた初夏が、
紫陽花の上に逃げ出した羽虫のように転がった。
湿った腋の下に緑色の傘を抱え、
乾いた喉の上に赤茶色のコーヒーを流し込む
帰宅途上の色のない難民は、
次の通勤電車にまとわりつく風に、
誰もが思い出そうとしない昨日。