Art, Bonne journée, Cross Cultural

文学と絵画とブルターニュ

 アンリ・モレの「ブルターニュの断崖」やポール・ゴーガンの「二人のブルトン人」を見たかったら、地の果てなどと揶揄されるブルターニュの西の隅まで出向かなければならない。所蔵するポン・タヴェン美術館は、パリからは相当遠い場所にある。だからフランスの西の果てと言われるくらいは仕方ない。だが地の果ては少々言い過ぎだろうと思う。TGVでブレストまで行ってレンタカーで南下してもいいし、そもそもバカンスを過ごすような場所なのだから、遠くからでも時間をかけて辿り着けばよいのだ。もっとも、ゴーガンのポンタヴェン派としての代表作である「美しきアンジュール」も「黄色いキリストのある自画像」もそこにはない。あるのはオルセー美術館だから、わざわざ行くまでもないと言われればそれまでではある。
 でも、行かなければわからないこともある。川のせせらぎ(下の写真)も、どこまでも透明な海も、行って体感しなければわからないように、アンリ・モレの描き出す色とりどりのブルターニュの断崖は、パリにはない。
 もっとも「黄色いキリストのある自画像」ですら日本にいては見られない。スマホで見ても大きさも色もタッチも違うから、分かるのは知識としてのゴーガンでしかない。
 それでも絵はまだ良いほうかもしれない。どんなにお金を出そうが、どんなに時間をかけようが、もはやショパンが弾くピアノは確かめようがない。ワグナーが恭しく指揮をとるワルキューレが聞こえる事もない。ひょっとしたらそれよりもずっと出来が良いオーケストラで、ずっと洗練された指揮の下、当時以上の再現演奏を聴くことが出来ているのかもしれない事が救いではあるが、絵とは違ってオリジナルはもうないのだ。
 その点、文学はありがたい。書き手が意図したそのままをいつでも手に出来ている可能性が高い。小さな誤りが訂正されていたり仮名遣いが現代表示に訂正されていたりすることもあるかも知れないが、模写やコピーとは違って劣化しないのだ。それがたとえkindleであろうが、そこで読む宮沢賢治は宮沢賢治そのものだ。
 いや翻訳ものはどうするんだとか、絵なら世界共通だとか、そんな指摘はあるだろうが、それはそれ、大目に見ていただきたい。文学の普遍的なアドバンテージはその劣化のない作品を手にすることの喜びなのである。
 ありがたいことにブルターニュ大公城にあるターナーの「ナント」は、まもなく国立西洋美術館で見られるらしい。3/18から始まる「憧憬の地ブルターニュ」という企画展のリストに確かにあった。熱烈なラグビーファンでターナー好きの方には残念だが、日本戦を応援に行ったついでにターナーの「ナント」は見られないのかもしれない。いや、その頃にはブルターニュ大公城の美術館に戻っているのか?

 トップの絵は「ダイヤのエースを持ついかさま師」などで知られるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの代表作のひとつ「聖誕」。
 地元の人はこれくらいしかいい絵がないと言って残念がるが、これを見るために行く人もいるレンヌ美術館所蔵品。他にも佳作がたくさん。

アヴァン川のせせらぎ

2 thoughts on “文学と絵画とブルターニュ”

  1. 音楽と絵画と文学の違いに「あっ、そのとおりだ」と感心しました!
    絵画に関しては、その作品の前に立って初めて感じるものがありますね。生きもののようです。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのこの一枚の前と対面されたなんて、羨ましいです。tagnouesさんはアートにもお詳しいのですね!

    1. 絵が好きなんです。詳しい訳でもなく、せっかく展覧会に行ってもあとで調べないとわからない事も多くて、後から感心してたりします。でも、好きだから出先の美術館に行ったりします。バンクーバー美術館もEmily Carrを見に行きましたよ〜。

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