Tonight it the night of the named full moon of autumn in Japan.
雲の切れ間から名月
capturing in prose
Nature on our planet is always changing. It shows us its another face everyday. Yesterday’s green leaves are now flaming red. Even so, the nature is still same as before.
Art in our social world is always drifting. It gives us its new face everyday. What will remain tomorrow?

In response to the weekly photo challenge, Change by The Daily Post.
This article was written only in Japanese.
沈みゆく一瞬の輝きでしか見えないものがある。傾いた陽が、やがて勢いを忘れブラッドオレンジの絵の具のようになる頃、その柔らかな光の影でしか見えてこない形がある。大抵は、そうした影がようやく見えた頃には、もはや後戻りできない夜が目前にある。輝いだ喧噪も午後の無為な時間も同じように覆い尽くす夜である。夕暮れの光のなかに知っていたはずのシルエットを見て、あたかも初めてそれに気づいたと感じたとしても、そのシルエットを為すそれは以前から間違いなくそこにあったのだ。ただ、日々の忙しさの中に忘れ、無意識に記憶から追い出し、夕暮れの時間になって初めて思い出した。それだけのことなのだ。そうやって気づいた影は、間も無く漆黒に沈んでいく。秋の夕暮れである。
一日を振り返るとか、思い出にひたるとか、あるいは、過去にふと気づくというのは、存外容易なことに違いない。映画や小説で見るフラッシュバックは、そうした容易さがあるから受け入れやすいのだろう。その容易さがゆえに切ない。そういうものである。
とりたてて触れるべき事はない。世界的に知られた英国作家の代表作のひとつである。何が起きるわけでもない。なんども読み返すような深い描写が繰り返されるわけでもない。ある人に会いに旅立つ。ただそんな話である。英国の斜陽と簡単に片付けることもできなくはないが、それ以前にひとの日常と傾きかけた陽の光が周囲を覆う。ただ、最後の1行まで読み切らなければわからない。それだけのことである。
最近読んだ本
日の名残り (ハヤカワepi文庫)
Kazuo Ishiguro 著、土屋 政雄 訳
雨月の本来の意味は、中秋の名月が雨で見られないことであるという。だから秋の季語である。
本来なら見えない月を想像することはあっても、それを楽しむことは現代的感覚からすれば少し考えにくい。雨で月が見えなかったで終わりである。しかし雨月には単なる雨の月見とは違った意味がある。夕刻の雨。かすかな湿気の甘い匂いと少しひんやりとした静けさ。雨ももうほとんど止んで、僅かに雲の濃淡が見える空。暗いながらもほんのりと明るい地面。現実の風景と闇の境目が合間になる空間。すぐそこにあるようで遠い虫の声。月が見えなかったことで見えてくる影がある。どこか自分の奥底に隠れる何かが動き出すのだろう。それが雨月である。
散文で何かを書き止めようとするとき、いつも気になるのはそんな雨月の感覚だ。自分の両の眼で見ている筈の景色が、しばらくして本当にそこにあるのかどうか危ういように感じ始める瞬間をどうにかとらえたいと思うが、それはなかなか叶わない。淡い言葉を重ねればそれは既に自分の手を離れて空を漂い、濃密な言葉をひとつ探せば果たして重力に耐えられなくなる。微かに遠く響く湿り気だけが周囲に残って、キーボードの上に指は居場所を探しておろおろとするだけだ。
それでもそれはある。雨月の夕暮れがある。
来週は中秋の名月。