Bonne journée, Photo

エア花見 Virtual Cherry-Viewing

201704-111

written only in Japanese

明るい茶色に染められた革のバッグをこの2年ほどほぼ毎日使い続けている。柔らかく軽いバングラデシュ製のそれには、小さな引っかき傷とベルトと擦れたタンニンの染みがあちこちについて、思いのほかあっという間に過ぎた時間を刻んでいる。何年経っても変わらなく輝くものもあれば、傷つき変わることで美しくなるものもある。その意味では、2年はほんのわずかな時間でしかない。
先日、原発再稼働のニュースを見ながら、不思議と時計が凍りついたような実感のない時の流れを感じて、ひどく落ち着かない感覚を覚えた。もちろん個々の主義や考えがあって、それが個人的な感覚にもつながっているのだろう。だが、それ以上にウィラ・キャザー(Willa Cather)の言う残酷な繰り返しに、無為な時を思ったと言うべきか。続く残念な雪崩のニュースにはただひたすら言葉を失う。そして思い出す。カナダでのビーコンの訓練と「役に立たないけどね」と言うひとことを。
時間が過ぎ去る時、辛い記憶は残酷さを増し、楽しい記憶はより輝くものである。であれば、できるだけ楽しく美しい思い出を多く作る努力をしたほうが良い。何も、わざわざ辛い記憶を残す必要はない。せっかくの春なのだから、花見でもして楽しく過ごしたい。
そんな理由かどうかは知らないが、このところは「エア花見」だそうである。「だそうである」と違う世界に分類した段階ですでに時間軸が違っているが、こちらも落ち着かない感覚と言う点では原発再稼働のニュース並みである。花より団子は自然な話だが、花はもはや仮想で良いのだ。仮想なら木枯らしが吹く頃に春の気分を味わうのだって良い。花見という極めて日本的な習慣と世界が誤解するロボットの国ニッポンが重畳されるあたりに価値を見出すべきなのか。少し不快さを感じなくもない。
そんなことをつらつらと考えているうちに、ふと気がついた。要は、飲む理由があればよいのだと。咲いてないから花見は来週だとか、今日は寒すぎるとか、混んでて場所取りが大変だとか、そんな理由で桜に合わせてスケジュールを調整するほど現代人は暇ではない。だったら昔から「日本全国酒飲み音頭」だろうがなんだろうが、理由を探すのは得意ではないか。正論はここではなかなか立場がない。

201704-112