Books, Cross Cultural

A Book: 知らざあ言って聞かせやしょう

201603-211This article was written only in Japanese.

いつものディナーへの道すがら、季節の話題に尽きる頃、誰ともなく持ち出す異文化の理解しがたい体験談。またもその手の話かといづれ誰もが認めているが、それも相手を思い遣る社会の潤滑剤の一部だと、否定できない遠い海風。もともと知ってはいる事すらも「あぁそうなんだ」と頷く仕草。
親しい知人との夕食ならまだしも、仕事の付き合いの食事となれば何かしら会話を楽しむことも礼儀のひとつ。まして生まれ育った国が違うとなれば、互いに響く共通の深い理解も僅かばかりに、表面的な文化の違いに話題が向かう事は避けがたい。しかして真剣な眼差しで質問されて答えに窮するは伝統の保存状況。正月や御盆のように脈々と続く伝統もあるが、それ以外となると案外縁遠い。保存会に参加して今はダンスの稽古中などと言われれば、どうにか答えを探し出し、早々に次の話題に移るしかない。

実際のところ、仕事で一緒させてもらっているフランス人から、小さな子供が伝統楽器を習い始めたとか聞かされると、特段伝統など意識せずに過ごしていることに若干の後ろめたさを感じなくもない。「日本でもそういったことしてるでしょう。どんなのがあるの?」と質問されても答えられない。しばらく前にも三味線の曲を聞かされて、「有名なんでしょ。いいよね。」と同意を求められたが、とんと思い出せなかった。歌舞伎は知られているから質問される可能性が高いが、数時間見るなどという経験はなかなかない。伝統とはなかなかに悩ましいものである。

日本育ちならどこかで聞いた歌舞伎の台詞が簡単な解説と共に多数収録されている。ひとつひとつが短い文章だから全体の様子は分からないものの、気軽に有名なところだけをつまみ食いできるのが嬉しい。歌舞伎ファンには物足りないのかも知れないが、少なくともほとんど歌舞伎を見たことがないなら十分である。勿論、例えば「曽我もの」が何かを知っているかどうかで読みやすさは違ってくるだろうが、知らずとも問題ない。解説を読みながら頷く回数がほんの少し違うだけだろう。読みながら、人前で思わず見得を切るのだけは注意したほうが良い。
ところで、いつものように前半は、インスピレーションからの自分なりの返歌としているつもりである。理解していただければ幸いだが、はて。

最近読んだ本

知らざあ言って聞かせやしょう―心に響く歌舞伎の名せりふ (新潮新書)
赤坂 治績 著

Bonne journée, Cross Cultural

街の本屋

201603-111Written only in Japanese

近くのスーパーで思いがけずカセットテープが売られているのを発見した。透明な矩型のプラスチックに封じ込められた磁気テープのリールが、パッケージの隙間から覗いていた。シーケンシャル・アクセスしかできない不便なそれは、デジタル化の中で急速に姿を消したものの、それでも一定の需要があって今でも売られていることは理解していた。だが実際にそれを見ると、正直どこかで不思議な感覚を覚えた。理解することと現実にはギャップがあるということだろう。
同じような感覚を時々街の本屋で感じることがある。住む街や仕事で向かう街の商店街で見かけた小さな書店は、直ぐに売れ筋の本を手にする場であると同時に、新たな発見をする場でもあった。もちろん、今でもそういった側面はある。それどころか、ここ数年すっかり定着した手書きのPOPは楽しみでもある。一方で、買う事を決めた本を買うだけなら、間違いなく大型書店を訪ねるかオンラインで注文する。発売から少し時間が経てば、小さな街の本屋で探す事は難しい。頭では理解しているのだ。どうせ見つからないからオンラインで注文し、そうやってオンラインで買うから街の本屋は少なくなる。結局、以前からの書店で出会う楽しみは、わざわざ大型書店に出向くレジャーのようになって足は遠退くのだと。それでもこうも思う。街の小さな本屋が少なくなって不便だなと。人間とはそんなものなのだろう。
そのうち街の小さな公園までがそうなりはしないかと、少し不安を感じなくもない。

 

Cross Cultural, Photo, photo challenge

お召し上がり方

201601-411

「裏面のお召しあがり方をよくお読みください。」
そんな風に確かに書いてあった。電子レンジで簡単に調理できる食品である。それが実際のところ調理なのかどうなのかはこの際問題ではない。「使用上の注意をよく読んでお使いください。」そう言うことだ。「ドアが閉まります。ご注意下さい。」などとアナウンスされる電車ともあまり違いはない。
「まぁ、分かってるとは思うけど、間違って使ったとしても責任はとらないからね。」
そう言っているだけなのだ。

その暗黙の了解のようなものが、時々あやしくなってくる事がある。率直に言えば、その言い回しに違和感を感じる事が多い。

お召しあがり方とはもちろん食べ方を丁寧に言っただけだろう。食品の提供者が消費者に尊敬をもって食べ方を読んでほしいと丁寧に依頼しているわけである。お客様に対する敬意は日本的な美徳と言う話もあるし、伝統だと言う人さえいる。間違っているわけではない。だが、少し前の報道写真などを見ていると、以前はもう少しぶっきらぼうな言い方が普通だったのではないか。確固とした調査分析があるわけではないが、そんな気がするのである。
先日、取り壊し中の家の前を通ったら、敷地の周りにぐるっと黄色いテープが張られ、そこには「立ち入り禁止 KEEP OUT」と書かれていた。強い警告である。これが丁寧かつ尊敬をもって周囲の歩行者に言う表現ならば「お立ち入りになられませぬようお願い申し上げます Would you please keep out」くらいに妙な表現になるのだろうが、もちろん危険に対する警告としても成り立たない。冒頭の「裏面のお召しあがり方をよくお読みください。」に感じる違和感は、実は似たところに根源があるような気がしている。
「調理方法は箱の裏面に書いてあります。」
という程度の丁寧語では不充分なのだろうかとどこかで感じるのである。これに「食べ方くらいほっといてくれ」と言うのはさすがに捻くれているだろうが。

さて、最初の立て看板である。こちらは、尊敬語も丁寧語も超越したどこかに行き場を失っているようだ。誰も立ち入らない雑草が生えるにまかされたこの空き地に何があったというのか。

Also my second contribution to the WPC.
Though, exactly saying, words on the sign board in the picture are not Alphabets. Taking it in a broad sense, it’s not even a phonogram.