Bonne journée, Cross Cultural

チャッピー


 チャッピー、賢い

 大学入学共通テストを97%正解率だったとか。このレベルなら、東大生のバイトよりAIのほうが良いかも。記事では3%間違うという認識を持つことが重要と書いているけれど、素直に言って、チャッピーがいれば若者は要らんと読めないこともない。

 ようやく認識はされるようになったが、AIなんて間違いだらけで、幻覚見てることも少なくない。ハルシネーションなんて格好よく言うが、hallucinationであって、薬でハッピーになった東大生みたいなものだ。未だに仕事の会話でAIに任せっぱなしという事例が出てきたり、AIが分析しているんだからそれで行こうなんて会話があったりもするが、結果を疑うべきだという認識がだいぶ共有されてきた。そもそも仕組み的に、入力した以上のことはできないのだ。

 ただ、裏を返せば、学習したことなら大抵はできるはずなのだ。何しろ最近流行りのAIは、トランスフォーマーと呼ばれるブレークスルー技術があって生まれてきたもので、誤解を恐れず言えば、穴埋め問題を解きまくったら、覚えたパターンで文章を作れるようになったという程度の代物だ。もちろん画期的なアイデアなのだが、じっと考えたら今までは思いもしなかった大発明が生まれるという類のものではない。やれと言われた事を極めて広い知識でこなすスーパーアルバイトみたいなものなのだ。

 つまり、出来の良いアルバイトという程度ならチャッピーでも良い場合がある。97%の正答率なら十分ではないか。

 優秀なアルバイトだって間違いは起こす。3%のミスを過信してしまうのは使いこなす側の問題でしかない。機械なら間違わないと考える奇妙な迷信さえ克服できれば大丈夫。

 さてさて、ここまで書いて、読者の多くはすでに興味を失い、一部は書いてある事を不快に感じているのだろう。そう分かって書いている。本題はここからだ。その本題のためにここまで書いてきた。
 次の問題を考えたい。

「真実は常に人を納得させるものだろうか?」
 La vérité est-elle toujours convaincante?

 昨年のバカロレアの問題である。もちろん正解はない。心理学的に認知バイアスに触れても良いだろうし、歴史を取り上げることもできるだろう。

 AIにこれを問えば、間違いなくさまざまな知見を例示して説明してくれる。だが、正解があるわけではないとしたら、そのAIの回答はどう評価したら良いだろう。
 なるべく広い知見を網羅したか?
 個人の考えに従って説得力のある論旨を展開したか?
 歴史に学び将来を語ったか?
どれが正解という解はない。解がないなら回答を評価する軸はどこにあるのか?

 答えがない時、人の力量は試される。文脈を捉え、相手を想い、より良い答えを導くことは容易くはない。

 あっ!バナーの写真と本文は無関係であることは言うまでもない。

Bonne journée

とび


 神奈川には案外トビ(とんび、鳶)が多い。特に三浦半島から相模川にかけての地域には多数のトビがいて、神奈川県が注意喚起している。日本で最も身近な猛禽類と言われるトビが、特段危険な鳥であるということではない。もちろん猛禽類なのだから嘴も爪も鋭いし、なかなか大きさもある。翼が当たれば怪我もするだろうし、危険がないというわけでもない。でも、意外に臆病なところもあって、縄張り争いではカラスに負けてしまうこともある。

 注意喚起されているのは、食べ物を奪われて怪我をする可能性があるかららしい。確かに、湘南の海でサンドウィッチを奪われたとか、海の家で買ったばかりのたこ焼きを地面に落とされたとか、なかなか色々聞かされる。頭上高く「ピー ヒョロロロロー」なんて聞こえていたら、食料は隠しておいた方が安全だろう。

 そんなことを言い出したらカラスだって危険だ。トビだけが危険なわけではない。その昔、前から歩いてきた高校生が、手に持っていた菓子パンを後ろからきたカラスに奪われたのをなかなかの迫力で目撃したことがある。まあ、ともかく、なかなかの大きさのあるトビは、当たれば怪我をするレベルであることは間違いない。

 湘南の海が垢抜けた都会の海だとは言っても、周囲には自然も多い。相模湾は豊かで、三浦半島にも鎌倉や逗子にも森は多い。すっかり当たり前になった台湾リスが駆け抜ける。トビだって居そうではある。だが、実は横浜港にもトビはいる。

 写真のトビは大型船が停泊する大桟橋近くで餌を狙っていた。ネズミくらいいるのだろうが、狙いは観光客の撒く餌やポテトだったりするのだろう。湘南のトビと違うのは、すっかり人慣れしていて、手の届きそうな場所をホバリングしているあたりである。近くでホバリングするトビはなかなかの拍力である。迫力はあるが、気の弱いのは変わらない。カモメやハトの餌を奪うのはなかなか叶わない。

 そうした意味では、人間は案外弱いカモなのかも知れない。少なくとも餌を奪い易そうである。しかも、トビを侮ってはいけない。視力は7.0相当だそうだ。10メートルの上空からスマホの文字だって読めそうだ。まあ、トビの視力をどうやって測ったんだという疑問もあるので、あまり数字を気にしても仕方ないのかもしれないが、ともかく視力は良い。かなりの上空からアホな人間を見つけて急降下なんて、日常生活の一部なのだろう。まんまと高校生あたりから手に持っていた食料をまきあげて、奪って行くなど朝飯前なのだ。たとえそれが好みでもないクレープであってもである。
「なんだよ、ストロベリー・クレープかよ。もっとまともなもの食え。」
なんて思っているかどうかは分からない。

Bonne journée

四季桜(shiki-cherry)


Shiki-zakura, literally ‘four-seasons’ cherry blossom in Japanese, is always blooming from October to May, but not in summer at least around Tokyo. It should be too hot. Perhaps, it may bloom in summer in northern Europe. When we say cherry blossom, it blooms at the end of March typically and it is about well-knows ‘Somei-yoshino’ cherry blossom. Everybody is looking forward to seeing it. However my favorite is rather those ‘shiki-zakura’ type of blossoms because it brings a sort of calmness and gentleness.

 四季桜は、文字通り「四季」の桜で、10月から5月まで咲き続けますが、少なくとも東京周辺では夏には咲きません。暑すぎるのでしょう。もしかしたら、北部ヨーロッパでは夏にも咲くのかもしれません。桜といえば、言わずと知れた「ソメイヨシノ」のことを指しますが、むしろ「四季桜」のような花が好みです。穏やかで優しい佇まいではありませんか。

Bonne journée

A light-filled afternoon


It was a bright afternoon, and the gentle spring breeze was still cold, but the warmth of the light, which had gotten a little stronger, was a welcome relief. The thing that was most comforting about returning to Japan from France was the winter sunshine. Weekends in Brittany were not bad at all, as I was constantly worried about rain falling from overcast skies, but I had completely forgotten how warm the sunshine could be. But sometimes I feel nostalgic, remembering the beautiful contrast between the sudden hailstorm and the bright blue sky.

Bonne journée

喰らうということ


 ひとには欲というものがあって、その重要なもののひとつが食するという行為である。それは時には楽しい会話と共に供された食事を楽しむということもあれば、命を繋ぐためにエネルギーを得るということもある。そうした食事をどういう訳か卑しく感じることもないわけではない。時に食べかけのテーブルを見ていると、時々その乱雑さに後ろめたさを感じたりもする。

 きっとそれは、その食するという行為が欲に発するものであって、その欲に対する卑しさをどこかで感じているからであるに違いない。その真偽はわからないが、少なくともそう感じたのである。何らかの食物を喰らうという行為は、貪欲さを曝け出すようで、気恥ずかしいところがあるからなのだろう。

 眠気を感じて寝たいという欲求は、あまり恥ずかしさを感じるものでもない。それが何故か、食事をするとなると、わずかに妙な感覚を伴うことがある。食事は敵に狙われやすい危険な行為だから隠れてするといった解説を見たこともあるが、それと関連するものかどうかはわからない。性欲も危険を伴うから隠れてするもので、そこに欲求と行為のバランスがあるのだという解説を読んだが、分かったようで卑しさとの関係ははっきりしない。

 上の写真は、実は病院食である。少し高級なフランスの病院で、健康な人向けに出した食事だから、病院食にしてはなかなか豪勢ではある。しかも、少したべた後で撮ったので、もうひと品かふた品が皿にのっていたと記憶している。フランスの流儀に従って、ちゃんとデザートもあるし、食事を終えてのんびりしていたらコーヒーのおかわりはどうかと聞かれたくらいだから、病院食というには特殊かもしれない。

 もしかしたら、これがもっと質素だったら食することに欲を感じなかったのかもしれない。検査のために空腹で過ごした午後のひと時の後で、食べかけの皿を見ながら、案外美味しいじゃないかと写真を撮る行為に気恥ずかしさを感じたのかもしれない。ただ、そう思った瞬間から、健康な食事をするという少し前向きな行為が、どこかで遅い昼飯を喰らう気分になったのは間違いない。

 ちなみに、まったく別な場所でまったく別な理由でフランスの病院食を食べたことがあるが、それは昼食ではなく、昼食抜きで簡単な手術をした後で、薬を飲むために供されたものだった。量も少なかったし、乳製品主体の簡素なものだったから、こちらは食事の卑しさみたいな感覚は一切なかった。思っていたのは、「腹減った」だけである。