
Temporary Closed. I will be back on Monday, probably.
今週の週末投稿は、臨時休業です。
capturing in prose

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今週の週末投稿は、臨時休業です。

たまには技術の話でも。
自動車産業や機械産業の世界で働いていれば、「機能安全」なる堅苦しい言葉を必ず知っている。英語だとfunctional safety。不思議な事に、この世界中で広く知られた概念は、一部の産業の関係者でしか語られない。おそらく、いや間違いなく、ここにその説明を書いたら、数行も読まれずにこの記事は閉じられる。それほど退屈な内容だ。
その日はドイツの老舗企業と映像の話をしていた。自分は映像系の技術者だったのだ。そのうち、相手企業の技術者が機能安全の話をし始めた。いや、ちょっと待ってくれ。知識としては知っているが、真剣に勉強したこともない。そう言う私に彼は事もなげに繰り返す。
「いや、簡単な話だよ。危ないと分かったら、危険のないように機械を止める。それだけの話だ。今時、機能安全が実装されてなければ売る事も出来ない。」
まあ、知ってはいる。だが、仕事として取り扱ったことなどなかった。なにしろ、あんたの仕事は人が死なないからいいよな、なんて知人から言われるような仕事である。
「自動車は凶器になり得るだろ。食料品だって管理を怠れば人を死に至らしめかねない。街の電気屋さんだって漏電でも起こせば火事になるかも知れない。なのにお前の仕事は、鈍器にすらならない。」
まあ、ある程度親しい知人だから言う冗談なのだが、機能安全とは程遠い仕事だったのは間違いない。
昼食は、相手企業のご好意で、社員食堂で一般社員と同じ食事をとらせてもらった。
「早めの昼食ですみません。この後は混んじゃうので、この時間が良いかなと思います。今なら、品切れもありません。」
ドイツらしく時間に正確で、至れり尽くせりである。どのソーセージでも選び放題。選択肢が全部ソーセージじゃないかというモヤモヤは残ったが、想像以上に美味しいので問題ない。わけも分からず危険なものを取ってしまわないあたりが、本質安全である(すみません、分かる人には分かる冗談です)。
さて、ドイツからフランスに帰ってきて半年後、フランスの通信会社が運営する社員食堂で昼食をとっていた。時間は午後1時半を回っている。さすがに時間にルーズなフランスである。すっかりフランス時間で動く事に慣れてしまっていて、そんな時間が当たり前になっていた。
フランスだから食事が美味しいとは限らない。懐かしのソフト麺よりブヨブヨのパスタだったり、七面鳥の巨大肉と山盛りグリーンピース(だけ)の組み合わせだったり、およそ健康的ではない。そんな食事をしながら会話を楽しんでいたら非常ベルがなった。けたたましいベル音が響き渡る。あのルーズなフランス人が一斉に立ち上がり、非常ドアから整然と外に出た。荷物も食事も置きっぱなし。やる時はやるんだなとしばし感心した。
結局、非常ベルは誤報だった。老朽化したシステムで何か起きたらしいがよく分からない。後で聞いたら、原因究明中にシステムが非常設備の基準を満たしていない事が分かったので修繕すると言う。発覚して良かったと思うべきなのか、今まで知らずに使っていた事に呆れるべきなのか、はたまた誤報の原因が分からない事に不安を感じるべきなのか。まあ、機能安全とかいう以前の問題ではある。
機能安全って何か気になり始めた?それは結構。
よく例題で取り上げられるのは踏切である。立体交差にして絶対にぶつからないようにするのが本質安全。ぶつかりようがないのだから、本質的に安全というわけだ。一方、電車が通る時に踏切を遮断して車が通れなくするのが機能安全だ。機能と訳しているが、仕組みとして安全にしているのであって、本質的に絶対安全なわけではない。もっと言うと、雪の日にはスリップして踏切で止まれないかもしれないから、この機能安全は雪の日には機能しませんなんて定義をする。なかなかややこしい。でも、こんなややこしい定義を重ねて安全は強化されている。
さて、ドイツでのややこしい会話の後で、フランクフルト国際空港に向かって車を走らせていた。春は大雨の季節で、よく洪水も起きる。その日も大雨だった。そんな時に重要なのは機能安全である。さすがドイツ車、びくともしない。だが、激しい雨で前が見えないから80〜90キロで走っていた狭い道を馬鹿みたいに速い車が次々と追い越してゆく。いくら安定した素晴らしい車だって、機能安全がしっかりしていたって、人間が無謀ならダメだろ。そんな会話を同僚としながら、早く空港に辿り着きたいと思ったのだった。

オンライン上での知人が、写真が好きだがカメラという道具にもわくわくすると書いているのを見て、少し羨ましくなった。もう、カメラを道具として見ることが出来なくなっている自分に気づいたからだ。
カメラ開発に直接関わってきたわけではないが、開発者と会話をする機会は多かった。困っている事を聞き、その対処を一緒に考える事も少なからずあった。そんな開発の現場にはたくさんの夢があったが、それは技術開発の夢であって、カメラを道具として見ていたわけではなかった。それが正直なところだ。
誤解があるといけないから書き添えておくが、カメラに関わる仕事をしている誰もがカメラという道具に夢を見なくなっていたわけではない。こんなカメラが欲しいといった話も聞いたし、カメラを片っ端から買ってたくさん持っている人もいた。ただ、それは自分が関わる技術開発の現場からは遠い場所の話だった。車だったら世界一速いスポーツカーが欲しいとか、どこでも走れる世界一ラギッドなSUVが欲しいとか、そんな事はもう思わなくなって、適切な価格で1リットルあたり30キロ走るエンジンを作らなければならないというのが目標だったというのがわかり易いだろうか。
自然と道具としてのカメラには興味もなくなり、iPhoneで撮った写真を見ながら、もうこれでいいねなんて思うようになったのだ。トドメの一撃はよく覚えている。
「何十万円ものお金を出してるのに、バカ高いレンズがないと撮れないカメラなんでしょ。」
と言うのを聞いた時だった。
「しかも、SNSにもアップ出来ないなんて…。」
昔は写真を撮ったらプリントして飾ったりしていた。24枚しか撮れないフィルムだから、自分の撮りたいものは何かを考え、じっくり狙ってシャッターを切った。その大切な表現のために使う道具だった。デジタルに移行してしばらくは、メモリーカードも高かったから、少しだけ似た文化も残ったのも確かだ。
でも、今はいくらでも撮れるし、撮り直しも効く。額に入れて飾ったりしないから、印刷する事よりSNSにアップできる事の優先度が高くなった。つまりは、馬鹿みたいに高いお金を出してカメラを買うなら、スマホの方が便利で綺麗に撮れると考えるのは、自然な事なのだ。
そうなると、自然と道具としてのカメラに要求されるものは違ってくる。便利にお手軽に撮れるものか、やり直しの効かない業務用か。美しいデザインよりも、使いやすいかどうか。それに向かって技術開発は進む。そこに夢なんてない。
道具というものは、便利でお手軽なものが求められるようになると、急激に廃れてゆく。もっと正確に言えば、日常の当たり前になる(コモディティ化なんてかっこよく言う)。だから、安くて必要な機能が満たされればそれで十分と見做されるようになる。連絡をしたり、調べ物をしたり、SNSを見たりする機能にカメラ機能がついていて、そこそこ美しく(コントラストが高めで)撮れれば良いと思うようになるのだ。
もちろん、一部のユーザは、道具としてのカメラそのものに価値を見出したりもする。
「このカメラは暗所でもノイズが少なくて、ISO感度12800でも実用になるんだよ。しかも秒20コマ。」
正直、意味が分からない人も多い会話だったりするが、これが重要な人も少なからずいる。
「このアルミのローレット加工が綺麗だよね。フィルム時代と同じ。」
こちらも多くの人には意味不明かもしれない。
スマホには難しかった暗所性能も、画像処理高度化で、カジュアルな撮影に使う分にはなんとかなるレベルにはなってきたが、カメラそのものに価値を見出す人にとっては、さして意味がない。
書き出したら際限がないが、要は、カメラというものが持つ技術的な課題をひとつひとつ解決して、より良くすることを積み重ねてきたことで、カメラは旧来からのカメラではなく、カメラ機能そのものに変わってきたのだし、カメラという機械は工業製品ではなく、それ自体がコンテンツになってきたのだ。
個人的なことを言えば、その変遷に関わってきた自分には、カメラ機能はスマホで十分に満たされているし、カメラというコンテンツには興味を失くしてしまっている。せいぜい、iPhoneには望遠用レンズは必要ないが広角用レンズは欲しいななんて思う程度である。
歴史的なカメラを見ても、近代史博物館に並ぶ二槽式洗濯機を見ているのと変わらず、面白いがそこに美しさも感じられない。「この時代は、まだ電子接点がなかったからなあ」なんて技術の古臭さだけが強調されてしまう。歴史として保存したいものだが、自分の家にあれば金属クズにしか見えない。若い時にすでに古くなっているのを手に入れたCanon F-1もOLYMPUS OM-1ももうどこかにやってしまって行方知れず。興味を持っていたからこそ多少古臭くても手に入れたのだが、興味を失くせば管理もしなくなる。
これが、自動車だったら違うのだ。お金がかかって維持できそうにないとは思っても、MG-Bのクラシックカーをガレージに置いて時々乗ったら楽しいかななどと考える。
やれやれ。
とはいえ、カメラに興味を持って話をしている人を見かけると嬉しくなるのもまた事実だ。多少は関わってきた事だから、その自分の関わった仕事に興味を持ってくれているのは正直嬉しい。それどころか、羨ましいとすら感じている。カメラ自体をコンテンツではなく、道具と見られるように戻れるなら、なんと面白そうなことか。
たった一つの救いは、写真というコンテンツには、未だに興味を持っているということだ。だから、写真にはカメラ名とか撮影パラメータを書いて欲しくない。写真にカメラ名が添えられているだけで、自分にはそれが写真ではなく、カメラというコンテンツのカタログになってしまう。写真は写真として、それを落ち着いて楽しみたい。写真がiPhoneで撮影されたものでも一向に構わない。写真が良ければ道具はなんでも良い。ここで写真に興味を失ったら、何も残らないのだから。

チャッピー、賢い。
大学入学共通テストを97%正解率だったとか。このレベルなら、東大生のバイトよりAIのほうが良いかも。記事では3%間違うという認識を持つことが重要と書いているけれど、素直に言って、チャッピーがいれば若者は要らんと読めないこともない。
ようやく認識はされるようになったが、AIなんて間違いだらけで、幻覚見てることも少なくない。ハルシネーションなんて格好よく言うが、hallucinationであって、薬でハッピーになった東大生みたいなものだ。未だに仕事の会話でAIに任せっぱなしという事例が出てきたり、AIが分析しているんだからそれで行こうなんて会話があったりもするが、結果を疑うべきだという認識がだいぶ共有されてきた。そもそも仕組み的に、入力した以上のことはできないのだ。
ただ、裏を返せば、学習したことなら大抵はできるはずなのだ。何しろ最近流行りのAIは、トランスフォーマーと呼ばれるブレークスルー技術があって生まれてきたもので、誤解を恐れず言えば、穴埋め問題を解きまくったら、覚えたパターンで文章を作れるようになったという程度の代物だ。もちろん画期的なアイデアなのだが、じっと考えたら今までは思いもしなかった大発明が生まれるという類のものではない。やれと言われた事を極めて広い知識でこなすスーパーアルバイトみたいなものなのだ。
つまり、出来の良いアルバイトという程度ならチャッピーでも良い場合がある。97%の正答率なら十分ではないか。
優秀なアルバイトだって間違いは起こす。3%のミスを過信してしまうのは使いこなす側の問題でしかない。機械なら間違わないと考える奇妙な迷信さえ克服できれば大丈夫。
さてさて、ここまで書いて、読者の多くはすでに興味を失い、一部は書いてある事を不快に感じているのだろう。そう分かって書いている。本題はここからだ。その本題のためにここまで書いてきた。
次の問題を考えたい。
「真実は常に人を納得させるものだろうか?」
La vérité est-elle toujours convaincante?
昨年のバカロレアの問題である。もちろん正解はない。心理学的に認知バイアスに触れても良いだろうし、歴史を取り上げることもできるだろう。
AIにこれを問えば、間違いなくさまざまな知見を例示して説明してくれる。だが、正解があるわけではないとしたら、そのAIの回答はどう評価したら良いだろう。
なるべく広い知見を網羅したか?
個人の考えに従って説得力のある論旨を展開したか?
歴史に学び将来を語ったか?
どれが正解という解はない。解がないなら回答を評価する軸はどこにあるのか?
答えがない時、人の力量は試される。文脈を捉え、相手を想い、より良い答えを導くことは容易くはない。
あっ!バナーの写真と本文は無関係であることは言うまでもない。

神奈川には案外トビ(とんび、鳶)が多い。特に三浦半島から相模川にかけての地域には多数のトビがいて、神奈川県が注意喚起している。日本で最も身近な猛禽類と言われるトビが、特段危険な鳥であるということではない。もちろん猛禽類なのだから嘴も爪も鋭いし、なかなか大きさもある。翼が当たれば怪我もするだろうし、危険がないというわけでもない。でも、意外に臆病なところもあって、縄張り争いではカラスに負けてしまうこともある。
注意喚起されているのは、食べ物を奪われて怪我をする可能性があるかららしい。確かに、湘南の海でサンドウィッチを奪われたとか、海の家で買ったばかりのたこ焼きを地面に落とされたとか、なかなか色々聞かされる。頭上高く「ピー ヒョロロロロー」なんて聞こえていたら、食料は隠しておいた方が安全だろう。
そんなことを言い出したらカラスだって危険だ。トビだけが危険なわけではない。その昔、前から歩いてきた高校生が、手に持っていた菓子パンを後ろからきたカラスに奪われたのをなかなかの迫力で目撃したことがある。まあ、ともかく、なかなかの大きさのあるトビは、当たれば怪我をするレベルであることは間違いない。
湘南の海が垢抜けた都会の海だとは言っても、周囲には自然も多い。相模湾は豊かで、三浦半島にも鎌倉や逗子にも森は多い。すっかり当たり前になった台湾リスが駆け抜ける。トビだって居そうではある。だが、実は横浜港にもトビはいる。
写真のトビは大型船が停泊する大桟橋近くで餌を狙っていた。ネズミくらいいるのだろうが、狙いは観光客の撒く餌やポテトだったりするのだろう。湘南のトビと違うのは、すっかり人慣れしていて、手の届きそうな場所をホバリングしているあたりである。近くでホバリングするトビはなかなかの拍力である。迫力はあるが、気の弱いのは変わらない。カモメやハトの餌を奪うのはなかなか叶わない。
そうした意味では、人間は案外弱いカモなのかも知れない。少なくとも餌を奪い易そうである。しかも、トビを侮ってはいけない。視力は7.0相当だそうだ。10メートルの上空からスマホの文字だって読めそうだ。まあ、トビの視力をどうやって測ったんだという疑問もあるので、あまり数字を気にしても仕方ないのかもしれないが、ともかく視力は良い。かなりの上空からアホな人間を見つけて急降下なんて、日常生活の一部なのだろう。まんまと高校生あたりから手に持っていた食料をまきあげて、奪って行くなど朝飯前なのだ。たとえそれが好みでもないクレープであってもである。
「なんだよ、ストロベリー・クレープかよ。もっとまともなもの食え。」
なんて思っているかどうかは分からない。