Bonne journée, Cross Cultural

カウンター・カルチャー・ショック(2)

前回から

 いつまでも終わることのない引越し作業に追われているわけにもいかず、仕事らしい仕事を始めるためには、職場なるものに身を移すのが良い。人は、環境が変われば気分を切り替えられるものである。

 その朝、その「職場」に向かう途中でカフェオレを買うためにコンビニに立ち寄った。「そうそう、以前は朝によくコンビニで飲み物を買っていた。」などと、どうでも良い習慣を思い出す。ズボンのコインポケットからジャラジャラとコインを取り出して手のひらの上で選んでいたのも束の間、まもなく面倒になってカードで払うようになった。今回はいわゆる交通カード払いである。スマホでタッチすれば終わりだから面倒さもない。
 ブルターニュだってアップルウォレットもVISAタッチも使えたし、それどころか日本より電子決済はずっと普及していたが、朝は肝心なそれを使う場がなかった。フランスというかヨーロッパにはほとんどコンビニがないのである。 そんなこともあってブルターニュで仕事をしていた頃は、職場のキッチンでコーヒーを淹れていた。フランスのコーヒーである。コーヒーといえばまずはエスプレッソであって、ついクロワッサンかシュケが欲しくなる代物である。朝から飲むにはちょっと強いが、場所が違えば習慣も違う。もちろんその朝のエスプレッソとシュケを楽しむ瞬間が1日の目標と課題を確認する瞬間でもあったから、リラックスと緊張を両立させる役立つ習慣でもあった。
 日本でもキッチンでコーヒーを淹れられるが、日本なら基本はペーパードリップが多いだろう。少なくとも日本の職場にはエスプレッソマシンは置いていなかった。またあの甘酸っぱい香りが楽しめるのは嬉しいが、ペーパードリップは要は面倒だ。 そうなるとコンビニである。数えきれない種類の飲料が、カラフルな無数のペットボトルに入れられて売られている。毎朝の気分で選んで良い。いや、そもそも種類が多すぎて違いすらわからないほどだ。大き目の店舗ならまるでフランスのワイン売り場かチーズ売り場のようで、冷蔵ケースのガラス越しにじっとラベルを読まなければならないくらいに種類がある。コンビニのガラスケースに張り付いてカフェラテのラベルを一心不乱に読んでいるのはきっと変なやつに見えるに違いないが、そうでもしないと微糖とビターの違いも分からないのである。せっかくたくさんの種類があるのだから選びたい。
 正直に言えば、グラスやカップではなくボトルから直接飲むのははしたない気もするが、日本では気にする人などほとんどいない。フランスではほぼ見かけることはないペットボトルからの直飲みが、日本では最も一般的な飲み方なのだ。誰もが豪快にペットボトルから直接飲み物を飲んでいる。それで良いのだ。便利なものである。もうカップもグラスも用意する必要がない。 コンビニでようやく見つけた美味しそうなカフェラテ(なのかカフェオレなのか)を手に取れば、その隣のボトルはなんだか少し大きいような気がしてまたじっと眺めるわけだが、35度の炎天下でもなければ量はさほど重要ではない。ようやく決心してレジに向かう。

 しかしあの一見さんお断りのレジである。ヨーロッパよりずっと現金主義でカードも使いにくかったはずの日本のレジは、いつの間にか独自の進化を遂げていたのである。
 深呼吸してレジの前に立った。
「おはようございます。」
人が良さそうな店員さんに向かって、大声にならないように気をつけながら、それでも朝らしく歯切れ良く挨拶をする。マスクをしてはいるが、精一杯の笑顔である。アルバイトと思われるその店員は、しかし、戸惑ったようなそぶりで小声で返した。
「いらっしゃいませ。」
なんとなくぎこちない。
「えーと、PASMOでお願いします。」
「こちらです。」
アルバイトは手短にパネルの位置を指し示した。そこで気がついたのである。店員と顧客の接触を極力減らそうとしているのだと。お客様の立場のほうがどこか強いのが当たり前の日本ではあったが、この2年ほどで、感染対策のため、商店での挨拶もあまりしないようになっていたのだろう。
 その後、いくつかのコンビニに立ち寄ったが、総じて挨拶や会話は少なくなっているようだった。自分の行動が心配になって他の人の行動をそっと眺めて見たが、黙って商品をカウンターに置き、黙って支払いパネルを押すか、「カードで」だけを言う人も多い。もちろん、「おはようございます」と明るく挨拶する店員もいるから自然とそのコンビニに行くようになった。未だにマスクもしているし、透明ビニールが店員と客を隔てているのだから、大声でなければリスクもかなり小さい。慎重できめ細かくかつ対応の早いコンビニはとても嬉しいが、限度というものがあるのだ。挨拶しないのはちょっと受け入れ難い。
 そんな言い訳をしながら、最新のレジと戦っている。

次回に続く

Bonne journée, Cross Cultural

カウンター・カルチャー・ショック(1)

 さほど時間が経ったわけでもなく、何かを忘れてしまったわけでもない。毎日欠かさず繰り返し飲んでいた甘酸っぱいコーヒーの香りがちょっと苦くなったことを気に留めなくなった程度に、乾いた夏と湿った冬の狭間に転げ落ちたような何年かが、想像していたのとは違う時間軸で流れていただけだ。静まりかえった青と薔薇色の海岸と緑色に塗られた牧場とがどこまでも続くブルターニュは、少し長が過ぎるプロジェクトという時間軸の中のほんの一部を過ごすだけの場所だったはずだった。それが、ちょっとした手違いと気まぐれな人の思いとで国境に壁が広がり、明日と昨日との区別が難しくなったのだ。ただそれだけのこと。その短い年月をブルターニュで過ごす間に、横浜にはブルターニュとはちょっと違った時間が過ぎて、どこかに見えない間隙が出来てしまったのだろう。そういうものだ。
 ただ、その間隙を作ったのが誰かが名付けたパンデミックなのか、それともすっかり不確かな気分で過ごす自分自身なのかは、よくわからない。住み慣れた横浜にただ再び移ってきただけだった筈が、時々宇宙から舞い戻ってきたように異質な空間に変容する瞬間があるわけで、それをカウンター・カルチャー・ショックと言うのか、単に忘れっぽい性格の結果でしかないのか、どうにも判断しようがないのだ。ともあれそれが何であれ、そんなおかしな瞬間が不意に現れることだけは確かである。きっとどこかにある社会への不適合性とか、慣れているはずの社会への甘えとか、そんなものが背景にあるのだろうとは思っている。だから、その違和感のようなものをカウンター・カルチャー・ショックと呼ぶべきではないのかもしれない。
 来週は、そのような違和感の例に触れる予定である。
 なお、カウンター・カルチャー・ショックはリバース・カルチャー・ショックとも言う。微妙にニュアンスは異なるが、書こうとしている内容からはさして違いはない。

次回に続く