Bonne journée, Cross Cultural

Electricity

201410-121Today we use electric power in any time without awareness. Even a car doesn’t work without electricity which is produced by itself. Needless to say any smartphone has a battery and connects to the base station which requires power. When the mega quake happened in Japan few years ago, many people tried to find an active base station and power supply but it was difficult.

今は、誰もが気付かぬうちにいつも電気を使っている。車でさえも、自分で作り出す電気なしでは動かない。言うまでもなく、スマートフォンはバッテリーを抱えていて、電気を必要とする基地局とつながっている。数年前の大地震では多くの人が動作している基地局と電源を探したが、それも困難だった。

When you trip to other countries you don’t know well, perhaps you need to find power outlets other than your hotel. One of ways would be to find a Seattle style cafe but you may learn it isn’t always easy to do at every street corner. Even if you fortunately knows where power outlet is, perhaps you may find yourself having forgotten to bring a proper plug. This is actually a real story of my friend. The shape of plugs in Europe is different from Japanese and North American one.

もし、良く知らない他の国に旅するなら、ホテルを探すよりむしろ電源を探す必要があるかもしれない。ひとつの方法は、いわゆるシアトル系カフェを探すことだろうが、実際それがどこにでもあるわけではない。幸運にもどこに電源があるか見つかったとしても、正しいプラグを持ってこなかった事にそこで初めて気づくかもしれない。この話、知人の経験した話である。ヨーロッパのプラグ形状は、日本や北米とは異なっている。

201410-120
I retouched her charming smiling face because she was asking for.

Lucky you! SNCF, French national railway, has prepared a sophisticated power outlet having USB connectors for your hungry smartphone (and your health).

でも、あなたはラッキー。フランス国鉄洗練された電源を用意した。USBで腹ペコのスマートフォンを充電できるのだ。(しかも健康にも良い)

日本語だけ補足。近くに普通の電源もあったのでご安心を。

 

Books, Cross Cultural

A Book: 里山資本主義

201410-024Written only in Japanese.

狭い意味でのデザイン、あるいは見た目という卑近な言葉までは必要ないが意匠とでも言うべき姿としてのデザインには、好き嫌いはあっても良い悪いはない。ゴッホの絵にも好きな人も嫌いな人もいるように、感性の違いは必ずある。比較的安価なものであればあまり気にしないかも知れないが、車のような安くはない買い物なら、デザインの好き嫌いは気になる人も多いだろう。安価であっても、ペンのような手にするものは、デザインが重要だったりする。ところが、それが良い悪いかと言われれば、感性に対して良い悪いもない。

無論、実際には「良い」デザインがあるという反論があることは分かっている。多くの人が好きなデザインは良いデザインであろうし、誰もが使いやすい工業デザインが優れていることは間違いない。ただ、そこには「商業的に」という説明が見え隠れする。商業的であることが悪いわけではもちろんない。売れることで安価になるかも知れないし、誰もが使いやすくあった方が良い。それでも、どこか、「良い」デザインによって失う何かがあるような気がしてならない。

企業活動にとって、なるべく多くの人に受け入れられることは重要である。たったひとつしか売れないなら受注生産のほうが良い。100個売れるデザインより10000個売れるデザインのほうが良い。そうやっていくとやがて、万人受けするデザインだけが生き残る。どれもが同じようなデザインになり、同じ文法の中で表現を少し変えたものばかりとなる。いつだったか、会話内容から製品の意匠デザインを担当していると思われる人が、ため息を吐きながらこんな話をしているのを聞いたことがある。その人は、新しい形態のデザインを提案しても、良いデザインだが次に考えると言われて受け容れられないというのである。だから、もう少し普通のデザイン案も用意すると。仕事をするなら真っ当な話である。自分の思うところと、より保守的な案のふたつを提示し、意思決定者が選択可能にする。結果は保守的なほうと分かってはいても、考えは提案しなければならない。
「日本車なんてつまらないよね。みんな先っぽが斜めに丸くなってて、どのメーカーもデザイン同じなんだから。」
とその人は言う。そのつまらないデザインは、世界中で売れている。T社にいたっては、世界トップを争っている。そうやって、販売の視点でデザインが決まり、どれもが同じになるのだろう。

都会だろうが、地方都市だろうが、人口数十人の村だろうが、それは等しく存在する。万人受けするデザインであれば、どこでも売れるだろう。特に工業デザインなら地域差は少ない。だから都会の論理が良いということになる。東京は田舎にも持ち込まれ、人は東京を目指す。そうしたことが悪いことでもない。

201410-025ところが、いつも仕事をしているフランス人と話していると、どこか違うような気がしてくる。原点のずれのようなものを感じることがあるのである。彼の地元では大きな青空市が週末に立つ。その市では、生鮮食料品を中心に日用品が売られている。さぞかし新鮮で安いたくさんの種類の野菜でいっぱいなのだろうと思うと、そうでもないと言う。新鮮であるのは間違いない。だが、値段も高いし種類が多いとも言えないのだそうだ。安くて手軽な食料品が欲しいなら、郊外の大型スーパーの方が良いと。それでも彼は、時間があれば市で買う。安全でエネルギーを使わないエコな野菜を選ぶのだ。大型スーパーは、画一化された工場で作ったような野菜を大量に買い付けて運ぶ。手間がかかる有機農法などコストに見合わない。何が使われたかなど分かったものではない。そもそも、そんな物が美味しいはずがない。そんなことらしい。もちろん、季節はずれの食品は手に入らないだろう。いつも必ず市で買うわけにもいかない。時間のある時に会話を楽しみながら美味しそうな食材を探し、ついでにブランチを楽しむということなのだろう。売る側も自信と誇りを持って売っているから、あまりいい加減なことはしない。そんな人々が集まれば、自然と地元の伝統文化を残そうといった話にもなる。パリも良いけど地方も悪くないなと思える場所にもなる。

さて、ここに書いたことと本書は直接関係ない。本書に書かれていることの正否は(そんなものがあればだが)、時代と社会が決めることであって気にする必要はない。そもそもこのブログで書いたことでさえ甚だ怪しい。どこかに勘違いはないかと問われれば、記憶自体が大きな勘違いでしかないのかもしれない。であれば、どうして直接関係のない話を書き連ねたのか。本書を読んだことで思ったこと、思い浮かべたこと、それ自体が本書の価値なのではないかと感じるからである。どこかにひょっとすると同じバックグラウンドがある可能性がありはしないか。そんなことを考えることだって、一つの読み方だろう。

最近読んだ本

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く(角川oneテーマ21)
藻谷 浩介、NHK広島取材班 著

 

Cross Cultural

A postbox 郵便ポスト

201409-053written only in Japanese.

今時なかなか手紙を出す機会もなくなってきたが、旅先から送る手紙は、案外根強く残っている。フランスの街角のカフェでコーヒーを飲みながら絵葉書に何かしら一所懸命書いているのは、かならずしも旅行者だけではなさそうだ。買い物袋を抱えて葉書を覗き込む人々は、きっと空いた時間に手紙を書くそこに住む誰かに違いない。足を組んで、木製の小さな丸テーブルの上で、小さなボールペンを躍らせる。次第に小さな白い空白はブルーブラックの文字に埋まり、小さな紙切れは小さな切手を貼られて誰かのもとに運ばれていく。それが日常の一断片なら、少し羨ましい気もしないではない。

201409-051さっとスマートフォンを出して、写真を添えたメールを送るのは、何かを伝える手段として否定する気は毛頭ない。むしろ、その方がリアルタイムに伝わって、ずっと良いかも知れない。地球を半分回った向こうから、会話をするように送られてきたメッセージは、遥か遠いその場所をいっきに身近な場所にしてくれる。「それで、いつ来るの。」とメッセージを送った相手から、質問を察してか、送信と同時に「来週火曜の朝に着くから」と返事を受けて、光より速いなどと楽しんでいると、いつの間にか、数千キロの距離を感じなくなっている。

それでも、今も誰かが絵葉書に何かを書いている。受け取る相手の表情を想像しながら、キーボードではなく、胸ポケットや手帳の間にちゃんと収まる小さなペンで書いている。そして、その数グラムの紙切れはやがてポストに投函され、想いとともに送られて行く。なんの手ごたえも返さない無愛想な送信ボタンを押すのではなく、どこか意思を試されるような投函という作業が、想いを伝える。

旅先で手紙を出す時、それが住む国と違う国であればなおさら、それはちょっとだけいつもと違った風景となる。だから、旅先から送る手紙は、少しばかり意味が違ってくるのだろう。

この文章を書くにあたって、フランスのポストがどんなだったか思い出せない事に気が付いた。古い写真をひっくり返してみても、写真にも写っていない。確かに郵便局に行ったことはあってもポストに投函したことはない。そんなものだろうが、世界中のポストが気になり始めた。

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