Bonne journée, Cross Cultural

Bookstores

201709-211

新聞を開けば年に数回は国語力の低下だとか活字離れといったニュースにあたる。先日も自治体の2割に本屋さんがひとつもないという記事があって、前にも読んだような気がするなと「google」した。案の定、2015年の似たような記事がすぐに見つかって、妙な安心感のようなものを感じた。2年経ってもほとんど変わらない内容なら状況が加速はしていないということである。もちろん一方でそれを調べるのにgoogleしたというその習慣は、新聞が報道する状況が加速している可能性も示唆しているということでもあろう。

個人的には、町の書店が減少するのは当然という感覚を持っている。誤解して欲しくないが、本屋という空間が大好きで、なくなったら大変だとも思っている。先日も時々立ち寄っていた近所の書店が閉店となって困ったと食事時の話題にしたし、学生の頃は古書店をハシゴしてみたり信じられないくらい小さな学生街の本屋で数時間を過ごしたりもした。そうやって生活の中にあったはずの街の書店は、しかし輪郭が曖昧になりつつある。旬の野菜と夜食のスイーツを買うためにある食料品店と区別がつきにくい不思議な場所となってしまったのだ。それはそれでもちろん需要もあるだろう。出たばかりの山積みになったツヤツヤとした直方体を早く仕事を切り上げてでも買いたいと急ぎ立ち寄ることもあれば、なんとなく夜の時間をやり過ごすためにぼんやりと雑誌の書架を眺めることもある。ただ、それは毎日の生活そのものではない。新刊と雑誌と参考書だけの書店に毎日立ち寄る理由はなかなか見つからない。であれば、書店が減るのが道理というものだ。

北米でもヨーロッパでも本屋さんが流行っているという話はあまり聞かないから、時代の流れではあろう。店頭にないからと注文すれば待たされるし、時間つぶしならネットかゲームの方がお手軽。数が少ないから偶然の出会いは滅多に訪れない。オンライン書店が街の本屋さんを駆逐したというより、そんな時代という方が正しいのかもしれない。まるで、生息域が狭まった希少動物のようである。森に逃げ込むにも、森は限られている。

 

Bonne journée, Cross Cultural

The Rock

201708-521

The Rock(ロック様)が宇宙空間で “Hey, Siri. Take a selfie” とやっているアップルのコマーシャルでeclipse(日蝕)がどうのこうのと聞こえてくるが、正直アップルらしくないつまらない台詞が入っているなとずっとCMの作りを訝っていた。ジョークとしてはいまひとつだと感じるのは、アップルのコマーシャルは質がある程度保証されているものだという妙な安心感のようなものを常々感じているからでもある。ロック様のファンでもない人にとって、少々唐突な台詞にはそうした安心感が欠けているように思ったのだった。
しかしである。あちこちいつも彷徨うブログの海につかる中、ダリのヒゲのように細長く跳ねた木漏れ日とはるか遠い何かを求めて空を見上げる人々の写真がネットに溢れるのを見るにいたって、ようやく意図に思いあたった。北米は久しぶりの皆既日蝕に大騒ぎだったのだ。もちろん誰もが日蝕に熱狂していたわけではないだろうが、少なくとも誰もが話題にするようなイベントであったことは間違いない。大統領が肉眼で見上げる写真を見れば明らかだ。前回の日本での部分蝕では雲の向こうに肉眼でくっきりと欠けた太陽を見ることができたが、あの晴天ではきっと目を痛めたことだろう。
そんなことを思いながら、ふと気がついた。皆既日蝕や皆既月食の皆既蝕は”total eclipse”、でも満月は”full moon”である。確かに皆既蝕が”full”というのも変だが、この手の表現はある意味言語にある文化みたいなものか。日本でも満月は「満」ちているから同じと言えなくもない。

冒頭の写真は、ヨコハマトリエンナーレから。毎回欠かすことのない巡礼ではあるが、その話は別の機会に。

201708-522

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

Vacances

201708-112

先日、フランス在住の知人から仕事に復帰したとの連絡があった。ご迷惑をおかけしましたと、事務的ながら丁寧な文面である。もちろん仕事に復帰したのは3週間のバカンスからであって、休職していたとかそんな理由ではない。あたりまえの夏休みを家族で過ごしただけなのだが、日本に気を遣っての連絡なのだろう。普段と違ったよそよそしい文章を眺めながら、気にしなくてもいいのにとひとり呟いた。
この知人のフランスでのご実家はフランス国内だったと記憶しているが、仕事関係者と話していると案外スペインやらスイスやらと実家が国外という人も多い。だから夏休みにその田舎に帰るのかと思っていると、意外にもイタリアだとかイギリスだとかと全く無関係な場所が多い。あいつは北イタリアにひと月もいたからすっかりイタリアかぶれで困ったなどと言う。聞けば、近いのにずっと行った事がなくて、今回はすっかり満喫したそうである。
どうしてこうもバカンスに命がけで向き合うのか、多少疑問がわかないでもないが、ここは素直に羨ましいと言うべきだろう。その程度の余裕がないと、この暑い夏は乗り切れない。

201708-111

Bonne journée, Cross Cultural

Galapagosizationized

201707-211

テクノロジー関連のウェブ記事を読んでいると時々意味不明な単語に出くわす。その記事に書かれた技術をそもそも知らないという事ではない。まぁ、よく知らないという場合もないではないが、わざわざ読もうというくらいだから普通はある程度の予備知識があって読んでいる。不明な単語というのは分からないというより直感できない単語という意味である。ある種、中学生の間でだけ流行っている妙な表現を初めて聞いたような違和感とでも言おうか、響きはわかるのに語源が想像つかないというのに似ていなくもない。あるいは、先日の朝日新聞の書評にもあったが、ハナモゲラ語でも良い。ただひとつ違うのは、立派に元の意味があるという事である。
そのような典型例が(個人的にではあるが)「ガラホ」である。この単語、実はどこにも元の言葉の原型がない。元の意味は想像通り「ガラパゴス化した携帯電話」と「スマートフォン」からきている。
まずは携帯電話がケータイとカタカナになり、次にガラパゴスと一緒になってガラパゴス・ケータイと呼ばれ、短縮されてガラケーという単語が完成する。この時点でケーくらいしか原型が残っていないと思うが、業界ではフィーチャー・フォンと呼んでいるから実は全く違う単語になっている。一方、スマートフォンはいつかスマホと呼ばれフォはいつしか完全にホに変容する。だからガラケー+スマホでガラホである。もはやどこにも原型はない。日本語おそるべし。
ところがである、今、「ガラホ」という単語はガラパゴスケータイのスマホという意味では使われていない。スマートフォンのOSや部品を使って作られたフィーチャー・フォンという意味である。つまりスマホの技術で作られたガラケーなのである。あぁ、ややこしい。言葉の原型はおろか意味合いすらもずれているではないか。

追記:
ややこしいといえば時に外来語も同じである。あえて色々例を挙げるまでもない。先日は、スケートの記事を読んでいて「フィギュア撮影」で引っかかった。ニュースでも案外スケートに関する記事は多くなく、スケートファンとして画期的な記事だと思ったのだが、実際は模型のフィギュアの話だった。並べて書いて欲しくないものである。模型のフィギュアはModel figure、フィギュアスケートはFigure skating。言葉はいつも難しい。

追記2:
タイトルのGalapagosizationizedという単語はもちろんない。Googleしても何も出てこない。ガラパゴス化という意味であれば、前後でその意味を説明しさえすればGalapagosizationという単語はなんとか通じそうである。だが今回の意味はガラパゴス化ではなく、もはやガラパゴス化されていた過去の生態系を別な島に移したことで一時的な新たな生態系が派生したくらいの意味である。言葉はいつでも新しい。