Bonne journée, Cross Cultural, Photo

2018

201712-521

年末に新年の挨拶をするようになって何年にもなる。朝の短い自由を新聞を広げて楽しむサラリーマンを横目で見ながら、トミー・フラナガンのピアノを聴きつつゆったりと過ごす通勤電車の中で、そんなことをふと思い出した。御用納めの朝の電車はどこか余裕ある空気が漂っていた。なんとなく、慌ただしい何かが終わったような気がして、年末は不思議な安堵感のようなものを感じるものなのだろう。これが年始となるといきなり何事もなかったかのように仕事が始まって、一気に慌しさを取り戻す。だからほとんど新年の挨拶のようなものもない。一緒に仕事を進めているフランスのチームもしっかりと休みをとるが、クリスマスの挨拶がわりに新年のあいさつをすると、年明けの会話はスケジュールの話だったりする。そんなものである。

ともかく、2018年こそは明るい一年でありますよう。
May the New Year turn out to be the happiest and the best for you.
Bonne Année
Gelukkig nieuwjaar
Onnellista uutta vuotta 2018

Bonne journée, Cross Cultural

Zhu Bajie

201712-211

新聞の片隅にあった妙な広告が通り過ぎざまに目に入り、思わず立ち止まって確認した。よく見れば「嘘八百」という映画の宣伝だったのだが、薄暗い朝の光の中で動く目から入った信号は、わずかばかり漢字の形状が似ているからか、頭の中で「猪八戒」と変換されたのだ。流石にそんなドラマや映画はないだろうと見返した訳である。三国志の中にあって重要な役割を果たす猪八戒であるが、猪というその姿からしてヒーローの条件を満たしていない。その猪八戒を主人公に映画でも作ればなかなか面白そうではあるが、売れるためにはひと工夫いるだろう。

ところで、猪八戒はなかなかにかわいそうな妖怪であることは、忘れがちである。元々は天上界の水軍だったかを率いる神様であったが、少々女癖が過ぎて地上界に追放される。その際に生まれ変わる先を誤って、人間ではなく豚だか猪だかにしてしまったのだ。確かそんな話である。何もそんなところで間違わなくても良さそうなものだが、物語とはそんなものだ。あぁ、間違った!と後悔したのかどうかはわからない。

朝のまだ薄暗く冷たい空気の中でつまらない見間違いをしたために、妙なことを思い出しながら苦いコーヒーを楽しむことできた。休日の朝はそのくらいがよい。

 

Bonne journée, Cross Cultural

to talk

201710-511(written only in Japanese)

話すことによってではなく聞くことのによってのみ話す行為を終えることができる、それが生きることの宿命でさえある。声を単に発することは話すことではない。聞き手がなければ、唸り声をあげようが哲学を語ろうが同じことである。一方で相手の言うことをうわの空で聞けば、寝ていても同じことである。相手の言うことを聞いてこそ話すことは終えられる。

塩野七生によれば、カエサルは「ひとは見ようとしたものしか見ない」言ったそうだ。一次資料にはあたっていないから真偽のほどはわからないが、少なくともこの言葉はそれを知る以前からずっと、胃の上あたりで疼く違和感のようにまとわりついてきた。特段イヤな言葉とかいったわけではない。ただどこかに上辺だけでも取り繕いたくなる基準となる原器のようなものがあって、それを知らないふりをし続ける鈍い重みのような、小さな悪徳を抱えている気がするだけだ。

見聞きする日常は、当たり前すぎてかえって遠く霞みゆく。

Bonne journée, Cross Cultural

A cheap standard

201710-221

エキゾチックなリゾート写真を見て、いったい何処だろうと写真の隅に書かれた小さな文字を頼りにJag Niwasなるものをgoogle mapで探していたら、地図の真ん中にホテル価格が47306円と現れた。さすがに観光地は高いと思ったら、近くには1117円のホテル。相場がまるでわからない。地図をピンチアウトしてようやく頭の中で情報が結びついた。インド屈指の湖上ホテルではないか。きっと街中には手軽なゲストハウスもあるのだろう。バックパッカーには1117円のホテルも重要な情報である。その日どれだけ安くても居心地の良いホテルに泊まれたかで次の日の行動が変わることもあるからだ。単にコストダウンとかいうことではない。

バックパッキングよりも高級ホテルに泊まるオシャレな旅のほうが嬉しい思うようになって久しいが、たまにこんな値段の差を見たりすると身軽な旅もいいなと思うこともある。少し高いホテルになるとどうしても情報はコンシェルジュからとなる。ロビーやエレベーターで知らない同士挨拶しないわけでもないが、どことなく距離感みたいなものがあって、美味しいイタリアンの店を知りませんかとはなかなか聞きにくい。聞く相手を間違えると「あの人怪しい」なんて思われかねない。その点、小さな安ホテル(ただし真っ当な)だと、いきなり「裏のレストラン行った?安くて美味かったよ。」と聞いてもいないのに情報が入ってきたりする。星が4つもついたらなかなかこうはいかない。その上、仕方なくコンシェルジュに訊ねようものなら妙にスノッブなレストランを紹介されて高くつくことになるのは道理というものである。何しろ変なレストランでも紹介したら、紹介したホテルの品位が問われかねないではないか。

一度、フランスの小さな地方都市で少し高級なレストランの名前を口にしたら、地図を見ながらそれはもう丁寧な案内をされたことがある。旧市街を抜けると近いが道が複雑で迷うからタクシーで行けと危うく電話までされそうだった。何度か来て慣れているから大丈夫だと言って断ったが、きっとインセンティブでもあったに違いない。

当初は汚い表現のタイトルでしたが、あらためました。

201710-222

Bonne journée, Cross Cultural, photo panoramique

Being simple

201709-311

The iPhone X team definitely made a great job. Some technical writers who love to quibble on insignificant detail seems to be busy for writing a reason of unsuccessful sales but I believe Apple has showed their philosophy with new products. Even though a enthusiastic supporter would probably find some bad points soon as usual, they must say what’s the matter? It’s a sort of common year festa.
However I’d like to say it lacks the finishing touch. The cut-out at the top and round edge look far from Steve’s clean design for me. It might be an unavoidable result of efficient and beautiful edge-to-edge LCD. Even so, I believe Steve would never say yes.
Being simple is always difficult.

iPhone Xは間違いなく素晴らしいが、ただ一点、ディスプレイ上部の切り欠きだけはどうしても気に入らない。スティーブジョブスなら絶対にOKしなかったのではないかというほどの詰めの甘さを感じてしまう。シンプルであり続けるのは大変に難しい。