話すことによってではなく聞くことのによってのみ話す行為を終えることができる、それが生きることの宿命でさえある。声を単に発することは話すことではない。聞き手がなければ、唸り声をあげようが哲学を語ろうが同じことである。一方で相手の言うことをうわの空で聞けば、寝ていても同じことである。相手の言うことを聞いてこそ話すことは終えられる。
塩野七生によれば、カエサルは「ひとは見ようとしたものしか見ない」言ったそうだ。一次資料にはあたっていないから真偽のほどはわからないが、少なくともこの言葉はそれを知る以前からずっと、胃の上あたりで疼く違和感のようにまとわりついてきた。特段イヤな言葉とかいったわけではない。ただどこかに上辺だけでも取り繕いたくなる基準となる原器のようなものがあって、それを知らないふりをし続ける鈍い重みのような、小さな悪徳を抱えている気がするだけだ。
見聞きする日常は、当たり前すぎてかえって遠く霞みゆく。