Bonne journée, Cross Cultural, Photo

vineyard

どこかで聞いたような気がするという程度の知識は案外あてにならないのは、今や世間の常識となりつつある。誰かがWebなんてものを発明してしまったものだから、生半可な知識で満足していたものが、明確に否定されてしまったりもする。だからと言って、自分の目で見たから正しいとは限らない。昔から百聞は一見に如かずと言うが、自分の目で見たものより科学を信じるタイプの人間もいて、数式以外に信じられるものがないと感じることもある。どこかで亡霊を見てしまったところで、科学で証明できないのだから、これは脳内のイオン反応の結果でしかないと思うのである。

そんな訳で、パリ以北ではワインは作れないと言うのは単なる思い違いだそうだ。最近のフランス内での報道によれば、南のワインの産地に圧されて、たくさんあったパリ近郊のワイナリーは経済的に立ち行かなくなり、やがてなくなったと言うのが事実らしい。確かドイツ北部でビール作りが盛んなのはブドウが作れないからだと聞いたような記憶があるし、今住んでいるブルターニュではワインは作れず、隣のノルマンジーと共にリンゴ酒(シードル)作りが盛んになったのだと「聞かされた」記憶があるが、どうも単純に信じてはいけないようである。

その報道によれば、パリ近郊で再びワインづくりが進んでいるとのことである。フランスのワインにとってどこで作られたかは極めて重要であり、パリだからダメなのではなく、地元のパリ産ですよと言えることがビジネスを後押ししているようなのだ。知り合いによれば、ブルターニュにもワイナリーができてそこに投資しているそうだから、案外パリだけに限らない話なのかもしれない。その知人は失敗しても良いとは言っていたものの、投資するくらいだからしっかりワインができる見込みがあるのであろう。

もちろん、パリやブルターニュのワイン作りには課題もある。天候が比較的涼しい上に安定しないため、その年によって出来不出来の差が大きいらしいのである。だからビジネスとしては少し厳しい。温度計や雨量計がそこかしこに設置され、24時間体制で管理がされる現代だから成り立つのかもしれない。パリについては分からないが、少なくともいつも日本人旅行者にブルゴーニュと間違われてしまうブルターニュには、ちょっと嬉しい話のような気がしないでもない。

と言うことで、写真はロワールの葡萄畑である。ブルターニュではない。まだ、噂のブルターニュのシャトーを見たことはないのである。本当に葡萄畑はあるのだろうか。

日本にも美味しいワインの産地がありますよと言うことで、この下の写真は勝沼である。葡萄だけ写真に撮ってもどこか分かりにくいのは承知の上。

Bonne journée, Cross Cultural

tous les étés

 いつになく静かな夏のいつになく湿った日曜の朝、いつもより近く聞こえる教会の鐘を聞きながらシャツのしわを伸ばし、少し硬めのソファーに身を委ねる。久しぶりに街を覆うぼんやりとした霧を眺め、昨日までの熱波が終わりを告げつつあるのだろうと考える。特に何かあるわけでもない。ただ、いつもと少しだけ違う夏。
 様々な色に塗られた観光バスは皆どこかに消えてしまったのだろう。確かに旧市街にはドイツ語やらスペイン語やらが響き、見慣れないナンバーの車が通りを行き交うが、文化になどついも興味がなさそうな賑やかな集団が、わずかに傾いた木組みの店の前で大騒ぎを繰り返すこともない。観光バスのフロントウィンドウに貼られたツアーの名前を見ながら、おや、英語だとかハングル文字だとか、ひょっとしたらスオミかなと遠い国に想いを馳せ、不意にすれ違ったバスのJTBの文字に郷愁を感じたのは、もうずっと前のような気がしてしまう。ただ静かな夏。繰り返す夏。

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

Salt farm

 何というか、要するに塩である。

 結晶学的には塩素とナトリウムが交互に規則正しく並ぶ面心立方格子という面白くも何ともない結晶構造を持ち、式量はおよそ58。電気的には絶縁体であって、見た目は無色透明な直方体となる。水溶性があって、水に溶ければ塩素イオンとナトリウムイオンが電導性を示すが、融点は意外に高く、およそ800度になる。地球上には海水及び岩塩として大量に存在するが、多くの生物にとって生命の維持に必須の物質であって、口に入れれば他にはない塩味を感じる。

 要するに塩化ナトリウムの結晶なのである。

 ただ、純度100%かどうかと言われれば、食用の塩はマグネシウムを多く含んでいる。カリウムやカルシウムも少なくはない。それどころか、おそらくは多くの不純物が含まれている。これらの塩化ナトリウム以外の成分が「まるやかな」塩を生む。

 物質の多くは結晶化する際に不純物を自ら排除する。大雑把に言えば、異なるイオンがあると規則正しく並びにくいため、不純なイオンは結晶に入り込みにくい。だからゆっくりと結晶化させて不純物濃度を下げるといったことも行われる。人間が手作業でやるとなると大変な労力を必要とする。海水が多ければ生産できるというものでもない。もちろん熱を加えて水溶液から水を飛ばすことで生産できるが、多くは太陽熱と風による蒸発を利用した天日塩である。海から少しずつ海水を取り入れ、徐々に浅くしながら海水濃度を上げる。やがて現れる小さな結晶を少しずつ陸にかきあげながら「乾いた」塩にしていく。雨が多く寒い地域では生産は容易ではない。暖かくて晴天率の高い地域が生産には適している。

 そうやって作る塩の北限と言われる場所のひとつが写真の「塩田」である。アジア出身の自分にはどう見ても水田なのだが、ここは紛れもなく海であり、遠くまで続く塩田の先には我々が普通知る海が広がっているはずである。

Bonne journée, Cross Cultural

A-un

This article was written only in Japanese.

阿吽(あ・うん)が何かと問われても案外理解できていない。サンスクリット語が語源だなどと言うつまらない知識の向こう側で、狛犬と何が違うのかとGoogle検索の呪縛にでも引き込むような疑問が次々と湧いてくる。どうでも良い話なのだろう。少なくともそれを知らずに生活するのは難しい事ではない。それは富士山の高さが何メートルなのかといった疑問とさして変わらない。一度登ったきりで、普段の生活では気にも留めない存在である。

そんな普段から気にも留めない阿吽について、日本語の分からないフランス人に説明を始めてしまったとなると、話は別である。「あぁ、止せば良かった」なんて思っても、真剣に聞いている相手にいい加減なことを言わないくらいの分別はある。元はといえば、コミュニケーション不足をどう解決するかという解決の難しい課題である。考え出せばキリがない。そこに阿吽を持ち出してしまったのは自分だが、阿吽など説明せずともコミュニケーション・ギャップの背景を伝える事はできる。余計なことを言ったものである。
「まぁ、自分でもよく分からないのだけれどね。」
と言って話を終えても良いが、結局は日本的コミュニケーションというステレオタイプな説明をせざるを得ない。もっと自国文化を知っておくべきだったなんてつまらない反省までしたりする。

もし阿吽の呼吸に興味があるのならここに調べた事を書いても良いが、もはや問題は阿吽の呼吸にはない。あの阿形吽形が何であれ、狛犬がなんであれ、日本を訪れて寺社を見ているうちに気がついたあの左右の一対の何者かが「あ・うん」であって、どうやら口で言わずとも了解しあえる状況でそれを形容するのにその「あ・うん」が出てくるらしいということが了解されたら、興味はなぜ「あ・うん」なのかである。いや、実は知らないわけである。口を開いているのが「あ」で口を閉じているのが「うん」であると言った程度であって、阿吽がどんな関係にあるかなど何もわかっていない。仕方ないから正直に説明をするしかない。
「いや、実は自分もわからないのだ」
結局行き着く先はここである。それでも少しでも何かをつけたそうとする。悪あがきというやつである。「あ」は始まりの意味であり「うん」は終わりを意味するから、宇宙を表しているのだと言った類である。
「何でこんな話をしちゃったんだろう。知らないんだから止せば良かった。」
と独り思う。
その時である。
「あぁ、そういうことか。分かった。アルファ・オメガだね。アジアもヨーロッパも同じなんだ。」
何が分かったのかがわからないが、相手は急に納得したのである。
阿吽は今後ΑΩと訳さねばならない。

一度は書いた記事のつもりでずっといたが、見当たらないので新たに書き直してみた。

もしΑΩに不案内であれば、この写真にある新しい教会の入り口の上を拡大してみていただきたい。写真をクリックすれば拡大する。

Bonne journée, Cross Cultural

WfH

今年の戦勝記念日は何もなかったらしい

 なんだか距離感のつかめないWeb会議の頻度が高まって、集中する事の意味が違ってきたような気がしている。ロックダウン前だって頻繁にWeb会議をやっていたのだから何も違いはないはずなのだが、Web会議がデフォルトになって、そもそも相手の顔を見なくなったような気がしている。要は、関係のない話だったらその間に別な仕事をしようかなと思ってしまうのである。生産性の低い会議などしていれば、そのウィンドウの裏に隠れている別な課題に取り組もうという気になってくる。

 追い討ちをかけたのは、映像がなくても良いと気づいたことだった。元はと言えば、リモートワーク(日本ではWfH – Working from Homeの言い方が定着してきたらしいがフランスは昔ながらの télétravail テレトラヴァイユが主流か)で集中した通信回線負荷を下げようという話であった。ビデオはそれなりに負荷が大きいからオーディオだけにしょうと映像を消したのだった。映像がなくても会議はしっかり進むし、会議で解決すべき課題にも結論が出る。逆に言えば、何も進まない会議なら別な事をしても良い。それが人の心理というものである。

 一方で、リモート飲み会なら映像が欲しい。音声だけでは臨場感に欠けるというものである。最近は、「Skypeでzoom飲みする?」というらしいから、動詞としてのzoomが映像付きのカジュアルコミュニケーションという意味を持ってきたのだろう。なんだか急激にZoomが市民権を得たようである。SkypeだろうがWebExだろうが、あるいはJitsiであってもさして違いはないのだが、Zoomは仕事のツールではないところまでユーザを広げられたのがよかったのか、それとも名前が良かったのか。

 少し前だったら「yahoo!でググってみたら」という言い方と同じなのだろう。その時点で検索という行為では勝負がついてしまったわけだが、果たしてZoomるのが定着するのかどうかは分からない。MicrosoftもGoogleもそう言えば自社にもサービスがあったと思い出したように宣伝し始めたし、この後で大きく勢力図が書き変わる可能性だってないわけではない。ただ、ちょっと面白いのは、Zoomを作った人は元WebExの技術開発トップの人だし、SkypeはMicrosoftの一部なわけで、案外内輪で盛り上がっているだけのように見えるという事だ。

 果たして時代はまたひとつ進むのか、それとも余計なツールがひとつ増えるだけなのか。
「この書類、Xeroxして郵送しなきゃ」と言っていた時代のXeroxも郵送も、最早クラシカルな商習慣の一部となった今、ZoomがTV会議であるうちは何も変わらないのかも知れない。