This article was written only in Japanese.
阿吽(あ・うん)が何かと問われても案外理解できていない。サンスクリット語が語源だなどと言うつまらない知識の向こう側で、狛犬と何が違うのかとGoogle検索の呪縛にでも引き込むような疑問が次々と湧いてくる。どうでも良い話なのだろう。少なくともそれを知らずに生活するのは難しい事ではない。それは富士山の高さが何メートルなのかといった疑問とさして変わらない。一度登ったきりで、普段の生活では気にも留めない存在である。
そんな普段から気にも留めない阿吽について、日本語の分からないフランス人に説明を始めてしまったとなると、話は別である。「あぁ、止せば良かった」なんて思っても、真剣に聞いている相手にいい加減なことを言わないくらいの分別はある。元はといえば、コミュニケーション不足をどう解決するかという解決の難しい課題である。考え出せばキリがない。そこに阿吽を持ち出してしまったのは自分だが、阿吽など説明せずともコミュニケーション・ギャップの背景を伝える事はできる。余計なことを言ったものである。
「まぁ、自分でもよく分からないのだけれどね。」
と言って話を終えても良いが、結局は日本的コミュニケーションというステレオタイプな説明をせざるを得ない。もっと自国文化を知っておくべきだったなんてつまらない反省までしたりする。
もし阿吽の呼吸に興味があるのならここに調べた事を書いても良いが、もはや問題は阿吽の呼吸にはない。あの阿形吽形が何であれ、狛犬がなんであれ、日本を訪れて寺社を見ているうちに気がついたあの左右の一対の何者かが「あ・うん」であって、どうやら口で言わずとも了解しあえる状況でそれを形容するのにその「あ・うん」が出てくるらしいということが了解されたら、興味はなぜ「あ・うん」なのかである。いや、実は知らないわけである。口を開いているのが「あ」で口を閉じているのが「うん」であると言った程度であって、阿吽がどんな関係にあるかなど何もわかっていない。仕方ないから正直に説明をするしかない。
「いや、実は自分もわからないのだ」
結局行き着く先はここである。それでも少しでも何かをつけたそうとする。悪あがきというやつである。「あ」は始まりの意味であり「うん」は終わりを意味するから、宇宙を表しているのだと言った類である。
「何でこんな話をしちゃったんだろう。知らないんだから止せば良かった。」
と独り思う。
その時である。
「あぁ、そういうことか。分かった。アルファ・オメガだね。アジアもヨーロッパも同じなんだ。」
何が分かったのかがわからないが、相手は急に納得したのである。
阿吽は今後ΑΩと訳さねばならない。
一度は書いた記事のつもりでずっといたが、見当たらないので新たに書き直してみた。
もしΑΩに不案内であれば、この写真にある新しい教会の入り口の上を拡大してみていただきたい。写真をクリックすれば拡大する。