Bonne journée

a virtual weekend

It’s so sunny day.
溢れんばかりの太陽。
Il y a beaucoup de soleil.

We have a lot of reason to open the windows.
窓を開けない理由などない。
C’est le moment d’ouvrir les fenêtres.

It is the difficult time for everyone. A half of people in the world are spending their weekend at home. Perhaps it might not be a bad idea to make memories to throw back to beautiful vacations. Let’s spend a weekend with imagination. 

誰にとってもあまり良い時ではないだろう。世界の半分が外出に何らかの制限を受けている。でもひょっとしたら、過去に想いを馳せるのも悪くないアイデアかもしれない。想像力で週末を過ごそう。

ギリシャで過ごす週末はいかが?

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

Out of habit

Interestingly, one of the most difficult advices from the goverment was ‘not to give a handshake’.

慣れとは不思議なもので、つい何年か前までは握手など滅多にしなかったはずなのに、急にするなと言われて手のやり場に困っていたりする。もちろん、大騒ぎのウィルスの話である。やれ、たくさん集まるなとか、距離は1メートル空けろとか、政府から色々とガイドラインが出て右往左往しているわけだが、案外一番難しかったのは握手をするなというものだった。

朝の挨拶でまずは躓く。朝に知り合いに会えば握手程度は最低ラインの当たり前なのであって、肘をぶつけろとか靴をぶつけろとか言われても、急にできるものでもない。結果としてぎこちなくあげた右手は、まさにスタートレックのバルカン人である。「長寿と繁栄を」なんてファンでなければ意味不明でしかない。ちょうど昨年からマクドナルドが展開している広告がバルカン人風なので、案外理解者は多いのかもしれないが、ともかくもバルカン人の真似をするのが政府の専門家とやらの意図ではない。

初めて会っても時には頬にキスする国で、右手が空中を泳ぐのは明らかに避けられず、ぎこちなく腕組みしたり少しだけ頷いてみたりしているのである。慣れとは恐ろしい。

最近は一眼レフが重いというつまらないが重要な理由で小さなミラーレスを持ち出すことが多いが、これもまた「慣れ」という名の呪縛がかかっていると思い知る。写真を撮るのにファインダを覗くのが当たり前だと思ってきたが、このミラーレスには覗きたくてもファインダーがない。最初はファインダがないと頭でわかっていたとしても、ある日どこかで意味もなく液晶を鼻につけるという不思議な動作をおこなって、バツ悪く周囲を見回すことになる。

どうということはない。人の行動には慣性が働くのである。急には曲がれない。それでも人はなんとかしようとする。だから少々疲れるのだ。そういうものである。

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

jeudi

 「その昔」と文章を始めるのも気がひけるが、もはや黴臭い歴史の一部分になりかけたセピア色のバブル期は、時間軸が思いがけず地滑りを起こし始めた転換期だったのだろう。経済の話ではない。今や誰もそんな事に興味はない。週末の定義である。
 かつて週末の夜と言えば、土曜のきらびやかな時間を指していた。サタデーナイトはディスコティークと同義語だったし、汚れたワイシャツを身に纏ったゾンビが原色の街を徘徊しても誰も驚かず、その意味も了解できたはずである。もはや映画や音楽という歴史資料から紐解かなければならない遠い時間の彼方とは言え、まだまだ年末には美空ひばりが現役なのだから、大正浪漫と同義にできるほどの過去というわけでもない。
 それがしばらくして地滑りを起こす。週末の夜が金曜日にとって変わられるのである。ふくれた地下鉄が核心へ乗り込む金曜日と週末の馬鹿騒ぎの間には直接の関係はない。むしろ皆が集まって騒いだ土曜の夜は、もっとプライベートな金曜の夜へとすり替えられてきた。すっかりバブルがはじけて10年の夜が過ぎれば、それは夜どころか金曜の午後に移り、早く家に帰る口実ですらある。

 死刑囚のパラドックスと呼ばれるものがある。もはや死刑囚などという政治的に正しいかどうか疑わしい言葉が使われる時点でパラドックスであるのだが、そんなメタな話ではなく、よくあるパラドックスの例として知られたものである。
 死刑執行を独房で待つ希望のない囚人の元に、ある日役人が訪れる。とうとうその時が来たかと震える死刑囚に役人はこう告げる。
「あなたの刑は来週の土曜日までに執行される。あなたは、予めその日を知らされる事はない。それは禁じられており、お伝えできるのは来週のいつかという事だけだ。だが安心しなさい。執行の前日には知らせるから、あなたはその晩に神に祈ることができる。」
 役人が帰ると死刑囚は喜んだ。これで刑が執行される事はない。もし木曜日になっても何も通知されなければ、執行が最後の土曜日だとわかってしまう。なぜなら前日の金曜日には必ず通知されなければならないからだ。つまり、土曜日に執行される事はない。そうなると金曜日が執行される可能性がある最後の日という事になる。だが、同様に水曜日までに何もなければ、土曜日には刑が執行されないのだから金曜日が執行の日だとわかってしまう。つまり、金曜日も執行できない。そうやって考えれば、どの日にも執行することができない。死刑囚は、法の不備を神に感謝した。
 翌週の半ば、ゆっくりと昼食を食べ終えた死刑囚の元に役人は再び現れた。
「明日、刑が執行される。今夜は神に祈りなさい。」
 予想だにしなかった木曜日、刑は執行された。

 週末に囚われた都会という名の石の独房で、今日も人は誰かと時を共有している。その「時」がカレンダーや時計にしがみつかなければならない現実時間であるのか、ただの妄想なのかは案外分からない。
 たった今住むこのフランスの街の一角では、週末の夜は木曜日に訪れる。死刑囚のパラドックスとは関係ない。親しい人と過ごす週末のためには、悪い仲間と羽目を外すのは土曜日でも金曜日でもなく木曜日でなければならない。ただそれだけのことである。
 親しい人と過ごす週末は、土日ではなく、金曜の夕暮れが夜に変わった時から始まっているのだ。

Bonne journée

SOLDE

 誰も彼もが大きなロゴの入った紙袋を抱えて街を行き交う冬のバーゲンの季節となって、ようやく長い長いクリスマスムードが落ち着いてきた。買い物を抱えて歩く姿に違いはないが、それぞれの腕に大事に抱えられたそれが、ひと月前のようなリボンで飾られた山積みの箱から歩く広告のような巨大な袋に代わって、誰かを想う2か月が自分のための4週間になったというわけである。まだ少しばかりのクリスマスのかけらがあちこちに残されてはいるが、そこはクリスマスが過ぎたからと慌てて飾りを片付けるような妙な律儀さはない。公現祭が終わってもガレット・デ・ロワはいくらでも売っている。
 そんな状況であっても、そこここのガレージの片隅などにそれは集められている。どこか乾燥して白茶けたクリスマスツリーである。もう役目を終えて、各家庭の団欒の一画を占めていた立派なツリーはどこかに片付けられていく。時が過ぎれば良い思い出であると同時に、それは普通の家庭にはいささか大きなゴミとなるのである。そんなわかり切った事も、時が過ぎて初めて気がついたりするのだ。
 高さ2メートルもあるクリスマスツリーは、それは堂々として、眩く輝いていたはずである。その隣にでは暖炉がパチパチと音を立て、根元にはリボンのかけられた大きなプレゼントがその夜を待ち続けていたかもしれない。今年初めてつけられたオーナメントは、もしかするとホットワインの香りが漂うクリスマスマーケットで手に入れたばかりだろうか。
 だが、そのクリスマスツリーも時が過ぎればリサイクルに回さなければならない。
 ある日、街を歩いていると、先ほどまで立派に立っていたクリスマスツリーが片付けられた後に出会した。いや、何かを見たわけではない。ただ、石畳みの上に夥しいモミの木の葉と小枝が散らばっていただけである。それ以外に何かあったわけでもない。
「いやだ。まだここにいる。行きたくない!」
 そうやって暴れたツリーは、色あせた小枝を毟り取られながら持ち主に強引に連れ去られたに違いのだ。
「いいか、もうソルドの季節なんだ。ここにはいられない。一緒に来い。」
 そんな会話があったかどうかは知らないが、3メートル四方に散乱したまだ緑を少し残した小枝や葉のかけらが、どこか可愛そうな想像をかき立てた。
 仕方がないではないか、首根っこを掴まれて連れ去られるツリーは、もはやこの季節の当たり前の風景なのだから。
 クリスマスツリーの集積場も散乱した枝葉もここに写真をあげる気はない。でも、少しだけ。