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A Book:百代の過客 日記にみる日本人

20121209-001このようなblogが一般的に日記かと問われれば、それは違うと答えるのだろうか。どこか日記と違っていても、ある種日記であると答えたくなりはしないか。日記という定義があるわけでもなく、blogという定義があるわけでもない。あるのは、日々考えたり感じたりする事を記録するモチベーションとでも言うべき何かである。
どこかで読んだ記憶によれば、人は何かを言いたい衝動があって、いうことで満足するのだそうだ。そこに読者はいなくても良い。吐き出す先が重要なのである。古くからコンピュータに携わってきた人ならblogなど引き合いに出すまでもなく、/dev/nullという何かを書き込むと単に捨て去るだけの装置に愚痴を書き込んだことがあるかもしれない。そこには読み手はいないし、想定しようもない。
一方で、この「吐き出すことで満足する」という考え方は想像しやすく魅力的だが、やや乱暴なようでもある。常識的に考えるに、単に捨て去るだけの書き込みに人が満足するとも思えない。実際には読まれることがなかったとしても、誰かが読むことを想定して日記やblogが書かれると考えるほうが、しっくりするように思われる。

今でこそ狭義の日記は、日付と毎日の出来事とそれに関するちょっとした感想や考えを記録するものであって、時に天気などの客観的情報も加えられたりもするが、そうした定義は極めて狭い意味と考えるべきだろう。平安の古より人は日記を綴り、今で言う文学のひとつとして成立してきたのだという。日記は必ずしもリアルタイムにその日その日で記録されたとは限らず、時には脚色もされて、随分後から書かれたものも多いらしい。
そうした意味において、blogの少なくとも一部は、昔からある日記の延長と言えるかもしれない。書き手が何かを思いそれを単に記録に残す場合もあれば、何か意図があってそれを広く伝えるために書く場合もあろう。目的を持った旅路の記録としての日記もあれば、仕えた貴族の賛美ということもある。その構図は今も変わらない。
個人的な旅行の思い出の記録もあれば、仕事で参加した会議の作法を綴ったものもある。支持する政党の考え方を書いて後押ししているものはインフォーマルな形で書くと胡散臭いが、それでも確かに存在する。もちろんその逆の批判めいたblogは、ずっとたくさん存在する。
昔との違いがあるとすれば、今はやたらと情報提供を目的としたblogが多いということだろうか。

タイムリーに情報提供するには、1200年昔のインフラとしての日記は、勿論不十分だった。昨日何があったではなく、昨年何があった程度のタイムスパンが限界だったはずである。Webがなかったどころか印刷機がない状態では、タイムリーに広く読まれることは想定しようがなかったのだから。
恐らくは、そのタイムスパンにおいて1200年昔の日記は、読者を想定していたはずである。すなわち、次の世代に向けて。次の世代が読者であれば、他人に見せることのない個人的な記録と読ませるための作品が両立する。極少数の選ばれた読者だけが、僅かに遅れてそれを読むことのできる幸運を手にするのである。
これが、江戸になってくれば話は異なる。調べたことがないのでわからないが、限界のあった人間印刷機である写本ですら組織的になったのではないか。日記の古典的な形態でありながら商業化を意識した、あるいは商業化の計画の一環としての作品が生まれたに違いない。

キーン氏は、一般読者に向けて、日記の変遷を丁寧に見せてくれる。ひとつひとつの日記を個別に紹介しながら、時折挿まれる大きな流れを外観する助けも借りて、読者は、短期間に歴史のうねりまでを実感することになる。時には、日本以外の日記や詩歌の引用により、その時代の日本の日記の特質を描き出して見せてくれることすらある。文庫本であってもポケットに入ると言うには無理のあるその厚みに圧倒される読みでのある本ではあるが、1000年を遥かに超える日記文学の歴史が目の前にあることに驚きを禁じ得ない。
高校生が学ぶ古典の日記は、平安時代と江戸時代がほぼすべてである。それどころか、日記に限らず学ぶ古典すべてに、この大きなギャップがあるように思われる。しかも文法解釈と現代とは異なる語意の理解に明け暮れるので、時代的なギャップに気づくことなく時間が過ぎて行く。勿論、そのような理解は個人的なものであって、実際にはそれ以外も学んでいるのかもしれない。しかし少なくとも、個人的にはそう感じていたことは事実である。
今、それが、平安の終わり、貴族から武家の時代変わりゆく中で失われた部分と、再び訪れた江戸の平安にルネッサンスのように現れた部分とのギャップであったと思いあたる。
なるほど松尾芭蕉が描いた旅は、曽良のような随行者が書いた旅と異なっていると学んだように記憶してはいる。だから、芭蕉の書いたことを鵜呑みにするなと。今思えば、その講義は正しくなかったのである。芭蕉は最初から事実を記録するつもりなどなかったのだから。
感じたギャップは、「作品」としての価値であり、「記録」としての価値において存在しているのではない。そんなことを思いながら、1200年の時の流れを身近に想う本である。

本の中で流れ行く時代は、江戸で終わりを告げる。欠けたその後の日記文学は、続編として刊行されている。鷗外や啄木など、いよいよ華やかな日記を収めるのに文庫で800ページとさらに多くの文字が必要だったということだろうか。
そして考える。果たしてWebの時代の日記を論評するなら、キーン先生ならどう扱うのかと。

最近読んだ本

百代の過客 日記にみる日本人 (講談社学術文庫)
ドナルド・キーン, 金関 寿夫 訳

世界を変えるデザイン――ものづくりには夢がある
シンシア スミス 著, 槌屋 詩野, 北村 陽子 訳