Bonne journée, Cross Cultural, Photo

jeudi

 「その昔」と文章を始めるのも気がひけるが、もはや黴臭い歴史の一部分になりかけたセピア色のバブル期は、時間軸が思いがけず地滑りを起こし始めた転換期だったのだろう。経済の話ではない。今や誰もそんな事に興味はない。週末の定義である。
 かつて週末の夜と言えば、土曜のきらびやかな時間を指していた。サタデーナイトはディスコティークと同義語だったし、汚れたワイシャツを身に纏ったゾンビが原色の街を徘徊しても誰も驚かず、その意味も了解できたはずである。もはや映画や音楽という歴史資料から紐解かなければならない遠い時間の彼方とは言え、まだまだ年末には美空ひばりが現役なのだから、大正浪漫と同義にできるほどの過去というわけでもない。
 それがしばらくして地滑りを起こす。週末の夜が金曜日にとって変わられるのである。ふくれた地下鉄が核心へ乗り込む金曜日と週末の馬鹿騒ぎの間には直接の関係はない。むしろ皆が集まって騒いだ土曜の夜は、もっとプライベートな金曜の夜へとすり替えられてきた。すっかりバブルがはじけて10年の夜が過ぎれば、それは夜どころか金曜の午後に移り、早く家に帰る口実ですらある。

 死刑囚のパラドックスと呼ばれるものがある。もはや死刑囚などという政治的に正しいかどうか疑わしい言葉が使われる時点でパラドックスであるのだが、そんなメタな話ではなく、よくあるパラドックスの例として知られたものである。
 死刑執行を独房で待つ希望のない囚人の元に、ある日役人が訪れる。とうとうその時が来たかと震える死刑囚に役人はこう告げる。
「あなたの刑は来週の土曜日までに執行される。あなたは、予めその日を知らされる事はない。それは禁じられており、お伝えできるのは来週のいつかという事だけだ。だが安心しなさい。執行の前日には知らせるから、あなたはその晩に神に祈ることができる。」
 役人が帰ると死刑囚は喜んだ。これで刑が執行される事はない。もし木曜日になっても何も通知されなければ、執行が最後の土曜日だとわかってしまう。なぜなら前日の金曜日には必ず通知されなければならないからだ。つまり、土曜日に執行される事はない。そうなると金曜日が執行される可能性がある最後の日という事になる。だが、同様に水曜日までに何もなければ、土曜日には刑が執行されないのだから金曜日が執行の日だとわかってしまう。つまり、金曜日も執行できない。そうやって考えれば、どの日にも執行することができない。死刑囚は、法の不備を神に感謝した。
 翌週の半ば、ゆっくりと昼食を食べ終えた死刑囚の元に役人は再び現れた。
「明日、刑が執行される。今夜は神に祈りなさい。」
 予想だにしなかった木曜日、刑は執行された。

 週末に囚われた都会という名の石の独房で、今日も人は誰かと時を共有している。その「時」がカレンダーや時計にしがみつかなければならない現実時間であるのか、ただの妄想なのかは案外分からない。
 たった今住むこのフランスの街の一角では、週末の夜は木曜日に訪れる。死刑囚のパラドックスとは関係ない。親しい人と過ごす週末のためには、悪い仲間と羽目を外すのは土曜日でも金曜日でもなく木曜日でなければならない。ただそれだけのことである。
 親しい人と過ごす週末は、土日ではなく、金曜の夕暮れが夜に変わった時から始まっているのだ。