Cross Cultural

Le pont et el puente y 橋

pont du gardThis article was written only in Japanese.

フランス南部にあるローマ時代の水道橋ポンデュガールpont du gard)はフランス南部を代表する橋のひとつである。もはや現役ではないが、2000年の時を隔ててそれはそこにあり続けている。人の住む気配もない渓谷を越えて、それは、かつて水を運び続けていた。そして今運んでいるのは、観光客とたゆまぬ時である。橋に向かって今は世界遺産として整備された観光客向けのゲートをくぐると、その先は渓流沿いの散歩道か公園といった景色となる。緩やかなカーブを曲がってふと現れるそれは、まさに巨大な石の建造物である。あまりに巨大で精密にできているため、200年前に作られたと言っても誰も疑わないだろう。だが、それでもその水道橋はローマの史跡としてそこにある。pont du gard

セーヌ川に架かるパリ最古の橋はポンヌフPont Neuf)である。17世紀初頭に竣工した情緒のあるその佇まいは、度々写真でも紹介され、パリ好きでなくとも何処かで見覚えがあるだろう。規則正しい石造りのアーチと橋桁ごとにある円柱を半分にしたような張り出しが、シテ島を挟んでセーヌ右岸と左岸をつなぎ、それは、400年にわたって歴史を見続けてきた。有名な橋には必ず事件やドラマがあるとでも言いたげなほど、その橋には歴史がある。

イタリアのフィレンツェにも有名な橋がある。アルノ川に架かるポンテヴェッキオ(Ponte Vecchio)は、あまりにも有名な橋であるがゆえに、すぐにはピンとこなくても写真を見れば誰でも「あぁ、あれか」となる。橋の上には宝飾店が立ち並び、橋を渡っているかどうかも一見分からない。こちらはフィレンツェで最も古い橋だそうである。

せっかくだから、スペインの世界遺産の橋にも触れておきたい。プエンテデビスカヤ(Puente de Vizcaya)はエッフェルの弟子が作った運搬橋である。橋には違いないが、普通の橋を想像すると大分違う。高い鉄の橋桁からワイヤーが下ろされ、運搬用のゴンドラを吊り下げている奇妙な形状なのだ。いろんな橋があるものだ。

フランス語やイタリア語が得意なわけでもないから、最近まで、こうした橋の名前は単に記号のようなものだった。フランスのかの世界遺産ポンデュガールはポンデュガールという名前でしかなかった。実はpontがフランス語で橋であることは知っていても、それは別なものだったのである。ラテン語系の言語でポンという発音が、あるいはpntで構成される言葉が橋であると頭が気付いた時、急にフランス語のpontとポンデュガールが繋がった。普段使わない言語とはそんなものだろうが、何か神経回路が再構成されたみたいで、奇妙な感覚である。

そうなると、つなぎ直された神経回路がささやき出す。ポンヌフは新橋だと(ヌフは新しいの意)。「巴里の中心を流れる川には大きな中洲があり、その中州に渡るなら新橋が良い。」などと書くと急に東京の話のように思えてくる。新橋という地名は日常ではそれ自体が記号みたいなものであって、新しい橋とは考えないだろうが、何処かで新しい橋という意味合いは感じている。フランスに住みフランス語を当たり前のように話す人にとっても同様なのではないか。日本に住んで日本語を当たり前のよう話す人が新橋と言う感覚でポンヌフと言い、なんでこんな古い橋が新橋なのかねと思うのではないかと。イタリア語はほとんど分からないが、こうなるとポンテヴェッキオも古橋であって(ヴェッキオは古いの意)、そのままの意味だ。ちなみに、フランス語で古いは vieux と音は似ているが語源が同じかどうかは分からない。

疑問を感じたら知り合いのフランス人に聞いて見れば良いのだが、これは案外難しそうだ。ほら、東京に新橋があるだろうなどと切り出しても埒が明かないのは明白だ。私の英語力では細かなニュアンスまでは伝わらないだろうし、相手も英語は道具であって感情までを伝える言語ではない。フランス語は挨拶程度なので話にならない。結局はポンヌフと新橋の差は分からないのだろう。

ラテン語系の三姉妹ついでに言えば、よく知られた新聞のルモンド(le monde)は、そのまま「世界」である。ワールドカップは、フランス語ではCupe du monde であって、スペイン語だとCopa del Mundo となる。なんとなくラテン語系の言語間の変換ルールが見えそうでもある。だからと言って、ヨーロッパに住む人が母国語以外に複数の言語を話すのが当たり前だということにはならない。日本語とフランス語を覚えるよりスペイン語とフランス語を覚えるほうが簡単ではあろうが、ゲルマン系のドイツ語とフランス語はだいぶ異なっている。ヨーロッパに住む人は、必要があるから努力して他の言語を覚えているということだろう。先日、テレビを見ていたら、ポーランドだったかどこだったかの比較的ヨーロッパ北東部の国の人が、フランスの会社が運営する船の乗務員としてスペインを航行する船上でインタビューされていた。岩手県出身の人が、大阪の船会社に就職し、現在は鹿児島の観光船で働いているという感覚なのかもしれない。だとすれば、必要なら努力して他の言語を覚えるのが当然という思いに至っても不思議ではない。

何はともあれ、次回チャンスがあれば、パリの新橋を訪ねてみることにしようか。

pont du gard

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Where is Steve

20130928

日本語は後半に

One week of exciting, thrilled and bit strange experience has been passed after my usual updating the OS on my iPhone. As you know, it was same as the well known formula Apple had. A lot of improvements and new functions, charming user interfaces, adding small but useful tips etc. The iOS team made a good job. However, I still have a question: where is Steve.

Of course, the interface of iOS7 is simple enough as you see and I’m not saying the software architecture seems complex. A question is perhaps what “simple” means. To see an animation when you go back to the home from an application for example, the visual effect looks slightly busy compare to the traditional context of Apple way. Icons is also simple but vivid.

When you see a pictures you took, you might find an unexpected object in it. One of the reason is, when you see something, you see only what you want to see. While you look at something charming through a finder, it is natural to escape the attention of trash bin at the bottom right of view. Such a additional information may make it busy.

Apple would have found a good word to explain the new interface. The word “flat” sounds well. A skeuomorphic designing method may not give a simple impression today. I suppose Apple needed to move toward the future. It would be just on way to the next.

It seems to be a time to go back to the question. It is said that Steve Jobs knew Zen culture which affected his idea. But I don’t believe it. Probably he had his own criteria as everyone does. At least, his strong leadership would be an Apples criteria. When he said yes, it was simple.

いつものようにiPhoneのiOSをアップデートして、素晴らしいような、でも少し変な感覚でこの一週間が過ぎた。いつものApple。様々な機能追加に魅力的なインターフェース。iOSチームはいい仕事をしたということだろう。だが、どこか疑問が残ったのである。ジョブスはどこに行ったのかと。

確かに相変わらずシンプルなインターフェースであるし、ソフトウェア構造がどうのこうのという話ではない。ひょっとするとシンプルとはどういう意味かという話なのかもしれない。ホームボタンでアプリから戻る時のアニメーションがどこかうるさかったり、シンプルなアイコンが派手過ぎたり感じるのだ。

撮った写真に予想していなかったものが写りこんでいることがある。理由のひとつは、人間が見たいと思っているものだけを見ようとすることだ。素敵な何かをファインダー越しに見ている時に、隅にあるゴミ箱には気が付かないものだ。

Appleは新しいUIにフラットという良い単語を見つけた。現実のメタファーは、現代では必ずしもシンプルな印象を与えない。恐らくは、Appleは次世代に向けて動き始める必要があったのだろう。

最初の疑問に戻ってよいころだ。ジョブスは禅をよく知っておりそれが彼の考え方に影響を与えているとも言われている。個人的にはそうは思わないが、おそらくは、彼は彼自身の基準を持っていて、彼の強いリーダーシップがAppleの基準になってはいただろう。彼がイエスと肯いた時、それはシンプルだったのだ。