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陶器のすすめ
(This article was written only in Japanese)
焼き物は使ってこそ良さがわかるというものだろう。飾りの少ない陶器ならなおさらだ。銘のあるような骨董品や広く知られた作家の作品となると気が引けるが、普通に買うことが出来る器なら日常に使いたい。以前にもそんな記事を書いたが、なかなか気に入った器に出会うことは少ないかもしれない。元来は工芸品であって、大量生産こそできないものの、一点ものとして大事に保管する類の芸術品というわけでもない。だから、そこそこ気に入ったものを手にとって、直感的に買うのが良い。
ライティングに気を遣い、その微妙な丸みや表面のテクスチャ映えるようにディスプレイされた器を見て、あれやこれやと悩むのも良い。一緒に飾られた観葉植物と見比べながら、家に置いた姿を想像するのも良い。だが、無造作にたくさん並べられた器の中から無造作に選ぶのも悪くない。そうして無造作に並べられた器を見ていると、全般に土色の陶器にもカラフルな色が見えてくる。
あか、あお、みどり、茶、黒、白、灰、オレンジ、朱、碧、藍、夫々に名前があり、組み合わせは無数となる。じっと見ていれば、それは寧ろ溢れかえる色であって断じて土色などではない。クチから高台(糸切り、脚の部分)に向かって流れ落ちる白に淡い青を感じることもあれば、黒々とした釉薬が赤く見えることもある。だから無造作に並べられた中から好きな色を探し出すだけでも迷うことになる。お店の人があれやこれやと考えてディスプレイしたその提案を受け取るのも良いが、自分で想像してみるにこしたことはない。何と言っても使っている姿を使っている人の視線で想像出来るのは、紛れもなくその本人だけなのだから。
それだけではない。形状も様々だ。皿に角皿や丸皿といった様々な形があるように、湯呑みもカップも様々であり、大きさが異なる。それは日常の器なのだから当たり前である。だが、同じ形の同じ色の茶碗を見ても、店頭にある同じ茶碗が必ずしも同じ形ではない。微妙に丸みが異なり、口の大きさが異なり、手に取れば厚みも異なっている。手作業であるが故に全く同じものを作ることは出来ないし、手頃な価格の製品はひとりが作っているわけではない。違いがあって当然なのだ。そうやって微妙に違った中から気に入った物を探す。多少の歪みが面白いこともある。釉薬が変色していても良い。今時は電気釜(小さな釜は電気、商用の大きな釜はガス)であって均質に焼けてはいるが、それでも個体差はある。時には、部分的に焼けたように見えるものもあるが、特ににする必要はない。それが気に入ればそれで良い。
焼き物には詳しくないが、子供の頃から連れられて度々買いに出かけていたから、器を選ぶ楽しみだけは知っている。もし、正しい楽しみ方があるなら、それについては自信がないが、自分なりの楽しみ方があればそれで良いではないか。そう思うのである。(写真は全てこの夏の益子のもの。)
庶民的な陶器を楽しみながら選ぶ10の方法
1. 迷ったらシンプルで伝統的なものを選ぶ
伝統にはそれなりの理由があって、ずっと長い間守られてきたもの。だから、ちょっと古臭くても多くの人が選んできたのであって、間違いがないというより「いいね」がたくさん付いているという事。先達を信頼して伝統を選択するのが良い。もちろん、デザインは少しずつ変化して当然だから、モダンなのに伝統的と感じたら、それはきっと当たり。
2. 4つ欲しいと思ったら5つ買う
なんだか気に入ったし、家族4人で使いたいから4つ買おうかな。そう思うなら5つ以上買うこと。陶器は欠けやすい。欠けたから追加で買おうかなと思っても、すでに同じデザインはなくなっていると考えた方が無難だから。もちろん、お客様用もありだし、気を遣わないですむということは普段から使えるということで、ぜひ+1を。もちろん、違うデザインの組み合わせも可。幾つも並べられた違った器が何故か統一されて見えるというのは上級者コースかもしれないが、同じ窯で作られた器は不思議と違和感が少ない。以前、神保町にあったある喫茶店では好きなカップを選んでそれにコーヒーを淹れてくれたが、そんなに沢山なくてもきっと楽しい。
3. 実用的な物を選ぶ
使いやすいことはもちろん、洗いやすいこととも考えて、実用的な器を選ぶのが普段使いには重要。他と違った装飾の多い器は見た目にも楽しいが、いざ使うとなるとためらうようなことも。コーヒーカップは片側に重さがかかるから、飲み物を入れると急に重く感じるわけで、普通の輪になった形状が結局は好ましい。厚みも重要。磁器のような薄く透明感のある器も魅力的だが、磁器と違って陶器は強度が少し弱いから、多少厚みのあるものが無難。試しに強く押してみると僅かに歪むくらい(試すのはお勧めしない)だから、あまり無理のない厚みの物を選択すること。その方が素朴で味もあるし、熱い飲み物には唇にも優しい。
4. 買う時は歩く
窯が違えば形も色も違う。特定の窯を扱う店もあれば、いろいろ揃えている店もある。地元の土とは限らないし、最近移ってきた作家さんの作品を扱う店もある。気に入った物を探すなら、多少歩くのは厭わないこと。歩いて探し回っているうちにお腹が空いて、美味しそうなケーキでも見つけてしまったらそれはもう仕方がない。運命に身を任せる。そうするしかないではないか。
気に入った器を選ぶのに分からないことなどありそうにもないが、ともかく分からないと思ったならお店の人に聞いたほうが良い。例えば陶器は脚のところがザラザラしているのが普通で、なんとなくテーブルを傷つけそうなどと考えてしまう。同じデザインでもこちらのほうが釉薬の流れかたが良いのだけれど、だいぶザラザラしてるから違うほうにしようかな、などという時は先ずは聞いて見る方が良い。この程度ならこれで大丈夫と脚どうしを擦り合わせてハイおしまいということもあれば、丁寧に砥石で磨いてくれることもある。先ずは何でも聞いてみること。但し、忙しい時に世間話が長いのは相手も困るし、「これ、何に使うの?」は愚問だからほどほどに。意図する用途はあるだろうが、徳利を一輪挿しにしたって誰も文句は言わないのだから。
6. 商品を大切に扱う
陶器は割れやすい。そんなことは当たり前だが、それだけでなく、他の人が困らないように見たらきちんと丁寧に戻すこと。乱雑に置かれれば次に手に取る人も気を遣わざるを得ないし、ばらばらに置かれたら選ぶ事も難しい。もちろん、高価なものも含まれている。都会のお洒落な店なら高価なものはそれらしく置かれているかもしれないが、写真で載せた益子のような生産地だと案外適当に置かれている。以前に棚の上の方をなんとなく見上げたら、有名な名前が無造作に書かれていて、びっくりするような値段がついていた。それもまた生産地の良さであるし、だからこそ客にも礼儀があろうというもの。陶器に限ったことではないが、商品は丁寧に扱うこと。
7. 日本語が上手くなくても侮らない
益子の街を歩いていると、時々たどたどしい日本語を聞くことがある。古民家のような店構えの店舗の前でそれを聞くと、あぁ遠くから来た客人かなとつい思いたくなる。だからといって、単なる観光客と考えてはいけない。ひょっとすると、自分よりよほど焼き物に詳しい達人ということも。世界中に陶器はあるから、世界の手法を学ぶために日本に来ている研究者や気鋭の若手の可能性だってある。日本語が下手だからといって侮るなかれ。話をする時は対等の立場で接すること。その昔、バーナードリーチだって益子にいたのだから。
8. 周囲のレストランやカフェも楽しむ
こう書きながらなかなか実現できていないのだが、レストランやカフェも楽しみたい。人が集まるところにお洒落なカフェがあるのは自然なこと。であれば、歩きながら見つけた手近な店を選ぶというよりも、ちょっと調べて美味しそうな店を訪ねるのも良い。今時、Google mapにでもあたれば、田舎の小道の奥深くにある小さなカフェを探すことだって難しくはない。まして、観光地と言うには静かな焼物の街なら、喧騒を離れてのんびり過ごせる可能性もある。もし、そこで陶器のカップが出てきたら、それこそラッキーというもの。写真好きなら1枚撮ってるに違いない。ついでに古くからあるお寺にでも立ち寄って、街そのものを楽しむもよし。周囲の環境まで楽しむこと。
9. ろくろ体験
時間があるなら自分で器を作ってみること。思ったようには出来ないが、それなりの形にはなる。益子には、ろくろを回せるところがいくつかある。やり方を丁寧に教えてくれるから、初めてでも全く問題ない。ろくろを回しているうちにグニャリと曲げてしまうお馴染みの映像だって、間違いなく目の前30cmの近距離でライブで経験できる。であれば、先ずはやってみるほうが器選びも楽しいに決まってる。そうやって難しさと楽しさを知ることで、何を選ぶかも違ってくるにちがいない。出来上がった器を見ながら何色にしようかなと悩むこと自体が、色を知る機会ですらある。この釉薬の青は深くこちらは淡いなどと悩んでいる時に伝統色を学んでいるのだ。時間がないとかろくろは自信が持てないとかということなら、手捻りという方法もある。絵付けも手軽だ。ともかくも自分で作ってみれば、違う側面も見えてくるだろう。そうして、ろくろを体験し、出来上がりがひと月先と決まった時、その苦労も理解できるに違いない。
10. 感謝の気持ちを忘れずに
手に入れたら、ともかくも使ってみること。感謝の気持ちを持って使ってみれば、良いところも悪いところも見えてくる。そうして、もっと大きな持ち手が良いとか、案外濃い色はご飯に合うとか、逆にコーヒーには内側が薄茶色が良いとか、もっと平たい形状が良いとか、次に買う時のヒントが見えてくる。だとすると、次に買う理由ができるではないか。
本屋の店頭とゴミ箱

(The article was written only in Japanese) 店先のディスプレイや通りの様子を見ていると、その街の個性や住む人の意識がぼんやりと分かってくる。それは、旅行者が、例えばその地域固有の古い建物に目をやり、その歴史に思いを馳せることとは少し違う。むしろ、生活空間の空気を感じる事であり、今そのものに微かに触れることである。東京に残された日本庭園や神社仏閣を訪ねつつの街歩きの途中で、ヨーロッパからの旅行者が、ふと見つけた小さな道祖神や語りかけてくる自動販売機に興味を持つ。日本からの旅行者が、初めてのパリの早朝の街角で、都会に響く教会の鐘の音や通勤通学の前の道路清掃を新鮮な驚きとして感じる。そうやって、少しづつその街やそこに住む人々が見えてくるのだろう。
日本に住んでいて当たり前と思っていたが、そもそも東京の密集した住居自体が驚きなのだそうだ。高いビルから遠くまで広がった住宅街を見た知人は、すぐさま写真を撮りたいと興奮気味であった。そんな時、どこが面白いんだと聞いてはいけないのだろう。私のように、何回か行っているフランスの街で、カフェの前に停められた普通のイタリア車の写真を撮ったり、普通の川にかかった普通の橋に興味を持ったりするような輩からは聞かれたくないに違いない。
そのような意味では、本屋の店頭は案外面白い。その国の今がわかるとまでは言わないが、空気のようなものを感じることがある。例えば目立つように置かれた旅行ガイドからは、人気の旅行先が見えてくる。児童書を見ると、案外定番の有名作品は同じなんだなと発見がある。そうやって感じるのは、フランスの相変わらずの日本びいきである。正確に言えば、フランス人の多くが日本を好奇心をもって見ているわけではない。ましてや日本好きが必ずしも多いわけではない。それでもなお、本屋の店頭には日本に関する本が並んでいる。今、社会を支えている若い層が、日本製のアニメを見て育ったからという話もあるが、定かではない。19世紀後半にあったジャポニズムを考えれば、今に限った話でもない。ただ、少なくとも本屋の店頭を見れば、日本に関する関心が高いということは想像できる。良かれ悪しかれ関心をもってもらうことは重要で、互いに関心があるからこそ交流も生まれるというものである。
街角のゴミ箱ですらその街を想像する材料となる。20年近くも前になるあの事件以来、日本では街角でゴミ箱を見ることが少なくなった。それが、フランスの街角には多く残っている。日本と同じように分別が進んでいるのは同じだが、どことなくオシャレに堂々とあるところが大きな違いだろうか。「日本の街はきれいだよね」とフランスからの知人が言うくらいにフランスの街角にはゴミが多いが、それは何を基準に見るかということであって、そのまま受け取ってはいけない。フランスではプラスチックバッグが鳥と一緒に空を舞っていることもなければ、ペットボトルが車と競争していることもない。そして、汚れていそうなゴミ箱の周りも案外きれいである。朝一番に道路の清掃が行われたりもする。ようは、そこに何を見るかだろう 。

そうやって考え出すと、つまらない物にも興味が向くことになる。洗濯物はどこに干すのか、それともドライヤーで乾かすのが普通なのか、あの汚れた車はいつどこで洗っているのか、普段の買い物はどこでするのか。残念ながら、観光旅行で郊外の大型スーパーを訪ねるなどということはあまりないだろうが、実は案外面白い。広さに任せて卓球台が延々と置かれていたりするのを見て、買ったらどこに置くのかなと思ったり、馬具が並んでいるのに驚いたり、日本とは違う様子に興味は尽きない。ヨーロッパからの旅行者が、キラキラと夜も輝く自動販売機の列に思わずシャッターを切るのとも似ているだろうか。
まぁ、そんなわけで、いつも見慣れたゴミ収集車の写真を撮ってしまうわけである。変なやつとだけは思われたくないが。
Photo panoramique: autumn roses
秋の薔薇は春に比べると少しさびしいが、横浜イングリッシュガーデンには多くの薔薇が咲いている。先日の台風のせいか、多くの花が傷ついている。それでも十分である。この季節は、花が徐々に少なくなる季節なのだから。
Autumn roses looks quieter than spring but you would see so many roses at Yokohama English Garden. Many flower’s petal are scratched probably by typhoon having gone through close to Yokohama last week.
A Book: バルセローナにて
そもそもヨーロッパ史は単純ではない。中高生に教えるいささか単純化された歴史は、それをよく知っている人にはよくまとまっていると思えても、恐らくは、学ぶ側から見れば単純化され過ぎて意味不明なところが多いだろうと思う。重要な事件は書かれても、その事件がおきた背景はひとことだったりする。曰く、「重税に不満をもった群衆が蜂起し王は幽閉された」の類である。そこには重税の背景も他国の侵攻も書かれない。10行前に隣国の貿易による台頭は経済状況として触れられているし、直接の原因ではないからだろう。残念なことに、多くの中高生にとっては、その事に気付くのはずっと後になってからだ。テレビのクイズ番組で見たとか、旅行の予定があるので少し調べたとか、何かのきっかけで興味をもったことで歴史の意外な背景を知るといった類である。
ヨーロッパ史にはなかなか理解が難しい部分がいくつもあるが、広範囲におよぶローマ史などよりも、スペイン史やハプスブルク家にまつわる歴史のほうが、ずっと難解だと感じている。例えば、必ず教科書に出てくる神聖ローマ帝国皇帝カール5世(Karl V.)がカスティーリャ女王フアナの子であったり、スペイン史にイスラム文化やケルト文化が登場したりすると、地理的な知識と混じってわけがわからなくなるのもうなずける。スペイン史と「幸いなるオーストリアよ、何時は結婚せよ。」は、そう簡単には結びつかない。
その上、観光ガイドはこう告げる。「スペインはスイスならぶ山岳国家である」と。まぁ、確かにそうだろうなと思わないこともない。フランス国境に横たわり、スペインをむしろアフリカと結びつけたがるピレネー山脈は、雪を頂く厳しい環境である。時にツール・ド・フランスの山場のひとつとなる。実家がピレネー近くという知人が言うには、谷間の村がとても綺麗でバカンスを過ごすには良いところだそうだ。
そんな背景を知って最初の「アンドリン村にて」を読み始めると、その厳しい自然描写とお節介だったり一風変わっていたりする人々の様子とが、鮮やかにイメージされてくる。雨と霧が覆う山岳地域は夏でも急激に気温が下がり、一方でアンダルシアでは40度の熱風が大地を覆う。思いのほか多民族であるスペインの小さな村は、美しくも微かな影を抱く。そこに住んでみたいという堀田善衛の想いは、読者をも同じ気持ちへと誘う鮮やかさである。
そうして作家に誘われ、小さな村のささやかなスペイン滞在を楽しみながら、読者はそこに暮らす人々と交流し、時に戦争の惨禍を思い描き、時間をも超えて行く。次の街はグラナダである。いや、正しくはグラナダなどではない。もっと大きな光と影と言うべきである。そう気がついた時、読者は完全に堀田善衛の見る世界の中にいる。
これ以上はここに記載すべきではない。もし、まだ未読なら自分で読んで感じなければならない。そうしなければ、この作品の魅力は恐らくわからない。文庫化されているから少しでも興味があれば読まれたい。コーヒー1杯の価格でできるスペインツアーは、普通のスペイン観光よりは、少々影が濃い。
最近読んだ本
バルセローナにて (集英社文庫)
堀田 善衞 著






