If you’re wondering whether to buy soup of crab or of seafood from the local port, it’s fun to just think about buying both.
カニのスープを買うか、地元の港でとれた魚介類のスープを買うか迷ったら、両方買おうなんて考えるだけでも楽しいですよ。
A Part of Mostly Monochrome Monday

capturing in prose

アメリカ大統領選だろうが、都知事選だろうが、どんな報道を見ていても同じようにしか見えない。それがいい加減な連中の茶番を見ているからなのか、自分の中で関心が薄れてしまっているのか、とんと分からない。それでも時間は流れ、地球は寸分違わず太陽を周り、自分はといえば喉が乾いたななんて思っていたりする。直接的に物事を見るなら、しっかり社会に関心を持って日々を過ごすことが必要ということなのだろうが、ちょっと身を横に避けてみるならば、茶番に付き合わないよう過ごす術を覚えることなのではないかと思い当たって少し悲しい。それでも時は流れてしまうのだから。
紫陽花の花が終わって茶色になり始めたのを季節が進んだことの証と思うのは簡単だが、案外、人はその茶色になった紫陽花を見ようとしない。茶色になった頃だから見えるその色を美しいと思うか否かは人それぞれ。気が付かないのは、枯れ始めた紫陽花に関心がないのか、それとも身を引いて見ているのか。
枯れかけた紫陽花って、案外綺麗ですよ。

L’artiste ne doit pas copier la nature mais prendre les éléments de la nature et créer un nouvel élément.
Paul Gauguin
アーティストは自然を映しとるのではなく、自然の要素を取り込んで、新しい要素を作成するのです。
ポール・ゴーガン
ありきたりな言葉にも聞こえるが、これをゴーガンが言うと説得力のある強い言葉にも聞こえるのが面白い。実際のところ、タヒチやブルターニュの自然を大胆に描いた作家のようで、意外に生物を描きこんでいないのが、ゴーガンでもある。
ゴーガンの絵は、明確に印象派を否定しているかのようである。それは西洋絵画に詳しくなくても一目見ればわかる。大胆で強い筆の運び、色彩を否定するかのような深く沈んだ色、その風景の印象よりも内省的な風景を重視するかのような題材。印象派の最後に属しながらポスト印象派に向かって行った時代のようなものがあったのだろうか。今ではその絵の価値を評価されながらも画家という人間としては否定的な見方も多いゴーガンであり、単純に褒め称えて良いものか躊躇はするが、自然から新たな要素を見出して表現してきたのだろうことは否定できない。
ブルターニュに移ったばかりに描いた素朴な絵を見て、その後にタヒチからブルターニュに戻った後に描いたタヒチの絵を見れば、その間のタヒチの少女たちとの関係を考えざるを得なくなる。もはやそれを差し置いて評価はできない。それでも上の言葉が表面的なものではないのだろうと考えられるのは、やはり絵の力なのである。
Paul Gauguinの日本語表記は、近年ポール・ゴーギャンからポール・ゴーガンに変わってきたように思います。今回は、少し本来の発音に近いゴーガンとしました。また、冒頭の写真はタヒチの海岸やブルターニュの田舎ではなく、先島諸島のものです。ブルターニュの写真もありましたが、より楽園のイメージに近いと感じたこちらの写真を使いました。