Art, Bonne journée

L’artiste ne doit pas copier la nature

L’artiste ne doit pas copier la nature mais prendre les éléments de la nature et créer un nouvel élément.
アーティストは自然を映しとるのではなく、自然の要素を取り込んで、新しい要素を作成するのです。

Paul Gauguin
ポール・ゴーガン

 ありきたりな言葉にも聞こえるが、これをゴーガンが言うと説得力のある強い言葉にも聞こえるのが面白い。実際のところ、タヒチやブルターニュの自然を大胆に描いた作家のようで、意外に生物を描きこんでいないのが、ゴーガンでもある。
 ゴーガンの絵は、明確に印象派を否定しているかのようである。それは西洋絵画に詳しくなくても一目見ればわかる。大胆で強い筆の運び、色彩を否定するかのような深く沈んだ色、その風景の印象よりも内省的な風景を重視するかのような題材。印象派の最後に属しながらポスト印象派に向かって行った時代のようなものがあったのだろうか。今ではその絵の価値を評価されながらも画家という人間としては否定的な見方も多いゴーガンであり、単純に褒め称えて良いものか躊躇はするが、自然から新たな要素を見出して表現してきたのだろうことは否定できない。
 ブルターニュに移ったばかりに描いた素朴な絵を見て、その後にタヒチからブルターニュに戻った後に描いたタヒチの絵を見れば、その間のタヒチの少女たちとの関係を考えざるを得なくなる。もはやそれを差し置いて評価はできない。それでも上の言葉が表面的なものではないのだろうと考えられるのは、やはり絵の力なのである。

 Paul Gauguinの日本語表記は、近年ポール・ゴーギャンからポール・ゴーガンに変わってきたように思います。今回は、少し本来の発音に近いゴーガンとしました。また、冒頭の写真はタヒチの海岸やブルターニュの田舎ではなく、先島諸島のものです。ブルターニュの写真もありましたが、より楽園のイメージに近いと感じたこちらの写真を使いました。

Cross Cultural, Photo

Floral Friday #176


 梅雨に入る前から暑い日々が続いてきたのですっかり季節感がずれているらしい。この写真はフランス北西部で撮ったものだが、6月といえばようやくこんなアイリスが終わる頃のはず。どうして朝からかき氷を買ってるんだ?なんてぼやきもでる。

 夏至は1週間前だから、欧州だと今が一番暑い季節。学校も年度終わりで長い夏休みに入り、毎週のようにあった街のイベントも、夏至の日のLa fête de la musique(音楽の日)を最後にほとんどが終わって静かな日々が戻ってくる。西日が暑いから夜は木陰で冷たいものを飲み、間も無く来るバカンスまでカレンダーを数える日々だ。

 その点、日本は沖縄を除いて梅雨の時期で、東京近郊は通常なら最高気温25度の蒸し暑い日が続く。子供達にとっても夏休みはまだまだ先だし、サラリーマンといえば濡れた服を乾かしながら梅雨明けを思うのがルーチンワークみたいなもので、夏休みのかけらもない。ジリジリとした夏はずっと先の事だ。

 それなのに、今年は梅雨の前に30度の夏が来た。もう夏の花が咲き始め、毎日Tシャツで過ごせるほどの気温である。ようやく雨が多くはなったとはいえ、今頃はどんな花が咲くんだったかななんて考える。まさか梅雨が明けたら連日35度ってことはないよね。

Photo

Mostly Monochrome Monday #360


The road was narrow, surrounded by a fence, not straight, and impossible to see ahead, that was yesterday, and I of today know it is a straight shortcut.

その道は狭く、柵で囲まれ、まっすぐではなく、前は見通せなかった。それは昨日の話だが、今の私にはそれがまっすぐな近道であることが分かる。

A Part of Mostly Monochrome Monday

Cross Cultural, Photo

Floral Friday #175


 今年はバラも紫陽花も早くてもうほとんど終わりかけている。近所の空き地のヒルガオは随分と早く咲き始めたなと思ったら、夏前の草刈りで根こそぎ無くなり、もはや夏の様相を見せ始めた。そんな状況の割には梅雨入りは遅れている。あまり雨量は多くはないもののすっきりと晴れない日も多かった春を思えば、梅雨は前線の動きでしかないイベントにでもなってしまったようだ。

 最近は混雑しているスーパーや病院以外ではマスク姿も見かけなくなって以前の生活が戻ってきたが、あの不思議な時期以降、どういうわけか街中に出かけることが億劫になってきている。人の顔を見に出かけたって何も面白くないと気がついただけなのかも知れないが、どこかで生活が変わってしまったようでもある。無理してでも出歩かないと、何もしないことに慣れてしまうような気がして落ち着かないということもある。ひとり、カメラを抱えて公園の花の写真を撮りに出かけるのは、何かしないと何かが壊れてしまうと感じる根拠のない不安への対応みたいなものだ。その何かが何なのかは答えがないのだから。

 まあ、半分は運動不足解消のために、カメラというウェイトを持って歩いているというのが本音ではある。そのウェイトも重い一眼レフに重いレンズだったものが、軽い小さなミラーレスへと変わり、最近はiPhoneだ。それで十分なのだから仕方ない。たったひとつ都会に住むメリットがあるとすれば、運動不足解消とか言いながら、黙っていても5000歩くらいは歩いてしまうということか。

 やっぱり写真でも撮りに行こう。