
Bignonia capreolata(ビグノニア・カプレオラータ)という名前だそうだ。写真ではわかりにくいがノウゼンカズラの仲間で、なんとも気怠いオレンジが暑い季節を感じさせる。ただ、真夏に咲くノウゼンカズラと同じ科だと知っているからきっと暑い季節を感じるのであって、実際の花期は4月から6月。夏の花ではない。近寄ってみるとカレーに似た香ばしい匂いがして、やっぱり夏の花なのかなと勝手な勘違いをしてしまうあたりがまた面白い。別名、カレーカズラだそうである。
capturing in prose
春の盛りという表現があるかどうか知らないが、春の成熟した最も強い時期を過ぎて、むしろ初夏のような気候が続いていた4月とその続きのGW。横浜だったら5月上旬といえば最高気温の平均が22度くらいのような気がするのだが、どういうわけか連日25度で、夏の花が似合いそうだった。おかげで半袖1枚で過ごせたのはよかったのだが、なんとなく夏みたいな格好で街中を歩くのには気が引けてしまったのは、世間を気にしすぎということか。
ようやく平年並みの気温に戻って思い出すのは、春はそもそも気温の振れ幅が大きい時期だということ。フランスの知人曰く、「好きな格好でいればいいんだよ」。はい、ごもっとも。誰かに合わせたところで何のメリットもない。自分が暑いと思えば夏の格好、寒いと思えば冬の格好で過ごせば良いのだ。
桜の蕊降る公園へつながる赤く染まったコンクリートの通路をスニーカーで歩きながら、ようやく強さを増した陽射しを楽しむように空を見上げた。どこか靄のかかったような青が、淡い緑の隙間から漏れ出し、パステル色の春風が心地よい午前が足早に過ぎようとしていた。ふと気付けば遠くからちょっと調子はずれのトロンボーンが聞こえ、晴れ間を楽しむ人々が広場で自由な時間を過ごしているのだろうなどと勝手な想像をしながら、公園への階段をひとつ登った。誰かが笑う声がした。その方向へと足元を見ていた顔を上げ、どこか既視感のある一歩をまた進んで、ブルターニュの広場だったかなと思いあたった。そこでは楽器がいつも身近にあって、いつも行く広場ではハープだったりバグパイプだったりと、その時々でいくつもの音楽があった。
整備された森が続く少し大きめの公園の入り口に用意された広場は、冬の間に傷んだ階段が整備され、芝生の上では子供達がバトミントンのシャトルを追って駆け回っていた。その隅にあるベンチで、その調子はずれの音楽家は、音を外すたびに笑いながら何度も同じ旋律を繰り返した。オズの魔法使いでジュディ・ガーランドが歌った「虹の彼方に」。
虹の彼方の
空高いそのどこかに
子守唄で一度聴いた
その国はある
虹の彼方の
その空は青く
信じることができたその夢は
実現するという
そんな歌詞の子守唄あたりでどうしても音が外れてしまう。そのトロンボーンが心地よかった。正直に言えば、もちろん「調子っぱずれ」で時に濁ったような金属音のする楽器よりも、どうせならゆったりと響き渡る金管楽器の音楽を聴きたかったわけだが、それ以上に身近な場所に流れる現実の音に惹かれたのだ。きっとそのいつも同じところで音がはずれてしまう日曜音楽家が、恥ずかしそうにする訳でも照れるわけでもなく、ただひたすら「虹の彼方に」を楽しんでいることに心地良い時間を感じとったのだろう。
歩き始めるとバトミントンの子供達の笑い声が遠くで聞こえた。まだ自分が夢を信じることが出来た頃に見た夢は、いつか実現したのだろうか?どんな夢を見たかも忘れてしまった今、それが実現したのかどうかすら分からない。調子はずれの「虹の彼方に」は、そんな自分に合っているのかもしれなかった。きっとそれでいいのだ。
外国が自分とそれ以外という区別でしかなかった子供の頃、その色彩に目がチカチカとして驚かされたラウル・デュフィの絵も、ガラス細工のように耳元でキラキラと音が輝いたモーリス・ラヴェルの音楽も、フラミンゴが飛び立つカマルグの湿原も、甘さが口の中に絡みついて離れない濃厚なミルフィーユも、気がつけばいつか身近にあった。だから夢だって既に手にしているのだ。ただそれがなんだったか忘れてしまったというだけのこと。ヨーロッパに行くと街中に音楽が溢れているんだよ、なんて聞かされて、どこかそんな街に憧れを抱き続けていていたはずの自分が、こうして生まれ育った日本の公園で「虹の彼方に」を聴いている事だけで十分なのだ。調子はずれの「虹の彼方に」が漂う公園を歩くのは、それだけで楽しいひとときとなった。
公園をぐるっと歩いて新緑を楽しみ、どこか湿った空気と乾いた陽射しが混じり合った場所で立ち止まって空気を吸い込んで、また歩き出す。それはクジラが時々海の中から顔を出して呼吸しているみたいだった。周囲をよく見回せばそんなクジラがたくさん歩いている。誰もが皆、春の空気を感じて深呼吸を思い出したのだろう。
整備された歩道の先を見れば、少し陰になった森の斜面にたくさんのシャガが咲いていた。シャガは3倍体の帰化植物だそうだから、自生することはない。人の手でなければ広がる事もない。だから公園を管理する事務所が植えたものなのだろう。それでもコントラストの低い日陰でひときわ白く輝くシャガは、誰もが足を止めるほどに美しく咲いていた。
こちらに向かってきたカップルも例外ではなかった。ラフなジーンズにしっかりとしたシャツを着たがっしりとした体つきの男性は、シャガになど興味が無さそうに連れの女性ばかりを見ているようだった。一方の女性は小綺麗な格好で、しきりに何かを男性に話しかけながらシャガの方に手をのばしていた。指先に花軸を取り、男性に何かを言って、また花軸を握り直した。おそらくはシャガの花を摘もうとしているのだろう。男性も何も言わない。それはあまり愉快とは言えない風景だった。その小道を通るたくさんの人が楽しむであろうシャガの花を誰かが一人手折ればその次からは一輪が欠けてしまう。そこを500人のひとが通り、10人に一人が花をとれば、そこにあるシャガは一輪も無くなるだろうと想像ができた。だが、やがてその女性は手折ることをやめ、森を再び歩き始めた。
不愉快な瞬間が過ぎ去って自分がシャガの群落に近づいてみても、どこかしっくりとしない感覚だけは残っていた。そうしてカメラのファインダを覗き込み、シャッターをおした。ファインダを覗き込んで見たシャガは白く透明で、中央から紫や黄色のインクが染み出して来たような美しさで見えた。シャガの花を手折ろうとした女性の気持ちが少し理解できた。
「虹の彼方に」の流れる広場に戻ってみると、すでに調子はずれのトロンボーン奏者はいなくなっていた。まもなく昼時。練習を終えて家に帰ったのだろう。ただ、バトミントンをする子供たちとそのさらに向こうでバイオリンを弾く日曜音楽家がそこには残っていた。子供達の歓声の向こうでバイオリン奏者は次の曲を奏で始めた。虹の彼方に。
いつの日か星に願う
雲を遥かに超えて目覚めれば
困りごとなどレモンドロップのように
煙突の傘の上に溶け去って
君は僕がそこにいると気づくのだ
虹の彼方の
青い鳥が飛ぶ場所で
鳥たちが虹を越えるなら
次はきっと自分が飛び越えるはず
この文章は、4月の中旬に作成し、4/21のFloral Friday 113でポストしたシャガの写真と共に使う予定でした。ところが読み返してみるとどこかしっくりこないように感じられる部分がいくつもあったため、結局Floral Fridayとして別な短い文章と差し替えました。今回は、文章を修正したうえで改めて、別な写真とともに公開しました。なお、Over the rainbowの日本語訳はtagnoueオリジナルです。