
茶色になった去年の夏の記憶のカケラが
空からクルクルと落ちてきて、
それを手のひらで受け止めようと走り出すと、
無邪気な畑の番人は
緑色の湿ったため息を吐き出しながら
そっぽを向いた。
capturing in prose

茶色になった去年の夏の記憶のカケラが
空からクルクルと落ちてきて、
それを手のひらで受け止めようと走り出すと、
無邪気な畑の番人は
緑色の湿ったため息を吐き出しながら
そっぽを向いた。

踏みつけられた玉砂利がコクっと不平を言う夏、
僅かに外側に捩れた踵に痛みを感じる昼下がり、
固く閉ざされたパン屋の頑なな扉を無意に押す。
マロニエの実が成るにはまだ遠い乾いた晩夏と、
ラベンダーの青が鼻腔に染みて光転げる初夏と、
その狭間に落ちた夏休みの静けさに溜息を吐く。
青の深淵で沈黙する溶鉱炉から金属の熱を吐く、
蟻よりも甘苦い汁がシミを残すことなく乾く夏。
誰もがソワソワと終わりない仕事を睨む初夏と、
不用意に出来た踵の傷の赤い線を摩る昼下がり。
誰ひとり返事をしないメールを選分ける晩夏と、
他人事になった秋を思い溜息を吐く明日を押す。
セスティーナ(sestina)を書くには少々準備不足というものだが、書きかけの作品の習作とするならば理解してもらえるだろうか。
夏のブルターニュは朝の最低気温が20度、夕方の最高気温が28度というところだが、湿度が低いためカラッとした暑さで爽やかである。時々スペインからの熱波が到達して35度くらいまで上がることもないことはないが、それも数日。朝はしっかり気温が下がるので、冷房はほとんどいらない。乾いている分だけ日差しは強い。日本の夏のような真上から熱せられる溶鉱炉のような暑さはないが、さして強くもない日差しに油断すると紫外線で目も腕も痛むことになる。
そんな夏を楽しもうと思っても、リゾートでもない普通の都市部は閑散としている。パン屋も店を閉めてバカンスに行ってしまうし、街のイベントも旧市街で観光客向けのものが少しある程度なので、街中でやることもない。バカンスの時期は、夏の境界線上にある谷間にストンと落ちてしまったようだ。日本とブルターニュの間で仕事をしていると、なんとも溜息が出る動けない時期である。

カーテンの隙間から引かれたオレンジ色の線
昨夜オフにしたグリーンの目覚まし時計
ブルーの混じった壁紙に映る微かな影
肩にかけ直すグレーのブランケット
窓の下に流れ続ける銀色の冷気
消えた常夜灯のグレーの文字
白く光る枕元のスマートフォン
緑色のカフェテーブルの広告メール
クローゼットのドアに挟まったジーンズ
公転面からの地軸と同じだけ傾いた枕
遠ざかる窓向こうのヒヨドリの声
当面の執筆をやめている Imperfection という作品の一部を公開します。やめている大きな理由のひとつは内容に満足していないということなのですが、それは同時に、インスピレーションが錆び付いている感覚を持っていることでもあります。
この詩片の最後の3行はどうしても気に入らないのですが、一度部分的に公開することで自分に対してなんらかの変化を期待しています。文章とはひとりでに進化するものなのです。

湿気が溶けこんだシャツの重みに
上がらなくなった両肩と
白く凍った空に吸い込まれていく
ヒリヒリ痛む首筋とを
忘れようと歩き出す昨日
ギッタン カンゲン
クゲン ムゲン
ラッカン キッタン
ギーチョン グン
青野原に潜むスニーカー
蒸せかえる沈黙
耐えきれず鳴くキリギリス
蚊をつぶす手が誘う静寂
シンシン カンシン
シカン オカン
クウカン ゴッカン
シータン ズン
白い息に痺れ始めたスニーカー
諫言を重ねたメッセージ
不意に広がる空から落ちる六花
音の染み込んだ土色の死骸
無限 諫言 歓楽 苦言
思い出すには単純過ぎる昨日
このBlogには習作でも掲載してきたが、今回もネコトコトリのシリーズの新しい試みである。単なる言葉の遊びと思われるかもしれないが、毎回何かしら試していることがあって、今回は感じ二文字の熟語とリズムの組み合わせをテストしている。
もし、夏と冬とが同居したシーンと快楽と苦行が淡々と同居する日常とが混じり合った記憶のようなものとを感じ取っていただけたら、この詩は成功したと思っているのだが、どうだろうか。

ブツ
バン
バブンツ
ブバン
右の目尻を引っ掻くいかづちのカケラ。
茫茫たる摩天楼へとぶら下がるクモ。
有りもしない頭巾でゼンマイ仕掛けの頭を隠し、
気づきもしないエンジン音を遠ざける。
ザンザンと落ち続けるジュラ期の豪雨は
やがてブバンと鎮まりかえる。
ツブツン
ンテル
バブン
多忙だった昨日がガサつく午後と
自由とジョーシキの狭間に堕ちる後日と
強靭なジルコニア製の刃先が光る作業台と
バラバラに分解されたスケジュールとが、
自在に飛ぶ青光りしたチョウの飛ぶ伽藍の如く
何も変わらない今日を示す。
テルン
ブツバン
音を立てずに背後を走り抜ける猫。
見上げる先のいかづち。
バン
万物流転(flux)はギリシャの哲学者ヘラクレイトス(Ἡράκλειτος)の唱えた概念らしいが、大雑把に見ればどこにでもある普遍的な見方で、仏教では諸行無常と言われる概念にも似ていないこともない。何事も絶えず変わり続けるものであり、同じように見えても、今見ているものは、つい先ほどに見たそれとは同じではない。ヘラクレイトス流に言えば、
「人は同じ川に2度と入ることはできない。川には常に違う水が流れている。」
という事になる。その言葉を知ってか知らずか、鴨長明は方丈記でこう書き出す。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」
直訳みたいなものである。
毎日が目まぐるしく変わり続けたらとても人は生きていけない。雷が鳴る日があっても、仕事が回らず苦労する日が来ても、日常は何も変わらず過ぎていく。それでもその変わらない日常は、今を生きる人々にそれぞれにとって同じものではない。
アメリカの作家ウィラ・キャザー(Willa Cather)の言葉をたびたび取り上げているが、再度ここに掲げたい。
「人のある物語はたった2つか3つしかない。そしてその物語は何度も繰り返されるのだ。かつて経験したことのないかのような激しさで。」
今回のブツバンテルンでは、ネコトコトリで試した手法を久しぶりに使ってみた。もし読みにくいと感じられたら試みは成功したのだが、どうだろう。
おまけでちょっとひとこと。Grandfather’s old axeという言い方がある。年季の入ったおじいちゃんの斧なのだが、刃は3回、柄は2回交換している。としたら、それは本物のおじいちゃんの斧と言えるのか?木造の建造物を絶えず直しながら使い続けるのは、歴史なのかレプリカなのか?万物流転は古典でありながらちょっと難しい。