Bonne journée

Bonne journée (15)

20130406-001今週は激しい雨とすっきりしない晴れ間に何とも憂鬱な日々となったが、週末もまたしても暴風とは!仕事に追われて、わずかな自分の時間をゆっくり過ごすしかないのでは、気分まで雨降りのようになってしまいかねない。そんな時は、これ幸いと読書に勤(いそ)しむのが正解である。

先週読み終えた本のメモ書きをまとめる事もしたいが、あまり義務感のようになるといい加減になりがちだから、書評は来週以降に回すことにした。まずは、読書で頭に栄養補給である。

なんだか文章まですっきりしないので、最初の写真は、早朝の日差しと決めた。せっかくこのblogを訪ねて読んでくれている人がいるのに、すっきりしないだけでは申し訳ない。 Continue reading “Bonne journée (15)” →

Cross Cultural

huile d’olive オリーブ・オイル

20130330-002

フランス料理と言うとワインやフォアグラなどが真っ先に思い浮かぶところだろう。あるいはブイヤベースのような名物料理かもしれないし、オマール海老やトリュフといった海や山の食材かもしれない。個人的には、チーズやオリーブオイルもイメージが強い。だが、実際のところ、日本でも地域によって味が違うように、フランスでくくるのは少々乱暴である。どもそもドイツワイン好きがいたり、チーズはスイスだとかオランダだとかと言って譲らない人がいるように、ヨーロッパは広い地域に同じ素材が緩やかに広がっていて、それぞれに特徴がある。

遠く日本にいてフランスを思うと、ヨーロッパの西の方と十把一絡げにしてしまうのは致し方ないところだろう。フランス人が日本を見て中国の右のあたりとイメージするのと同じである。それを聞いて腹を立てるひともいるだろうが、フランス人も同じ気持ちに違いない。あるブルターニュの人が、日本人から

「ああ、ワインが美味しいところですよね。」

と言われてがっかりしたと聞いたことがあるが、気持ちがわからないでもない。確かにブルターニュとブルゴーニュの場所を地図で示せと言われても平均的な日本人には難しい。それでも、川崎に住む人が

「ああ、バイクを作ってる街ですね。」

と言われたり、鎌倉に住む人が

「行ったことがあります。鹿のたくさんいる公園があるところですよね。」

と言われたりすれば、がっかりするに違いない。 Continue reading “huile d’olive オリーブ・オイル” →

Bonne journée

Bonne journée (14)

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東京で桜が満開といつもの年より早めに聞くと、今のうちに春らしい写真でもアップしておかないと出遅れたような気がしてしまうのは、あまりにblogに囚われた感覚か。ネットワークが動機であっても、それでも今年も桜の季節は巡ってきた。川沿いの桜並木は色とりどりのレジャーシートがパッチワークとなり、近くを通る人が花見の相談をしているのが聞こえてくると、淡いブルーとピンクの世界と賑やかな世界の境界線が見えるようである。

一方、桜でなくても春らしい花はそこかしこで自己主張を始めている。喧騒から離れ、静かに風に揺れる様子を見れば、どこかゆったりとした気分になる。

20130323-001こころなしか南の国のおおらかさを感じる木蓮の紫もあれば、広がり始めた緑の隙間の影でひっそりと輝く青もある。雪柳の白は、色の少ない冬から華やかな春への橋渡しの様でもある。

20130323-002だが、色使いの地味な姿に春らしさを感じるものである。土筆が気がつかない間に出ているのを発見してふと頰が緩むこともある。

20130323-003今回の写真は、すべて横浜の住宅街でiPhoneを使って撮影している。このiPhoneのカメラがなかなか難しい。土筆の写真もピンボケというか、ピンが奥になってしまった。ちゃんとスクリーンをタップしてるのだが、思う場所にピントが合ってくれない。

そこでふと思う。また、テクノロジーを気にしてると。

今日も良い一日を。

Art, Bonne journée

Bonne journée (13)

20130318-001

先週末(2013/3/10)の煙霧は、空だけでなくWeb上もあっという間に覆い尽くしたが、Wikipediaで見たら不思議なことにhazeとあった。つまり、靄(もや)であると。それなら当たり前の気象だと一瞬納得したが、いろいろと調べてみたら、エアロゾルと書いてあったり北関東の乾燥した土ぼこりだとあったりと、どうも不明確である。要は、気象学的には煙霧と分類される「何か」ということだ。すぐ先まで黄色い世界で見えなくなったから小松左京の「首都消失」を思い出して変な気分だった。原因がわからないと気持ちが悪いものである。
20130318-004一方、春は確実に本番となった。ソメイヨシノもちらほらピンクの花弁が見えてきたし、他の種類の桜も幾つか咲き始めている。こうなると散歩が楽しい。横浜で海を見ながらアート鑑賞などはどうだろうかと思いを巡らす。
そう思いながら、どういう訳か、渋谷にルーベンス(Peter Paul Rubens)を観に行って来た。渋谷駅からBunkamuraまでのコースは、到底春の散歩コースとは程遠い雑然とした色のフラッシュだが、ある種、季節感のない混沌が渋谷の個性ということだろう。皮肉屋のフォーヴィスム(Fauvisme)の画家が印象派スタイルで画いたらこんな絵にもなりはしないかなどと考えながら風景を眺めた。写真で見たエキサイティングな渋谷の交差点を自分の眼でも見たいというのでフランス人を連れて行ったことがあるが、もはや渋谷はブレードランナーの映像すらも超えたところがある。 Continue reading “Bonne journée (13)” →

Books

A Book:マッチ売りの偽書

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湧き上がるイメージを手当たり次第書き殴る。そうしないとこぼれ落ちてしまいそうだから、書き殴る。吹き付けてくる言葉を逃げることなく受け止め、丹念に記録する。自分の他にそうするひとがいないから、記録する。手当たり次第。手身近にあるかけそうなもの全てに。ノートに、広告の裏に、折れ曲がったクリネックスの箱の余白に、記録できそうなら何でも。スマートフォンに、手の甲に、机に、留守番電話に、時計に、。。。
あまりの言語の重さに、それはやがて自壊する。慌てて拾い上げようとすればするほど、混乱し、デタラメに散らばり、笑みがこぼれ、地滑りが起きる。記録された言葉は再び流れ、新たな意思を得る。

【返歌】 空間に散らばった言葉を正確に位置付けるには、3次元座標系が必要である。xyzで表されたその位置を容易に取り扱うには、直交座標よりも極座標が好適とされる。すなわち、自分からの距離rと偏角θおよびψにより言葉は位置付けられる。しかしながら、より正確には、言葉は3次元連続体とすべきである。言葉は空間を漂い、(r, θ, ψ, t)の4つの次元に捕らえられている。言葉は、観測者である自分と他者の間に相対化され、その速度の差によって意味が変化する。

拾い集めた言葉の一部は、やがてもとあった場所に帰って行く。
「裏側にお回りください。」
ただ、元あった場所がどこか正確に覚えていない。それぞれの記憶に従って、あるべき場所に戻る。だから正確であることは期待できない。もしかすると最初から夢だったのかもしれないし、ノートに書き記しておくべき事だったのかもしれない。
「裏側にお回りください。」
何モカモ曖昧ダトイウノニ書かれた文字は頑なに在り続ける。否定しても、肯定しても、そうした判断を超えて在り続ける。やがてインクが、紫外線のとらえどころのない痛みと世界から忘れ去られた眠気の中で薄れていくとしても、在り続ける。
「入口はこちらではありません。」
どこが前でどこが後ろなのか、ねじ曲げられた時空間。時空間がねじ曲がっているのか、我々がねじ曲がっているのか。自分だけがねじ曲がっているのか。
「明日には復旧します。」
見覚えのある音の連鎖。新たな色彩の断絶。

【返歌】 2月1日 金曜日。晴れ。最低気温1度。無風。午後から風が強まり、3月下旬頃の気候となる予想。乾燥した日々が続いたせいか霜柱も成長しない。時計を確かめるが、秒針はいつものように正確に動いている。同じ方向に回り続けている針。静止する文字盤。無風。シデコブシ、ミツマタ、銀の毛虫がすべての枝にまとわりつく。銀の卵。真冬、停止する朝。

娯楽の要素が強い映画ですら人によって感じ方が異なるように、言葉で描かれた世界は、それ自体で充分な柔軟性を持っている。イマジネーションなのか単なる虚無的な遊びなのかは、受け止める人によるだろう。自然界の摂理と決定的に違うのは、まさにこの点にある。どれほど言葉を尽くしても、一意に決まる心象など存在しない。受信者によって受け取るものが違うなら、多少正確さを欠こうが、自己にとって正しければ良いというのは、表現にあっても傲慢か。それとも自己満足か。
そのどちらでもないのだろう。何かを表現しようともがけばもがくほど言葉は粉々になり、原型から遠ざかって行く。どこかバランスの良い適当なところで表現を止めれば一見豊かにも感じられる表現を得るだろうが、それが求めるものとは限らない。だから、言葉をつくす。そして、時に地滑りを起こす。
地滑りを起こした言葉の列は、ジャクソン・ポロックのような全体の調和の中の混沌ではない。おそらくは、計算されたアクション・ペインティングとは違って、緻密に準備されたものでなければならない。地滑りを起こした言葉の列は、ジョルジュ・ブラックのような粗野な調和ではない。おそらくは、調和した世界に垣間見得る乱暴さである。マッチ売りの偽書には、調和と混沌が同居している。
今は記憶も曖昧となった昔のことであるが、物書きがしたい者同士が好き勝手に書き込むノートが置かれていた。今であれば、Twitterかblogかそんな物である。そこに、何かを表現する手段は言葉でも映像でも音でも舞台でも色々とあるというのに、何ひとつ上手く表現できないと書き込むと、最初の反応は真向から反対するものだった。曰く、表現したいものより表現する手段が多いわけではない。表現する手段は不完全でむしろ足りないのだと。強ち間違ってはいない。だが、それは逃げでもあるだろう。マッチ売りの偽書において、我々は試されている。

【返歌】 大気の重みに両肩は耐えきれず、宇宙どころか街角の空間に矮小化されながら、あなたはゾウに踏みつけられた蟻となる。
踏みつけられながら、ビルの空気をかろうじて循環させるコンプレッサーがブツブツと不平を言うのを聞いている。
かろうじて難を逃れた他の蟻は、嘲笑っているわけでもない。無言で空気を吸って吐いているだけだ。
遠い未だ見ぬインドの記憶。やがてゾウはその古代遺跡のように輝く足を上げる。
何ひとつ変わらない大気と光。

地滑りを起こす言葉のイマジネーションと群衆の孤独と微かな希望の狭間で、中島悦子は今も漂流を続けている。

最近読んだ本

マッチ売りの偽書 (思潮社)
中島 悦子 著

十字軍騎士団 (講談社学術文庫)
橋口 倫介 著