Bonne journée, Cross Cultural

Bonne journée (23):Bluetooth keyboard

20131201-001ここしばらくiPhoneについて書いていなかったが、Bluetooth keyboardを時々使うようになったので、感じた事などを少しばかり。(The text was written only in Japanese)

個人的な事で恐縮だが、フリック入力がどうも性に合わない。ガラケーを使っていた頃もテンキー入力が苦手だったから、そもそもフリック入力以前の問題というべきか。「な」行と「は」行がごちゃごちゃになったり、押す回数を間違ったりと、長文入力など考えられないという思いが強かった。どうせテンキーが苦手だったのだからと、いっそこの機会にフリック入力を覚えてしまおうと暫く努力したものの、結局はイライラがつのるばかりで、それ以来、ずっとフルキー入力だけを使っている。もはや、テンキーは表示されない設定のまま、2年以上の時間が経った。

あまり評判の良くないiPhoneのフルキーボードも慣れればかなり高速に入力が出来る。両手の親指を使えば相当楽である。特に英文入力は良く出来ている。単語の途中まで入力すれば概ね正しい候補が表示されるし、スペルミスもかなり訂正される。ピリオドすら入力する必要がない。スペースキーを2回連続して打てば、ピリオドが自動で入力される。時々、余計なスペルチェックが働いて、似たような違う単語に変換されてしまうことが最大の問題だろうか。似たスペルだから変換されたわけで、さっと読み返した時に気づかないことがあるからだ。

ところが、人間は贅沢なもので、慣れたといっても不満は出てくるものである。PC用の物理的なキーボードよりiOSのソフトキーボードが入力しにくいのは当然としても、日本語配列と英語配列を切り替える度になぜかミスタッチが多くなる。そして、結局はイライラするというわけである。アイソレーション・キーボードのような見た目ではあるが、実際には絵が書いてあるだけで、キーの間隔が広いというわけではない。そもそもiPhoneのディスプレイ幅にフルキーが収まっているから、幅を確保することなど望むべくもない。指が慣れるのを待つ以外にないのだろう。ずっとそう思ってある程度割り切って使ってきた。

ちょっとした入力は何でもない。検索キーワードを入力したり、短いメモやメールを書くなら全くストレスを感じない。このブログのほとんどのポストの下書きは、実際のところiPhoneで書いたものだ。電車の中などで時間があるとちょっと書き、それを積み重ねて最後はPCで書き直す。そんなやり方を続けている。だが、やはり長い文章となるとストレスがたまる。仕方ないこととは思っていたが、原因のひとつはつまらないことにあると最近気がついた。どうやら、英語キーボードと日本語キーボードの微妙な配列の違いが案外大きな原因なのである。

20131201-002英語配列と日本語配列には、たったひとつだけ違いがある。日本語だけハイフンキーが付けられている。なるほど長音を入力する機会の多い日本語では便利な配列だろう。「キーボード」という単語を入力するにはぜひ欲しいキーである。とは言え、このたったひとつのキーにより、中段のキー配列は左に半分ずれている。だから、keyboardという単語を入力した後で日本語を入力すると半分だけずれたキーを叩くらしいのだ。ミスタッチが多いのはiやoで右上が多い。こんな小さなソフトウェアキーボードで位置の違いが出るのだから、人間の脳は良く出来ているということか。

なんだか前置きばかりとなってしまったが、そんな理由でBluetooth keyboardを使い始めた。使うのは専ら自宅でさっと入力したい時であって、今のところは出先では使っていない。電車の中での入力程度なら今のところさほど困っていないから、どちらかというとPCを立ち上げずに文章を書きたい時用だ。少々もったいない使い方なのだが、長めの文章となると断然楽である。ソフトウェアキーボードを非表示にすることで広い領域が見渡せるし、そもそもあまりキーボードに目を落とす必要がない。

使い始めて気がついたのは、カーソル移動が使えるのが案外便利だということだ。タッチパネルに慣れてカーソルキーなんて要らないという感覚にもなってきていたが、文字を書くならやはり便利なのである。さっと文章を書いて、前に書き足そうなどと思った時には、カーソルキーで移動したくなる。キーボードから手を離してスクリーンを触りたくはない。さすがにPCで編集するのに比べれば面倒だが、イライラはだいぶ解消された。

使っているのは新潟のリュウド(REUDO)という会社の折りたたみ型キーボード(RBK-3200BTi)だ。少々華奢ではあるが、使わない時には小さくなるから邪魔にならないのが良い。恐らくは、家の中だけで使うなら、寧ろ普通の折りたたみではないものの方が良いのだろう。膝の上で使う場合でも、しっかりしている方が安定するに違いない。折りたたみにしたのは、小さくて邪魔にならないというだけでなく、使う時に十分なキーピッチがあることを考慮したからだ。いくつか試してみて、キーピッチが狭い小型のキーボードでも慣れれば入力に問題ないことは分かっていたが、ブラインドタッチは難しい。そう思っての選択である。使ってみて、ほぼ普通のキーボードと同じ感覚でキーがあるのは確かに大きなメリットだと感じている。

ところで、個人的には、もうひとつメリットがあった。iOSの英語キーボードは(内部的には)ASCII配列であるが、仕事でもASCII配列を使っているので、違和感が少ないのだ。JIS配列(普通の日本語キーボード)とASCII配列には大きな違いはない。ともにQWERTYだ。だが、セミコロンやアポストロフィの位置が違う。これが違うだけで、またもやイライラすることになる。ASCII配列は大変にありがたい。

因みに、フランス語のキーボードもまた違う。カナダのフランス語配列はほぼASCIIやJIS配列と同じだが、éとかçとかを入力するために、右の方に特別なキーがある。フランスのフランス語キーボード(またもやややこしい)は、AZERTY配列で、AとQなどが入れ替わってこれまた違う。以前、面白がって買おうと思ったが、いくらなんでも使いにくいから思いとどまった。とは言え、最近はフランスでもASCII配列を使う人が多いそうだ。アクセント記号はあまり気にしないということか。

キーボードの事を書いていたはずなのに、今回もまたフランスに関する事に脱線してしまった。このブログの基本テーマのひとつはカルチャーギャップなので、とりあえずご理解いただきたい。

さて、ともあれ快適になったキー入力だが、やはり、となりで凄い勢いでフリック入力をしている人を見ると羨ましい。話すより速いのではと思う人の指の動きは、もはや残像が見えそうである。脳がついていけるのかと心配してしまうが、余計なお世話なのだろう。そんなつまらない事を考えている自分は、今日も、あくまでもフルキーボード派である。これもまたカルチャーギャップか。

今日も良い一日を。

Art, Cross Cultural

陶器のすすめ

pottery-1(This article was written only in Japanese)

焼き物は使ってこそ良さがわかるというものだろう。飾りの少ない陶器ならなおさらだ。銘のあるような骨董品や広く知られた作家の作品となると気が引けるが、普通に買うことが出来る器なら日常に使いたい。以前にもそんな記事を書いたが、なかなか気に入った器に出会うことは少ないかもしれない。元来は工芸品であって、大量生産こそできないものの、一点ものとして大事に保管する類の芸術品というわけでもない。だから、そこそこ気に入ったものを手にとって、直感的に買うのが良い。

ライティングに気を遣い、その微妙な丸みや表面のテクスチャ映えるようにディスプレイされた器を見て、あれやこれやと悩むのも良い。一緒に飾られた観葉植物と見比べながら、家に置いた姿を想像するのも良い。だが、無造作にたくさん並べられた器の中から無造作に選ぶのも悪くない。そうして無造作に並べられた器を見ていると、全般に土色の陶器にもカラフルな色が見えてくる。

あか、あお、みどり、茶、黒、白、灰、オレンジ、朱、碧、藍、夫々に名前があり、組み合わせは無数となる。じっと見ていれば、それは寧ろ溢れかえる色であって断じて土色などではない。クチから高台(糸切り、脚の部分)に向かって流れ落ちる白に淡い青を感じることもあれば、黒々とした釉薬が赤く見えることもある。だから無造作に並べられた中から好きな色を探し出すだけでも迷うことになる。お店の人があれやこれやと考えてディスプレイしたその提案を受け取るのも良いが、自分で想像してみるにこしたことはない。何と言っても使っている姿を使っている人の視線で想像出来るのは、紛れもなくその本人だけなのだから。

それだけではない。形状も様々だ。皿に角皿や丸皿といった様々な形があるように、湯呑みもカップも様々であり、大きさが異なる。それは日常の器なのだから当たり前である。だが、同じ形の同じ色の茶碗を見ても、店頭にある同じ茶碗が必ずしも同じ形ではない。微妙に丸みが異なり、口の大きさが異なり、手に取れば厚みも異なっている。手作業であるが故に全く同じものを作ることは出来ないし、手頃な価格の製品はひとりが作っているわけではない。違いがあって当然なのだ。そうやって微妙に違った中から気に入った物を探す。多少の歪みが面白いこともある。釉薬が変色していても良い。今時は電気釜(小さな釜は電気、商用の大きな釜はガス)であって均質に焼けてはいるが、それでも個体差はある。時には、部分的に焼けたように見えるものもあるが、特ににする必要はない。それが気に入ればそれで良い。

pottery-2焼き物には詳しくないが、子供の頃から連れられて度々買いに出かけていたから、器を選ぶ楽しみだけは知っている。もし、正しい楽しみ方があるなら、それについては自信がないが、自分なりの楽しみ方があればそれで良いではないか。そう思うのである。(写真は全てこの夏の益子のもの。)

庶民的な陶器を楽しみながら選ぶ10の方法

1. 迷ったらシンプルで伝統的なものを選ぶ

伝統にはそれなりの理由があって、ずっと長い間守られてきたもの。だから、ちょっと古臭くても多くの人が選んできたのであって、間違いがないというより「いいね」がたくさん付いているという事。先達を信頼して伝統を選択するのが良い。もちろん、デザインは少しずつ変化して当然だから、モダンなのに伝統的と感じたら、それはきっと当たり。

2. 4つ欲しいと思ったら5つ買う

なんだか気に入ったし、家族4人で使いたいから4つ買おうかな。そう思うなら5つ以上買うこと。陶器は欠けやすい。欠けたから追加で買おうかなと思っても、すでに同じデザインはなくなっていると考えた方が無難だから。もちろん、お客様用もありだし、気を遣わないですむということは普段から使えるということで、ぜひ+1を。もちろん、違うデザインの組み合わせも可。幾つも並べられた違った器が何故か統一されて見えるというのは上級者コースかもしれないが、同じ窯で作られた器は不思議と違和感が少ない。以前、神保町にあったある喫茶店では好きなカップを選んでそれにコーヒーを淹れてくれたが、そんなに沢山なくてもきっと楽しい。

3. 実用的な物を選ぶ

使いやすいことはもちろん、洗いやすいこととも考えて、実用的な器を選ぶのが普段使いには重要。他と違った装飾の多い器は見た目にも楽しいが、いざ使うとなるとためらうようなことも。コーヒーカップは片側に重さがかかるから、飲み物を入れると急に重く感じるわけで、普通の輪になった形状が結局は好ましい。厚みも重要。磁器のような薄く透明感のある器も魅力的だが、磁器と違って陶器は強度が少し弱いから、多少厚みのあるものが無難。試しに強く押してみると僅かに歪むくらい(試すのはお勧めしない)だから、あまり無理のない厚みの物を選択すること。その方が素朴で味もあるし、熱い飲み物には唇にも優しい。

4. 買う時は歩く

窯が違えば形も色も違う。特定の窯を扱う店もあれば、いろいろ揃えている店もある。地元の土とは限らないし、最近移ってきた作家さんの作品を扱う店もある。気に入った物を探すなら、多少歩くのは厭わないこと。歩いて探し回っているうちにお腹が空いて、美味しそうなケーキでも見つけてしまったらそれはもう仕方がない。運命に身を任せる。そうするしかないではないか。

pottery-35. 分からない事は店の人に

気に入った器を選ぶのに分からないことなどありそうにもないが、ともかく分からないと思ったならお店の人に聞いたほうが良い。例えば陶器は脚のところがザラザラしているのが普通で、なんとなくテーブルを傷つけそうなどと考えてしまう。同じデザインでもこちらのほうが釉薬の流れかたが良いのだけれど、だいぶザラザラしてるから違うほうにしようかな、などという時は先ずは聞いて見る方が良い。この程度ならこれで大丈夫と脚どうしを擦り合わせてハイおしまいということもあれば、丁寧に砥石で磨いてくれることもある。先ずは何でも聞いてみること。但し、忙しい時に世間話が長いのは相手も困るし、「これ、何に使うの?」は愚問だからほどほどに。意図する用途はあるだろうが、徳利を一輪挿しにしたって誰も文句は言わないのだから。

6. 商品を大切に扱う

陶器は割れやすい。そんなことは当たり前だが、それだけでなく、他の人が困らないように見たらきちんと丁寧に戻すこと。乱雑に置かれれば次に手に取る人も気を遣わざるを得ないし、ばらばらに置かれたら選ぶ事も難しい。もちろん、高価なものも含まれている。都会のお洒落な店なら高価なものはそれらしく置かれているかもしれないが、写真で載せた益子のような生産地だと案外適当に置かれている。以前に棚の上の方をなんとなく見上げたら、有名な名前が無造作に書かれていて、びっくりするような値段がついていた。それもまた生産地の良さであるし、だからこそ客にも礼儀があろうというもの。陶器に限ったことではないが、商品は丁寧に扱うこと。

7. 日本語が上手くなくても侮らない

益子の街を歩いていると、時々たどたどしい日本語を聞くことがある。古民家のような店構えの店舗の前でそれを聞くと、あぁ遠くから来た客人かなとつい思いたくなる。だからといって、単なる観光客と考えてはいけない。ひょっとすると、自分よりよほど焼き物に詳しい達人ということも。世界中に陶器はあるから、世界の手法を学ぶために日本に来ている研究者や気鋭の若手の可能性だってある。日本語が下手だからといって侮るなかれ。話をする時は対等の立場で接すること。その昔、バーナードリーチだって益子にいたのだから。

8. 周囲のレストランやカフェも楽しむ

こう書きながらなかなか実現できていないのだが、レストランやカフェも楽しみたい。人が集まるところにお洒落なカフェがあるのは自然なこと。であれば、歩きながら見つけた手近な店を選ぶというよりも、ちょっと調べて美味しそうな店を訪ねるのも良い。今時、Google mapにでもあたれば、田舎の小道の奥深くにある小さなカフェを探すことだって難しくはない。まして、観光地と言うには静かな焼物の街なら、喧騒を離れてのんびり過ごせる可能性もある。もし、そこで陶器のカップが出てきたら、それこそラッキーというもの。写真好きなら1枚撮ってるに違いない。ついでに古くからあるお寺にでも立ち寄って、街そのものを楽しむもよし。周囲の環境まで楽しむこと。

9. ろくろ体験

時間があるなら自分で器を作ってみること。思ったようには出来ないが、それなりの形にはなる。益子には、ろくろを回せるところがいくつかある。やり方を丁寧に教えてくれるから、初めてでも全く問題ない。ろくろを回しているうちにグニャリと曲げてしまうお馴染みの映像だって、間違いなく目の前30cmの近距離でライブで経験できる。であれば、先ずはやってみるほうが器選びも楽しいに決まってる。そうやって難しさと楽しさを知ることで、何を選ぶかも違ってくるにちがいない。出来上がった器を見ながら何色にしようかなと悩むこと自体が、色を知る機会ですらある。この釉薬の青は深くこちらは淡いなどと悩んでいる時に伝統色を学んでいるのだ。時間がないとかろくろは自信が持てないとかということなら、手捻りという方法もある。絵付けも手軽だ。ともかくも自分で作ってみれば、違う側面も見えてくるだろう。そうして、ろくろを体験し、出来上がりがひと月先と決まった時、その苦労も理解できるに違いない。

10. 感謝の気持ちを忘れずに

手に入れたら、ともかくも使ってみること。感謝の気持ちを持って使ってみれば、良いところも悪いところも見えてくる。そうして、もっと大きな持ち手が良いとか、案外濃い色はご飯に合うとか、逆にコーヒーには内側が薄茶色が良いとか、もっと平たい形状が良いとか、次に買う時のヒントが見えてくる。だとすると、次に買う理由ができるではないか。

Bonne journée, Cross Cultural

Bonne journée (22):Chinese whisper

whispering bee(The article was written only in Japanese)

「何度も言ってるのに全然聞いてないんだから」という時は、ちゃんと伝える努力をしたかよく考えるべきだそうだ。ビジネス書などによく書かれている話である。曰く、相手の分かる視点で話をしたか。曰く、伝わったかどうか確認できる質問をしたか。曰く、相手の目を見て語りかけたか。要はコミュニケーションは思ったほど簡単ではありませんよということだろう。

小学校あたりだと、この伝えることの難しさを遊びで教えたりする。いわゆる「伝言ゲーム」である。ゲーム嫌いだから、バスでの遠足やお楽しみ会(なんという表現!)ではもっぱら影に隠れて参加しないで済むようにしてきた身としては、伝言ゲームを語る立場にないと思うほど記憶が薄い。だが、何やら紙を渡されて開いてみたらやたらと長い文章が書かれていたといった記憶はある。今になってみれば、記憶力ゲームじゃないかと思わないでもない。これが先頭なら簡単かと言えばそうでもない。最後の友達が答えを言うのを聞いて、完璧に伝わったと安心してホッとした途端、「はい、残念でした。おしい。」と打ちのめされる。「最初にこんにちはと挨拶がついてましたね。どこかで挨拶がなくなっちゃいました。」犯人はもちろん自分である。要件を一所懸命憶えたのに、頭がそっちに行って重要ではない部分が抜け落ちたのだ。記憶が薄いと書いたが嫌な事は思い出す。だからゲームが好きではなかったのだろう。さすがに大人になって、そんなつまらない理由でゲームが嫌だとは言わないが、未だ好ましくはない。

その伝言ゲームであるが、大人になると実際のゲームではなく、それは比喩的表現となる。先日も、伝言ゲーム状態で内容が怪しい情報を確認する必要があったが、そんなことは仕事をしていれば日常茶飯事だ。その時は、確認をとるのがまずは基本と連絡をとることにした。相手は例によってフランス人である。「又聞きの又聞きだから確認したい」と言う代わりに、伝言ゲームだからと書く。伝言ゲームは、英語でChinese whisperと表現する。中国人のささやきという感じだろうか。背景を知らないから何故そう表現するのかは皆目見当がつかない。まぁ、そう表現することだけは知っていたのでそう書いた。ところが返ってきた返事は、そんな表現は初めて知ったということだった。辞書か何かで調べて意味を理解したらしい。そして、素晴らしい表現を教えてくれたのだった。フランス語では、Téléphone Arabeと言うと。つまり、アラブの電話である。アラブの言葉が分からないからか、アラブの人の言うことが分からないかは不明である。ただ、違った言語で似たような表現をするらしいというのが面白い。次に使う機会がなかなかなさそうなのが少々残念ではある。

20131103-002そう言えば、先日も面白い言い方というか、名称を知った。ペリカンの写真を見てなんとなく辞書を引いたら、英国の押しボタン信号をPelican crossingというと書いてあったのだ。ペリカン横断である。おやと思ってよく読んだら、実はもともとはpelicanではなくpeliconだという(最後のところがcanではなくcon)。つまり、元は”Pedestrian light controlled crossing”(歩行者信号制御横断歩道)というわけで、押しボタン信号と言うのとたいして変わらない。本当に定着している名称なのかどうかは分からない。先日、イギリス人と会ったばかりなのに聞く事が出来なかったのが残念である。どなたか真偽のほどを教えてほしい。

日本でも交通系ICカードはSuicaにICOCAと語呂合わせ的な名前ばかりである。つまりはきっと同じ発想に違いない。覚えやすいとか、面白いとかそんなところだろう。となれば、pelican crossingはSuicaレベルだろう。ICOCAは一枚上手である。

さて、書いた内容にはほとんど責任を負えない伝聞ばかりである。Téléphone Arabeでないことを祈る。

今日も良い一日を。

Cross Cultural

本屋の店頭とゴミ箱

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本屋さんの店頭ディスプレイ。JaponとTokyoの文字が見える。Instanbulは世界中の憧れかも。

(The article was written only in Japanese) 店先のディスプレイや通りの様子を見ていると、その街の個性や住む人の意識がぼんやりと分かってくる。それは、旅行者が、例えばその地域固有の古い建物に目をやり、その歴史に思いを馳せることとは少し違う。むしろ、生活空間の空気を感じる事であり、今そのものに微かに触れることである。東京に残された日本庭園や神社仏閣を訪ねつつの街歩きの途中で、ヨーロッパからの旅行者が、ふと見つけた小さな道祖神や語りかけてくる自動販売機に興味を持つ。日本からの旅行者が、初めてのパリの早朝の街角で、都会に響く教会の鐘の音や通勤通学の前の道路清掃を新鮮な驚きとして感じる。そうやって、少しづつその街やそこに住む人々が見えてくるのだろう。

日本に住んでいて当たり前と思っていたが、そもそも東京の密集した住居自体が驚きなのだそうだ。高いビルから遠くまで広がった住宅街を見た知人は、すぐさま写真を撮りたいと興奮気味であった。そんな時、どこが面白いんだと聞いてはいけないのだろう。私のように、何回か行っているフランスの街で、カフェの前に停められた普通のイタリア車の写真を撮ったり、普通の川にかかった普通の橋に興味を持ったりするような輩からは聞かれたくないに違いない。

そのような意味では、本屋の店頭は案外面白い。その国の今がわかるとまでは言わないが、空気のようなものを感じることがある。例えば目立つように置かれた旅行ガイドからは、人気の旅行先が見えてくる。児童書を見ると、案外定番の有名作品は同じなんだなと発見がある。そうやって感じるのは、フランスの相変わらずの日本びいきである。正確に言えば、フランス人の多くが日本を好奇心をもって見ているわけではない。ましてや日本好きが必ずしも多いわけではない。それでもなお、本屋の店頭には日本に関する本が並んでいる。今、社会を支えている若い層が、日本製のアニメを見て育ったからという話もあるが、定かではない。19世紀後半にあったジャポニズムを考えれば、今に限った話でもない。ただ、少なくとも本屋の店頭を見れば、日本に関する関心が高いということは想像できる。良かれ悪しかれ関心をもってもらうことは重要で、互いに関心があるからこそ交流も生まれるというものである。

20131026-002街角のゴミ箱ですらその街を想像する材料となる。20年近くも前になるあの事件以来、日本では街角でゴミ箱を見ることが少なくなった。それが、フランスの街角には多く残っている。日本と同じように分別が進んでいるのは同じだが、どことなくオシャレに堂々とあるところが大きな違いだろうか。「日本の街はきれいだよね」とフランスからの知人が言うくらいにフランスの街角にはゴミが多いが、それは何を基準に見るかということであって、そのまま受け取ってはいけない。フランスではプラスチックバッグが鳥と一緒に空を舞っていることもなければ、ペットボトルが車と競争していることもない。そして、汚れていそうなゴミ箱の周りも案外きれいである。朝一番に道路の清掃が行われたりもする。ようは、そこに何を見るかだろう 。

20131026-003
ゴミ収集車の横には、食料の廃棄を止めよう!のスローガンが。2人は「冷蔵庫が空っぽよ。」「でも、ゴミ箱ならいっぱいさ。」と話している。

そうやって考え出すと、つまらない物にも興味が向くことになる。洗濯物はどこに干すのか、それともドライヤーで乾かすのが普通なのか、あの汚れた車はいつどこで洗っているのか、普段の買い物はどこでするのか。残念ながら、観光旅行で郊外の大型スーパーを訪ねるなどということはあまりないだろうが、実は案外面白い。広さに任せて卓球台が延々と置かれていたりするのを見て、買ったらどこに置くのかなと思ったり、馬具が並んでいるのに驚いたり、日本とは違う様子に興味は尽きない。ヨーロッパからの旅行者が、キラキラと夜も輝く自動販売機の列に思わずシャッターを切るのとも似ているだろうか。

まぁ、そんなわけで、いつも見慣れたゴミ収集車の写真を撮ってしまうわけである。変なやつとだけは思われたくないが。

Cross Cultural

Le pont et el puente y 橋

pont du gardThis article was written only in Japanese.

フランス南部にあるローマ時代の水道橋ポンデュガールpont du gard)はフランス南部を代表する橋のひとつである。もはや現役ではないが、2000年の時を隔ててそれはそこにあり続けている。人の住む気配もない渓谷を越えて、それは、かつて水を運び続けていた。そして今運んでいるのは、観光客とたゆまぬ時である。橋に向かって今は世界遺産として整備された観光客向けのゲートをくぐると、その先は渓流沿いの散歩道か公園といった景色となる。緩やかなカーブを曲がってふと現れるそれは、まさに巨大な石の建造物である。あまりに巨大で精密にできているため、200年前に作られたと言っても誰も疑わないだろう。だが、それでもその水道橋はローマの史跡としてそこにある。pont du gard

セーヌ川に架かるパリ最古の橋はポンヌフPont Neuf)である。17世紀初頭に竣工した情緒のあるその佇まいは、度々写真でも紹介され、パリ好きでなくとも何処かで見覚えがあるだろう。規則正しい石造りのアーチと橋桁ごとにある円柱を半分にしたような張り出しが、シテ島を挟んでセーヌ右岸と左岸をつなぎ、それは、400年にわたって歴史を見続けてきた。有名な橋には必ず事件やドラマがあるとでも言いたげなほど、その橋には歴史がある。

イタリアのフィレンツェにも有名な橋がある。アルノ川に架かるポンテヴェッキオ(Ponte Vecchio)は、あまりにも有名な橋であるがゆえに、すぐにはピンとこなくても写真を見れば誰でも「あぁ、あれか」となる。橋の上には宝飾店が立ち並び、橋を渡っているかどうかも一見分からない。こちらはフィレンツェで最も古い橋だそうである。

せっかくだから、スペインの世界遺産の橋にも触れておきたい。プエンテデビスカヤ(Puente de Vizcaya)はエッフェルの弟子が作った運搬橋である。橋には違いないが、普通の橋を想像すると大分違う。高い鉄の橋桁からワイヤーが下ろされ、運搬用のゴンドラを吊り下げている奇妙な形状なのだ。いろんな橋があるものだ。

フランス語やイタリア語が得意なわけでもないから、最近まで、こうした橋の名前は単に記号のようなものだった。フランスのかの世界遺産ポンデュガールはポンデュガールという名前でしかなかった。実はpontがフランス語で橋であることは知っていても、それは別なものだったのである。ラテン語系の言語でポンという発音が、あるいはpntで構成される言葉が橋であると頭が気付いた時、急にフランス語のpontとポンデュガールが繋がった。普段使わない言語とはそんなものだろうが、何か神経回路が再構成されたみたいで、奇妙な感覚である。

そうなると、つなぎ直された神経回路がささやき出す。ポンヌフは新橋だと(ヌフは新しいの意)。「巴里の中心を流れる川には大きな中洲があり、その中州に渡るなら新橋が良い。」などと書くと急に東京の話のように思えてくる。新橋という地名は日常ではそれ自体が記号みたいなものであって、新しい橋とは考えないだろうが、何処かで新しい橋という意味合いは感じている。フランスに住みフランス語を当たり前のように話す人にとっても同様なのではないか。日本に住んで日本語を当たり前のよう話す人が新橋と言う感覚でポンヌフと言い、なんでこんな古い橋が新橋なのかねと思うのではないかと。イタリア語はほとんど分からないが、こうなるとポンテヴェッキオも古橋であって(ヴェッキオは古いの意)、そのままの意味だ。ちなみに、フランス語で古いは vieux と音は似ているが語源が同じかどうかは分からない。

疑問を感じたら知り合いのフランス人に聞いて見れば良いのだが、これは案外難しそうだ。ほら、東京に新橋があるだろうなどと切り出しても埒が明かないのは明白だ。私の英語力では細かなニュアンスまでは伝わらないだろうし、相手も英語は道具であって感情までを伝える言語ではない。フランス語は挨拶程度なので話にならない。結局はポンヌフと新橋の差は分からないのだろう。

ラテン語系の三姉妹ついでに言えば、よく知られた新聞のルモンド(le monde)は、そのまま「世界」である。ワールドカップは、フランス語ではCupe du monde であって、スペイン語だとCopa del Mundo となる。なんとなくラテン語系の言語間の変換ルールが見えそうでもある。だからと言って、ヨーロッパに住む人が母国語以外に複数の言語を話すのが当たり前だということにはならない。日本語とフランス語を覚えるよりスペイン語とフランス語を覚えるほうが簡単ではあろうが、ゲルマン系のドイツ語とフランス語はだいぶ異なっている。ヨーロッパに住む人は、必要があるから努力して他の言語を覚えているということだろう。先日、テレビを見ていたら、ポーランドだったかどこだったかの比較的ヨーロッパ北東部の国の人が、フランスの会社が運営する船の乗務員としてスペインを航行する船上でインタビューされていた。岩手県出身の人が、大阪の船会社に就職し、現在は鹿児島の観光船で働いているという感覚なのかもしれない。だとすれば、必要なら努力して他の言語を覚えるのが当然という思いに至っても不思議ではない。

何はともあれ、次回チャンスがあれば、パリの新橋を訪ねてみることにしようか。

pont du gard