Bonne journée, Cross Cultural, Photo

Capturing in prose

201604-411English text at bottom.

元来、写真とは散文的なものである。見たものを淡々と記録することで事実を伝え感情を排す。四角い平面の中央に家族がすっと立ち、背景には青空と輝く観光地の風景が写しこまれる。時には意図せず写しこまれた文字に、その時々の時代が切り取られることすらある。それが写真である。そうやって記録された事実は、間も無く感情へと昇華を始める。撮影した意図も感じた空気も何もかもがその場を離れ、事実とも分離した「感情」が醸成される。感じるのは写しこまれた瞬間ではない。写されたそれを見る瞬間である。だから、写真とは元来散文的なものだと思うのである。

だが散文は写真的にはなり難い。余程注意深く書き込まなければ、そこに思いがけず写しこまれた事実はない。だから不意な発見があればついていたというべきである。もちろん繰り返し読むうちに、思わぬ作家の意図を見出して歓喜することもある。手練れた作家の仕掛けには少なからず驚きすら感じるものである。そうやって作家の仕組んだ世界に身を委ねる時、散文は怜悧で機械的な光の定着とはほど遠いものとなる。

古ぼけた実験室の片隅で結晶の構造を分析しながら、一方で物書きになりたいとも思ってひたすら文章を書きなぐっていた頃、写真はどうにも思い通りにならない道具のひとつであった。ロトリングのペンで描くメモよりはずっとマシだったが、撮った写真はロトリングのメモ以下の記録でしかないこともしばしばだった。そのもどかしさからか、今、散文のように写真を撮り、写真のように文章を書きたいと感じている。”capturing in prose” とした副題の意味は、実は案外根が深い影を抱えている。

When I started this blog, I added a text in French “C’est important de le savoir”(it’s important to know) on the header banner because I always felt something strange in my daily life as a result of cross cultural job and I believe the main topics should be a question how to know a alternative manners of foreign cultures. At first most of posts were written in Japanese and I thought common Japanese believed the foreign language was English. That’s why I started with French text.

After spending a decade with cross cultural nightmare and joyful accidents, I suppose it’s time to step out to the next one. That is “Capturing in Prose”, which I would like to do when I express something with text and photos – taking a picture like prose, writing a text like a picture.

201604-412

 

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

トマレ

201604-111

あるインタビュー記事で「多くの人がiPhoneによって社会が変わったと勘違いしているが、変えたのはAppStoreであって、ソフトウェアである。」といった類いのことが語られているのを目にして、またかと思った。最近は大学にも席を置く知られた人物である。間違っているわけではない。マーケティングの教科書の最初の方に書かれている一般的な分析である。ただ、市場競合を分析するだけでも必ず出てくるコンテクストであったとしても専門外の人には分かりにくい話だから、一般人に向けて分かりやすく基礎の基礎を言うのはある意味当然だ。またかと思ったのはそこではない。日本語として理解していないのではないかと感じたのだ。

iPhoneが社会を変えたと言う時、多くの場合はiPhoneというハードウェアそのものを指してはいない。そこには暗黙の了解のようなものがあって、iPhoneがもたらした全てを指してiPhoneと代表させている。だから、逆に言えば、AppStoreがあってもiPhoneというハードウェア以外で社会を変える事が出来たかどうかは言葉の外にある。概念的だから言葉を重ねる必要があり、便利な表現が見つかれば誰もがすがろうとする。エコシステムなどはその典型かもしれない。
このところ、言葉が安易に直接的な意味に収斂しているような気がしてならない。ワンフレーズが心をつかみ、重層化した表現は置き去りにされ、やがて忘れ去られて行く。どこにいてもつながる世界だからこそ、そろそろ立ち止まってみてもよい時期なのかも知れない。
「トマレ」

 

 

Books, Cross Cultural

A Book: 知らざあ言って聞かせやしょう

201603-211This article was written only in Japanese.

いつものディナーへの道すがら、季節の話題に尽きる頃、誰ともなく持ち出す異文化の理解しがたい体験談。またもその手の話かといづれ誰もが認めているが、それも相手を思い遣る社会の潤滑剤の一部だと、否定できない遠い海風。もともと知ってはいる事すらも「あぁそうなんだ」と頷く仕草。
親しい知人との夕食ならまだしも、仕事の付き合いの食事となれば何かしら会話を楽しむことも礼儀のひとつ。まして生まれ育った国が違うとなれば、互いに響く共通の深い理解も僅かばかりに、表面的な文化の違いに話題が向かう事は避けがたい。しかして真剣な眼差しで質問されて答えに窮するは伝統の保存状況。正月や御盆のように脈々と続く伝統もあるが、それ以外となると案外縁遠い。保存会に参加して今はダンスの稽古中などと言われれば、どうにか答えを探し出し、早々に次の話題に移るしかない。

実際のところ、仕事で一緒させてもらっているフランス人から、小さな子供が伝統楽器を習い始めたとか聞かされると、特段伝統など意識せずに過ごしていることに若干の後ろめたさを感じなくもない。「日本でもそういったことしてるでしょう。どんなのがあるの?」と質問されても答えられない。しばらく前にも三味線の曲を聞かされて、「有名なんでしょ。いいよね。」と同意を求められたが、とんと思い出せなかった。歌舞伎は知られているから質問される可能性が高いが、数時間見るなどという経験はなかなかない。伝統とはなかなかに悩ましいものである。

日本育ちならどこかで聞いた歌舞伎の台詞が簡単な解説と共に多数収録されている。ひとつひとつが短い文章だから全体の様子は分からないものの、気軽に有名なところだけをつまみ食いできるのが嬉しい。歌舞伎ファンには物足りないのかも知れないが、少なくともほとんど歌舞伎を見たことがないなら十分である。勿論、例えば「曽我もの」が何かを知っているかどうかで読みやすさは違ってくるだろうが、知らずとも問題ない。解説を読みながら頷く回数がほんの少し違うだけだろう。読みながら、人前で思わず見得を切るのだけは注意したほうが良い。
ところで、いつものように前半は、インスピレーションからの自分なりの返歌としているつもりである。理解していただければ幸いだが、はて。

最近読んだ本

知らざあ言って聞かせやしょう―心に響く歌舞伎の名せりふ (新潮新書)
赤坂 治績 著

Bonne journée, Cross Cultural

街の本屋

201603-111Written only in Japanese

近くのスーパーで思いがけずカセットテープが売られているのを発見した。透明な矩型のプラスチックに封じ込められた磁気テープのリールが、パッケージの隙間から覗いていた。シーケンシャル・アクセスしかできない不便なそれは、デジタル化の中で急速に姿を消したものの、それでも一定の需要があって今でも売られていることは理解していた。だが実際にそれを見ると、正直どこかで不思議な感覚を覚えた。理解することと現実にはギャップがあるということだろう。
同じような感覚を時々街の本屋で感じることがある。住む街や仕事で向かう街の商店街で見かけた小さな書店は、直ぐに売れ筋の本を手にする場であると同時に、新たな発見をする場でもあった。もちろん、今でもそういった側面はある。それどころか、ここ数年すっかり定着した手書きのPOPは楽しみでもある。一方で、買う事を決めた本を買うだけなら、間違いなく大型書店を訪ねるかオンラインで注文する。発売から少し時間が経てば、小さな街の本屋で探す事は難しい。頭では理解しているのだ。どうせ見つからないからオンラインで注文し、そうやってオンラインで買うから街の本屋は少なくなる。結局、以前からの書店で出会う楽しみは、わざわざ大型書店に出向くレジャーのようになって足は遠退くのだと。それでもこうも思う。街の小さな本屋が少なくなって不便だなと。人間とはそんなものなのだろう。
そのうち街の小さな公園までがそうなりはしないかと、少し不安を感じなくもない。

 

Bonne journée, Cross Cultural

Bonne journée (40)

201602-311

Written only in Japanese

部屋のドアを開け荷物を押し込みながら、ようやくたどり着いたという安堵感とともに、その日に泊まるホテルが快適かどうかを急いで確認してしまう癖はどうにも治らない。長旅の後なのだからベッドに身を投げ出して固まった背中の筋肉をリラックスさせるとか、とっとと荷ほどきをして自分の城を築くとか、あるいはまだまだ元気いっぱいなら早速バーカウンターを目指すとかいろいろありそうだが、とりあえずはあらゆるドアと引き出しを開け全てをチェックする。

そうやってチェックする筆頭は、ベッドや枕ではなくバスルームであることが多い。水が出ないというのには出会ったことはないが、排水されないことはある。石鹸がなかったのでフロントにお願いして持ってきてもらったが、翌日もまたなかったなど普通のことだ。後でチェックしても良さそうなものだが、ひととおり確認してから荷ほどきを始めるのはもはや習慣となった。

そんな確認をしながら気づいたことがある。最近は、地球環境を意識した変化がすっかり定着したということである。もちろん、ずっと続いてきたことではある。メルキュールは「地球を救おう」キャンペーンと称して、以前からアメニティを使わなかったらその分を寄付するとしているし、タオルなどは交換して欲しい時にバスタブに入れてくれと書いたシールを鏡に貼っている。昨年は、とうとうボディージェルとシャンプーが壁から下がっている仕様になった。確かに使い捨てのアメニティよりは環境に良いだろう。そして、その環境対策がコストダウンにもなっている。企業の都合が誰にも良いことであれば、それは継続可能であるに違いない。あまり鉄道網が使えない北米ほどではないにせよ、車社会のヨーロッパでもバス通勤が増えているそうだから、それだけ意識も高まっているのだろう。

さて、ホテルの到着チェックで一番困ったのは、石鹸や水ではない。なんと、ドアが開かなかったということだ。クローゼットとかではない。部屋のドアである。確かに鍵は開いたが、どうやってもドアは動かない。仕方なくフロントに戻って事情を説明したら、フロントマンは実にあっさりとその動かないドアを開けて見せた。少し上に引っ張るようにするのがコツだそうだ。確かにこれ以上のセキュリティはない。鍵を無理矢理こじ開けても泥棒は入れないのだから。