Books

A Book: どくとるマンボウ航海記

201612-101This article was written only in Japanese.

漢字の国に住んでいるのだなぁと感じ入ることしきりである。手紙を書こうとして漢字が思い出せなかった上に、辞書を引いたらその説明に使われていた漢字が読めなかった、などという情けない話ではない。今時、キーボードを叩けば漢字は立派に変換されるし、そもそもそんな情けない話を自慢げにブログには書かないものである。漢字の国だと実感したのは、電車の中の広告を見ての話だ。曰く、
「やめましょう、歩きスマフォ」
あぁ、なるほど、電車も事故やトラブルが多くて、広告でも使って啓蒙する必要があるのだな。というところまではいつもの話である。ただ、その横に書いてあったのは
「不要在走路时使用手机」
という漢字の羅列。中国語に違いない。中国語には心得がないから、読むにははるか昔に習った漢文の知識を総動員するしかないが、この程度なら雰囲気だけでも意味が分かる。必要なのは、「时」という漢字が簡体字で「時」だろうという想像力と「手机」が携帯電話だという雑学だけだ。何々、携帯電話を使っている時は…となんとなく読めてしまう。英語が分かるとフランス語がわかるかといえばそんなことはないが、時々それらしく読めてしまったような気がするのと同じだ。ただ、困った事にフランス語と英語が共通しているのは概念的な単語が多いようで、その上意味も全然違うから、分かった気がしても人に言わない方が良い。“comment?” に対して「特にコメントはない」なんて答えて、バカにしていると思われても責任は負えない。「どうやって?」とか「なんだって?」とか聞かれたのであって、誰もあなたにコメントなど求めてはいない。

さて、歩きスマホの啓蒙広告には韓国語と英語も記載されている。残念ながら韓国語は紛れもなく韓国語だったと感じているが、同じことが書いてあったかどうかまでは甚だ自信がない。僅かでも知識があれば良いのだが、かけらもないというのが正直なところ。棒と丸がたくさん書いてあったから韓国語なのだと言うだけである。ありがたい事に、分かりやすい現代語が4ヶ国語で書かれているから想像できたに過ぎない。ひょっとすると数千年後には新たなロゼッタストーンとして博物館に恭しく飾られないとも限らないが、恐らくは紙切れすら残らないだろう。ちなみに英語は
“Stop: texting while walking”
ロゼッタストーンであったとしたらしばらく誤解が続きそうである。

何をつまらない事で長々と書いているのかと問わないでいただきたい。新たな国、新たな環境に身を投じるという時、この手の薀蓄は案外大切である。いや、ここで書いた薀蓄が重要なのではない。薀蓄を楽しく語る姿勢が重要なのだと信じている。もちろん困った時にその姿勢が必要というのはある。ただそれ以上に、薀蓄でも語ってなければ楽しくやっていけないではないかと、そう思うのだ。

さて、どくとるマンボウシリーズである。ここに常識と定義することが好ましいものはあまりない。そもそも世界に出たいと思ったら、普通、船医になろうとは思わない。たとえ海外に出るのが難しい時代であったとしても、他の方法を探しそうなものである。ところがそうでもないらしい。カナダで観光ガイドをしているというある人は国を農業で出たそうだ。考えてみれば、船医は看なければならない人口は少ない代わりに全部1人で対応する必要がある。暇な時間もあれば緊張感たっぷりの時間もあるとんでもない仕事に違いない。それ相応のユーモアのセンスがなければやってられないのだろうなと想像する。北杜夫、今読んでも充分「新刊書」である。

最近読んだ本

どくとるマンボウ航海記 (新潮文庫)
どくとるマンボウ昆虫記 (新潮文庫)
北 杜夫 著

Books, Photo

A Book: My Family and Other Animals

201608-411

written only in Japanese.
石ころをひっくり返してダンゴムシがわっと広がるのをじっと見ていた夏は、遥か遠い時間の彼方に静かに沈み込んでしまっている。その湿った石の青い匂いはまだ鼻の奧に微かな記憶を残してはいるが、決してそれが本当の記憶かどうかは分からない。記憶とはそんなものだろうし、記憶が定かでないから鼻の奥をくすぐり続けるのだ。ちりぢりになったダンゴムシが草の裏や隣のコンクリート塀の隙間に消えて、その後どうなったのかは覚えていない。きっとずっと見続けていたわけではないのだろう。ただ、翌日になればまた同じように石をひっくり返し、ダンゴムシがわっと広がるのを飽きるまで繰り返し見ていたのだ。
飽きるまで見ていた記憶はもうひとつある。近所の見上げるような神社の大柱と階段の間にできた雨のあたらない隙間に、それは秘密の場所のようにひっそりと隠れていた。昼下がりの生ぬるい光の陰に隠れて潜り込んだ先には、アリジゴクの巣が無数にあったのだ。決して蟻を捕まえて放り込むようなことはしなかった。ただひたすらアリジゴクと一緒に、餌を探して歩き回る不運な蟻が、ふとしたはずみで足を滑らす瞬間をひたすら待っていた。どれくらい待ったのか、何度足を運んだのか、記憶は何も教えてくれない。ただ、不運な蟻がもがけばもがくほどすり鉢の下に吸い込まれ、やがて自然の連鎖に組み込まれていく姿を見たのは、一度や二度ではなかったことは確かである。
そういった記憶には、なぜか自分以外が出てこない。どうやって思い出そうとも、それはただひとりの記憶である。不思議に孤独感がないのには、何か理由があるだろう。その理由にはまだ解がない。

201608-413自然が好きな少年の文学などととらえる向きはないだろうが、そのように読んでも全く問題はない。まばゆい光と自然の創り出す色と時に夜の輝きとに溢れるギリシャの田舎で、少年の目に映る一家の騒動が幸せ一杯に描かれれば、それが少しばかり暗い影を持っていようと読者は一緒に大騒ぎに加わって良いのである。

この幸福感はどこから来るのか、ひょっとすると忘れている子供の頃の記憶の中に共通の何かがあるのではないかと思わずにはいられない。

 

最近読んだ本

虫とけものと家族たち (中公文庫)
ジェラルド・ダレル著、池澤 夏樹 訳

201608-412

Bonne journée, Books, Cross Cultural

永遠に完成しない

201607-111

6月26日付の朝日新聞の書評にて、加藤出氏が「東京β 更新され続ける都市の物語」(速水健朗 著)について書いていた。未読であるのでその書評にも著書そのものにも詳しく触れるつもりはないが、ただその書評にあった一文が気になった。自分の常識と現在が少しずれていることに気づいたからである。書評にはこうあった。
「ITの世界で永遠に完成しないことを「β」と呼ぶことに倣い…」
この言葉が、著書を言い表すものかどうかはわからない。察するに、永遠に作り続けられる未完の都市としての東京がβなのだろう。その通りだろうと思う。変わりつつもどこかに完成したバランスがあるのが普通の都市だが、東京は変わり続けることが東京の定義であるかのようだ。少なくともそう見える。
しかしながら、ITの世界でのβという話であれば別である。ソフトウェアでのβは、完成したものでなければならない。
「すべて要件を満たし、もうやることはありません。完成です。ただ、テスト完璧に終わっているわけではありません。もし、何か違ってたら直すかもしれません。」
そう、どこかに未完の可能性を残しているかもしれないという言い訳のような気配を残して言われることはあっても、完成はしているのだ。そこには物事に対する向き合い方の違いが明確にある。ウェブで「β」という時、それは、
「このサービスには完成形としての自信があります。ただ、皆さんにご協力いただいて少しばかりテストさせてください。」
と言っている。未完成だとは言っていない。どこかに不完全な部分があるわけではない。アップデートされるのは、完全だと思っていたものに対する何かしらの改善が必要だと分かったからである。永遠に完成しないのではない。

201607-112
冒頭の写真も、遠景は毎年繰り返すように雑然としたまま何も変わらない。

いつからか、完成しないことが当たり前のように言われるようになってきたような気がしてならない。完成しないことがいけないと言いたいのではない。ITであれ都市であれ、その時々で人は対象を完成をさせてきたのだろうと思うだけである。あとで振り返って永遠に完成しないと評されれば、それは後出しジャンケンみたいなものである。
十分な時が経てば、恐らくは都市のある瞬間のスナップショットは完成した様子を見せるだろう。それでいて、その次の時代には更新されている。そう言うものだろう。

美しく植えられた花壇には美しく花が咲き、季節はそこでも着実に進んでいく。いくら手をかけても、時は止まることがない。たとえ雑草であっても、前年に一所懸命刈り取った場所であっても、それは季節とともに帰ってくる。永遠に完成しないと思っているのは、案外繰り返す日常のなんらかの言い訳程度のものかもしれない。

 

Books

A Book: マラケシュの声

201606-311This article was written only in Japanese.

「ここは異世界ですね。ガラス張りのタワーやコンクリートのオフィスビルがぽっかりと開いた穴に落ち込んでしまったようです。」
そう話しかけると、忙しそうにファイルを束ねていた手を休め、フロントの大柄な男は胡散臭そうな目を向けた。
「何か誤解されているようです。ここもまたパリに違いありません。いつでもパリは世界の先端にいました。鉄を組んだエッフェル塔も、サンラザール駅も、いつも先端だったのです。ここが他と違う理由はないのです。」
背にある壁に貼りつくように並べられた木枠にファイルを収め、ボールペンをカウンターのペン挿しから抜き出すと、フロント係はあらかじめカウンターに隠していたとでも言う様に地図を取り出しておもむろに丸を付けた。
「あなたは今ここにいます。どの観光客もが期待するパリはこの辺り一帯です。行き方は分かりますか?」
もちろんわかっている。モンパルナスに来るのは初めてではない。フランス西部への玄関口であり、観光地から少し外れたここは、ビジネスライクな街としての顔も持っている。
「それは結構。重厚な石の街がお望みならまだ時間はたっぷりあります。夏で良かった。あと2時間は明るいでしょう。もっとも、石の街はまだまだなくなりはしません。明日でも、来年でも大丈夫でしょう。あそこは時間を止めてしまった街ですから。」
ルーブルの地下に広がるショッピングモールはどうなのかと反論しかけたが、言葉は音にならなかった。それはどうでも良い事だった。フロント係の男には観光地の喧騒が好きになれないだけの事だろう。そう思いあたったのだ。誰にでも好きになれない場所はある。
「では、夕食がてら歩いてきます。」
そう言ってクロームの枠が斜光に反射して眩しいガラスの回転ドアに向かおうとした時、フロント係はもう次の仕事にとりかかっていた。回転ドアは、押そうとする前にすでに廻り出していた。
201606-312外に出てゆっくりと周囲を見渡すと、すぐ先のレストランの入り口には、メニューを書いたボードと、赤いテーブル3つと藤田嗣治の書いたような淡い茶色の猫が静かにあった。猫はテーブルの足の間に小さくなって、アールヌーボー風のデザインの一部を成していた。その藤田と夕食を共にするのも一興だとは思いながら、その近すぎる場所に腰を下ろす気にはなれなかった。せめて2ブロックくらい歩いてからでなければと義務感のように何かを感じていたのだった。レストランの先には19世紀のものと思われる石造りの街が見えていた。私は踵を返して、近代的なビルがそびえる駅へと歩き出した。すれ違ったムスリムの女性は、聞きなれない言葉で電話をしていた。

見知らぬ土地への憧れとわずかな躊躇が重なりあって旅は前に進んで行く。時にホテルのドアの隙間から差し込まれた招待状が、時にドアを開け瞬間に目を合わせた旅人のぎこちない挨拶が、異文化への出会いのきっかけとなる。そうした意味で旅行文学に分類されるのかもしれないが、それは同時に異空間にある自分を鏡で見る内省の部分を読者側に強制しているようでもある。単に異国を旅する憧れの部分だけでは説明しようのない、孤立感とも違った異質な自分がそこにある。異文化と思ったものは、そこでの日常であり、日常と思ったものこそがそこに紛れ込んだ異文化である。それが旅だろう。
読み出せば間違いなく旅に出たくなる。マラケシュの喧騒は、読後もいつまでも耳に残る。
いつものように、前半のストーリーは、感想代わりの自分なりのオマージュである。今回は実話ではないが、知人の言葉と実際のホテルでの会話とをミックスして再構成した。

最近読んだ本

マラケシュの声 ー ある旅のあとの断想 (法政大学出版局)
エリアス・カネッティ(Elias Canetti) 著、 岩田 行一 訳

Bonne journée, Books, Cross Cultural

映画と読書

201605-311

どんなに息苦しい場面であっても、どんなに退屈な日常であっても、映画の中の時間は製作者が意図するように進んでいく。ちょっと辛いと感じようが欠伸がでようが、見る側の介在をきっぱりと拒絶し、ささやかな抵抗と言えば、せっかく買ったチケットをあきらめ自ら席を立つこと程度しかない。だからなのか、映画館では眠っている輩も少なくない。いったい、激しく音が鳴りわたるアクション映画を見ながらゆっくり休むことが出来るものなのか、私にはとんと分からないが、そうやって居眠りしていても時は流れて行く。長距離便の機内で疲れきった体の中をコーヒーで洗いながら見る映画となれば、時に悲劇が訪れる。ゆったりと時が流れる映画の途中で意識を失い、目覚めた時には急展開の後半に、事の背景も分からないまま結論だけが提示されたりする。

そんな映画へのアンチテーゼというわけではないだろうが、時の流れを基準に映像をつなぎ合わせた「The Clock」は秀逸である。12時の時を告げる緊張感とランチタイムの安堵感は、まさに「時」そのものを見せてくれる。ともあれ、楽しみながら見ようが居眠りしようが、時には自宅のDVDを停止して食事をしようが、それが断片的であれ、映画は製作者の意図のままに時が流れるものである。
しかるに、本を開きその世界に入っていこうとする時、それは強い意志を持って時間を切り開かなければならない瞬間ともなり得る。辛ければ本を閉じれば良い。退屈ならコーヒーを沸かしのんびりしたって良い。紙切れの向こうの主人公など気にしなければ良いのだ。それでは困ると作家は思うのかもしれないが、知ったことではない。読者が好きなようにして良いのが本なのである。だが、同時にそれは、読者が強い意志を持って読み進めなければならない瞬間もあることを示している。先に進みたくなければ本を閉じるだけで良いのに、意志を持って読み続けなければその先の地平線が見えないことだってある。辛かろうが退屈だろうが、地平線が見えるその場所には自らの意志で読み進めなければならない。そうやって努力して読み進めたから得られる感慨もまた、読書の一部である。