
ちょっと立ち止まる週末。
I’m back now.
capturing in prose

I’m back now.
通勤電車の妙な静けさの中にいると、小さな咳に罪悪感のようなものを感じなくもない。「いえ、たまたま喉がイガイガしただけです」と心の中でつまらない言い訳をしたりもする。ひとは騒音を聞き続けるとそこが一段高い基準となって、いつか慣れるものなのだろう。だから電車を降りたところで急に静かになったとは考えない。通勤ラッシュの車内は、そうした意味で、誰もいない滝壺で静けさと自己に立ち向かいながら修行でもしているような場所である。誰かが気にも留ない小さな咳をした時にその修行の場を乱す罪悪感を持つのは、咳をする自分自信の孤独な所業なのである。
ところが、少しばかり大きな咳をふたつみっつすると、状況は一変する。誰ひとりいないはずの滝行の場は、途端に異端裁判のくすんだ空気へと相変化してしまうのだ。向かいに座って新聞を広げたサラリーマン風の男は、ばさっと新聞紙を揺らすようにして警告を発し、となりでスマートフォンに熱心に何かを打ち込む和装の女は、スマートフォンに向けた顔を微動だにせずちらりと目で威嚇する。咳をした側は慌ててハンカチを当てるのが吉である。誤ってそのままさらに咳をしようものなら有罪は確定したも同然。バツの悪い孤独感ではすまないものと思った方が良い。
そんなことを思ったのは、通勤電車で漫然と広告を眺めていたら、薬の広告の不思議な符合に気付いたからだ。自分の右手には「あ!これが、私の頭痛薬」と小ぶりな広告が貼られ、目を同じ位置の隣の部分にやれ「あっ!このかぜ薬」と同じ大きさの広告がある。どうしてこうも強制的に発見させられなければならないのか、広告担当者はもう少し考えてもらいたいものである。もちろん会社も違うから単なる偶然だろうが、どうも釈然としない。そんな風にモヤモヤとしながら小さな咳をしたものだから、冒頭のようなことを思ったのだ。
いや、分かっている。もちろん勝手にくだらないことを考えているだけだ。秋も本番である。
話すことによってではなく聞くことのによってのみ話す行為を終えることができる、それが生きることの宿命でさえある。声を単に発することは話すことではない。聞き手がなければ、唸り声をあげようが哲学を語ろうが同じことである。一方で相手の言うことをうわの空で聞けば、寝ていても同じことである。相手の言うことを聞いてこそ話すことは終えられる。
塩野七生によれば、カエサルは「ひとは見ようとしたものしか見ない」言ったそうだ。一次資料にはあたっていないから真偽のほどはわからないが、少なくともこの言葉はそれを知る以前からずっと、胃の上あたりで疼く違和感のようにまとわりついてきた。特段イヤな言葉とかいったわけではない。ただどこかに上辺だけでも取り繕いたくなる基準となる原器のようなものがあって、それを知らないふりをし続ける鈍い重みのような、小さな悪徳を抱えている気がするだけだ。
見聞きする日常は、当たり前すぎてかえって遠く霞みゆく。
There is nothing more difficult for a truly creative painter than to paint a rose, because before he can do so he has first to forget all the roses that were ever painted.
– Henri Matisse真に創造的な画家にとってバラを描くこと以上に難しいものはない。だって、そうするにはこれまで描かれたバラを全て忘れなければならないんだから。
– アンリ・マティス
であれば、どう写真を撮れば良いというのか。よほど創造しようとする意欲があっても制約が多過ぎるというものだ。淡いオレンジと強烈なオレンジが溶け合うこと無く混じり行く10月。
エキゾチックなリゾート写真を見て、いったい何処だろうと写真の隅に書かれた小さな文字を頼りにJag Niwasなるものをgoogle mapで探していたら、地図の真ん中にホテル価格が47306円と現れた。さすがに観光地は高いと思ったら、近くには1117円のホテル。相場がまるでわからない。地図をピンチアウトしてようやく頭の中で情報が結びついた。インド屈指の湖上ホテルではないか。きっと街中には手軽なゲストハウスもあるのだろう。バックパッカーには1117円のホテルも重要な情報である。その日どれだけ安くても居心地の良いホテルに泊まれたかで次の日の行動が変わることもあるからだ。単にコストダウンとかいうことではない。
バックパッキングよりも高級ホテルに泊まるオシャレな旅のほうが嬉しい思うようになって久しいが、たまにこんな値段の差を見たりすると身軽な旅もいいなと思うこともある。少し高いホテルになるとどうしても情報はコンシェルジュからとなる。ロビーやエレベーターで知らない同士挨拶しないわけでもないが、どことなく距離感みたいなものがあって、美味しいイタリアンの店を知りませんかとはなかなか聞きにくい。聞く相手を間違えると「あの人怪しい」なんて思われかねない。その点、小さな安ホテル(ただし真っ当な)だと、いきなり「裏のレストラン行った?安くて美味かったよ。」と聞いてもいないのに情報が入ってきたりする。星が4つもついたらなかなかこうはいかない。その上、仕方なくコンシェルジュに訊ねようものなら妙にスノッブなレストランを紹介されて高くつくことになるのは道理というものである。何しろ変なレストランでも紹介したら、紹介したホテルの品位が問われかねないではないか。
一度、フランスの小さな地方都市で少し高級なレストランの名前を口にしたら、地図を見ながらそれはもう丁寧な案内をされたことがある。旧市街を抜けると近いが道が複雑で迷うからタクシーで行けと危うく電話までされそうだった。何度か来て慣れているから大丈夫だと言って断ったが、きっとインセンティブでもあったに違いない。
当初は汚い表現のタイトルでしたが、あらためました。
