Bonne journée

Mostly Monochrome Monday 25-11-19

今日が始まることさえも隠そうとする冬霧が街を漂う。
やがて見通しが良くなる頃、誰もがそのいち日を引き返そうなどと思わないほどに街は動き出している。

The fog blocking my view tells everyone in the town that wintertime is coming.

A Part of Mostly Monochrome Monday

Bonne journée, Photo

left 10 percent

雨の降らない10月は誰もいない夏の海より物悲しく、雨に凍えない11月はもはやブルターニュではない。どんな誰とどこですれ違ったかなどちっとも覚えていないこの1年が、最後の10%を迎えようと言う段になって慌てて取り繕い始めたように、コートの襟を立てて過ぎて行く。どこか胡散臭い傾いた太陽より、リフトで飾り付けられたクリスマスデコレーションを求めて空を見上げる。頬にあたる雨粒は決して痛くはない。

Having walked in a plaintive October under the rain, then Brittany doesn’t find a November with no chilly days. The Christmas is just behind the misty curtain with no pain. 

Bonne journée, Photo

DST

特に感傷的な気分になる必要もないのだが、夏時間(DST)から標準に戻るというだけでなんとなく冬になったような気がするものである。いつまでたっても明るくならない朝が少しばかり早めに明るくなったところで、差して違いがあるわけでもない。街路樹がだいぶ葉を落として、少ない日差しが少しでも歩道に届くようになったことに至極深い喜びを感じるものでもない。単に時計合わせをするだけのことである。それでも人はそこに意味を見出すものである。

まもなく気の早いクリスマスの飾り付けが本格化する。すでに街路には雪の形のライトがちらほら現れてきた。きのこもリスもボーッとはしていられない。

Bonne journée

Cross-cultural (2)

そう言えば、先日の話題はずっと身近な課題であった。というところまでが前回の話だが、何かと言えば制限速度のことである。

郊外の一般道の速度制限が時速90kmから80kmになって、郊外に住む者の権利はどうなる!って議論の基準がおかしいだろうと思うのは東京近郊に長く住んできたから?

ニュース報道と知人の議論を聴きながらふーんと面白がっていたが、そもそも郊外の道の制限速度が90-110-130と分けられている事に疑問を持たないのも変だと気がついた。ドイツはやりすぎだけど、フランスは日本と違って速くていいなという程度に思っていたが、フランス人の知人は事故率や死亡者数の数字を見ながら、どうやって効率と安全を両立するか真剣に議論しているのだった。
たしかにすれ違うのがギリギリの狭い田舎道も90km/hである。ぶつかればタダではすまない。でも、たいして人の住んでいない隣の集落まで10kmあって、その間誰ともすれ違わなかったら制限する理由はない。難しいところである。

小さな街でもやっぱり夕方は道が混むよね。5時過ぎるとどうしても渋滞は避けらないかな。と会話していたが、7時過ぎたら道はガラガラ。

絶対数は少ないのだ。

穏やかな光溢れる昼下がり、ほおを伝う風は心なしか冷たくも軽やかに舞い、野原には様々な花が咲き乱れる春。伸びをしながら息を深く吸い込めば、豊かな牛の香り。うーん、ブルターニュ。

ブルターニュが基準とは言わない。田舎道を牛が横切ることはあるが、ちゃんと案内がある。どこでも牛が横切るわけではない。ちょっとだけ田舎だから、時速90kmに問題はないと考える人が少なからずいるだけだ。結果として、死亡者数は決して低くない。
田舎である事が理由かどうかわからないが、ここでは横断歩道に歩行者がいれば、車は止まる。100%止まるわけではないが、少なくとも2台に1台は止まって、歩行者の横断を待つ。

路線バスが手を振りながら走って来る乗客を待つのは見たことがあったが、反対側を追いかけて来る客のために止まって横断をサポートした上、バス停で待ってあげたのは初めて見た。それだけ田舎ではある。

田舎と言ってもパリと比較しての話であって、日本の地方都市くらいの人口はある。バスも縦横無尽に走っているし、さすがに都市部には牛は歩いていない。でも、バスは庶民の足であるし、多少の融通はきかせるのだろう。もちろん、運行はゆるい。時刻表などあってないようなものだ。時刻通りとは10分程度のずれの範囲を意味している。東京もそんな感じだから、さして違いはないが、ほとんど車の走っていない早朝であっても時間のずれは普通にある。

いつものバスが来ない。多少の遅れは普通だから気にはしなかったが、朝の通勤が始まる少し前だから混雑を覚悟。でもなぜか10分遅れのバスなのに人は少ないし、前の席では巻きタバコの製作に忙しいお父さん。

正直言って良く分からない。知人に聞けば、フランスとはそのような国であると、分かったような分からないような妙な答えが返ってくる。深く探求しないほうが良いだろう。その昔、シアトルで運転手の痴話喧嘩の煽りを食って飛行機に乗り遅れたのとはわけが違う。

ターミナルのドアからセキュリティチェックまで10m、飛行機までさらに20mの空港では、1時間の待ちはとんでもなく長い。長距離バスのバス停で1時間待つのと同じだと悟った。

田舎のメリットはこういう時に発揮される。無意味な時間を過ごさずにすむ。だが、これが案外活用できないものである。飛行機に乗る時は2時間前までに着くように行くべきだなんて刷り込まれているから、どうしても早く行き過ぎて待つ事になる。もちろん早すぎるくらいの方がずっと安心ではある。問題は、やる事がないという事だ。しかも長距離バスと違って空港の周囲にも何もない。飛行機にはどうしても長く面積の食う滑走路が必要なのである。田舎だからと言って、滑走路は省略できない。しかして、店の1件しかない空港でやる事なくゆっくりと時間を待つのである。せめて食べるものがほしいが、小さな空港ではクッキーかクロワッサン以外にあまり選択肢はない。

今日はちょっとした記念日なので社員食堂のようなところでデザートを取ることにした。あらためて眺めたら、ムースなどを含むケーキの類だけで4種類、フルーツやヨーグルトを合わせれば10種類くらいあった。

空港には何もなくても、何もなさそうなレストランでデザートが充実しているのもフランスである。ダイエットでもしていないかぎり、皆がデザートをとっている。デザートをとらないとどうしたのと聞かれる始末だ。いや、こっちの食事は多すぎるし油も多いからデザートはやめてるなんて言い訳しなければならない。「さすがだなぁ。フランスは野菜も少ないし良くないよね。」と、ひとしきり健康的な食事の話で盛り上がる。基準がどこかずれていなくもない。

複数の会社が運営を委託する社員食堂みたいなところに行ったら、お昼ごはんに強烈なラム酒のデザート。そうか金曜日だしねと思ったけど、午後は仕事しないのかな。しかもみんな車で帰るんだよね。

売れたのかどうかは分からない。カクテルグラスが涼しげに並ぶデザートコーナーには、確かに本日のスペシャルとは書いてあったが、フランスとは言え、最近は運転前のアルコールの制限は当たり前になりつつある。増してレストランは一般向けではなく、会社員向けの会員制である。文化の違いとはそんなものなのだろう。

窓を開け放ち、夕方の心地よい風を部屋に通す。遠くからの教会の鐘と春めいた空気を感じながら、久しく飲んでいない緑茶をグラスに注ぎ、ゆったりと椅子にもたれかかる。 だから緑茶に蜂蜜入れるのはやめろ!

そう思うのは、どこかで日本の文化的背景の元に物事を見ているからである。緑茶に蜂蜜を入れてはいけないというルールはない。仕事中にラム酒がいけないわけではない。車で帰る事だってある。なんてことは思わないが。

フランスでは車の値段に比例して運転が下品になるような気がする。ひょっとして社用車だから?

かくしてラム酒のたっぷり入ったデザートをいただいたサラリーマンが酔っ払って運転している、というわけではない。少々高級なドイツ車に乗っているということは、会社から支給された社用車を使う管理職である可能性も高い。名義は会社である。罰金の請求は会社に来る。それが自制作用となって働くか、自分じゃないから大丈夫といういい加減さとなって現れるかは、その人の文化的背景にもよる。会社に速度違反の通知が来そうだからというのが理由でゆっくり走るような国ではないだろう。速度超過には事故のリスクはあっても現に事故は起こしてはいないではないか、そう考えても不思議ではない。とはいえ、アルコールだけはどうやら厳しくなってきたらしい。少しばかり日本より基準はゆるいらしいが、酒気帯び運転は厳禁である。

フランスはまだタバコを吸う人も多く、歩きタバコも珍しくないが、歩き水タバコは初めて見た。邪魔じゃないのか?

フランスは、タバコの制限も比較的早かったが、いつの間にかタバコについては日本の方が厳しくなったような気もしている。案外歩きタバコの人は多い。しかも火のついたタバコを街中で振り回す。誰かにぶつかって初めて危ないことをしていたと気がつくのもよくあることである。水タバコも度々見かける国だから、タバコについては多少大らかなのだろう。もちろん健康については多少うるさいが、まだまだ生活の中にタバコはある。(値段は相当高いらしい)

霧の朝は全てを覆い隠してくれる。タバコの吸い殻も、昨夜の馬鹿騒ぎのあとも、犬の散歩の結果も。

結果として、歩道には吸い殻が散乱している。朝霧のまだ暗い時間帯は美しく輝く石畳も、霧が晴れて日差しが石畳を乾かし始める頃にはタバコの吸い殻や割れた瓶のかけらで薄汚れて見えてくる。大抵そうなる直前には道路清掃車が綺麗さっぱり汚れを取って行ってくれるのだが、時にどうして自分たちの住む場所を汚すのだろうと考えなくもない。ごちゃごちゃとした看板もなく花が飾られた美しい街並みは、足元に視線を下せば案外薄汚れているものである。少し遠い目線で見ているのが一番美しい。

ウェブで見たヴィアンデン城(ルクセンブルク)が「いいなぁ」と遠い世界のように思って何となくGoogleしたら車で7時間。地続きとはそういう事なんだなと。

なんだかんだ言ってもヨーロッパは巨大な大陸の一部である。地中海文明もモンゴルの侵攻も皆含めてヨーロッパをなしている。フランスと一括りにするのも憚られるのに、その巨大な大地の少し向こうにある他の国まで一括りにすることなどできない。それでもルクセンブルクはフランスの西のはずれからでも車で行ける場所にある。「フランスは」などという一括りの見方は恥ずかしいほどにミクロであり、同時にマクロすぎる味方である。結局は自分がどう感じ、どう学ぶかなのである。

Bonne journée

Cross-cultural (1)

ここ数ヶ月の自分のツイートをみたら、案外たくさんクロスカルチャーなことを呟いていた。
なんどもフランスには来ていても、住んでいたわけでもなければ当然気がつく事も限られてくる。生活しているからこそくだらないことも気になり出す。そういうものだ。美味しかった食事もひと月もすれば慣れるというものである。やがて旅行だったら気にすることもないだろう些細なことが、生活に慣れたが故に鮮やかさを増して飛び込んでくる。

分かるんだが、やっぱり使う段になると妙なところで律儀だなぁと感じるゴミ袋のヒモ。フランスをはじめ、案外このパターン多し。

いや、どうでも良いのである。呟く理由なんてどこにもない。単にゴミを捨てたから新しいゴミ袋をセットしなきゃと思っただけなのだ。でも、セットすればゴミ袋のヒモは無視するわけにもいかない。無視しても良いが、疑問を持たないわけにいかない。だって、今まで日本でヒモなどついていないゴミ袋をずっと使ってきたではないか。資源にうるさいフランスが何故追加のコストを払うのか。(見たことがないとイメージがわかないかもしれないが、ゴミ袋にはヒモがついている)

なんでこんなに天気予報が当たらないんだろうと思ったが、当たらないと表現している時点でクジと同じ。どうせ降ったり止んだりと思っている時点で実は当たり。

天気予報が大雑把なのもやっぱり生活していれば気になってくる。旅行中なら避けようもないからどんな天気でも仕方ないが、生活してるのだから、天気が悪ければ用事を少し延ばすことも考えたくなる。用事を延期したところで、旅行ではないのだから乗るはずだった飛行機に遅れる事もない。そうなると天気が気になり出してくる。気になるというのに、フランス北部は霧と言われても何の判断材料にもならない。雲時々晴れ一時雨も結局はわからない。仕方なくフランス人に天気を聞けば、今日は晴れだと言う。3月のブルターニュの晴れの定義は「あまり降らない」。だから今日は雨である。

しとしと雨が降ったり止んだりの冬からジブレ(giboulée=驟雨)の3月になって、もう春だねという会話が弾む。でも結局雨の種類が違うだけじゃないか、というのは心にしまっておく。

ほらね、というわけである。で、ある日突然暑くなる。

あまりに気温が高いのでとうとうセーターもコートもやめたが、周りを見渡せばノースリーブとショーツという真夏スタイルからダウンのコートにマフラーまでバラバラ。ホントに自分の好きなように過ごす国。

だから周りを見渡しても意味はない。自分が感じる天気と気温に合わせるしかないのである。
フランス人が傘を持たなかろうが、ダウン着てる隣でポロシャツだろうが、一向に構わない。それで仕事がうまくいかなかったとか友達関係が悪くなったとか聞いたことがない。フォーマルな場(つまりは仕事じゃない)だったらジャケットくらい着ようよと言う話はあってもそうしろとは誰も言わない。そんなわけでか時に時間も超越する。つまりは年齢で服が変わる国でもない。

土曜の街の風景は日本とさして違わないが、真っ赤なシャツのおじいちゃんとか真っ赤なタイツのおばあちゃんとかが歩いているあたりは、やっぱり違うのかなと思わなくもない。

まぁ、かっこいいのである。もちろん生き方がであって、姿がかっこいいかどうかは個人差がある。正直、それはやめなさいと時々思わなくもない。若い連中に多いコスプレにもそう思うことがあって、その意味ではこちらも年齢とは関係ない。しかもフランス人の感覚だから肌の露出度まで忠実である。目のやり場に困る時は早めにその場を去るのが良い。彼らは気にしていない訳で、気になると思う側が勝手に気にしているだけのだ。だから仕方ない。彼らに悪気はないのである。

歩道いっぱいに広がって向かってくるおしゃべり3人組を仕方なく広いところで待ってあげたら、にっこり笑ってメルシー。何にでもお礼を言うのは良いが、小雨なんだからその前に少し道を空けてほしい。

小雨であっても雨が気になるならなんで傘を持たなかったの?という事なのかもしれないが、実際のところ彼らは他人はあまり気にしないからこんな事になる。この、他人を気にしないのと他人を気遣うとの間には、見方に大きなギャップがある。気にしないから気遣う事がないと言う話ではない。むしろ、他人を気にはしないが困っていれば助けると言う感覚である。他人を気にするが気遣わないというのとは対極にある。

お役所の受付カード取りに列に並んだが、フランス人が文句も言わずに列を作ったのは意外だった。でも、ベビーカーを押したマダムが後から来てしっかり先頭を譲ってもらっていたのは、いかにもフランスらしい。

待ってる間は列をはみ出したり友達と大声で電話したりと騒々しかった人々が、「こんなに混雑するとは思わなかったの。べべがいるから先に受付させて。」と言うマダムに誰ひとり文句を言わない。早く来ればいいだろうとは思っても、それに文句を言う事とは違うのである。これを価値観の違いと片付けるのは簡単だが、おそらくはそんな単純な話ではない。
車が来ようが赤信号でも交差点を渡る行為が、なんらかの価値観に基づくものとも思えない。単に待つのが面倒で、ちょっと車が途切れそうな気がしたから渡り出したか、自分が渡りたいから渡っているのか、そんなところである。フランス人ですら困っている。何かの核心的文化背景があってのことでもない。

混雑して待つ事が当たり前のレストランだから待たせないように一所懸命工夫するのは美徳だが、待たせるくらいなら断るのも良い文化。それでも待たせたら、とりあえずお詫びのひと皿が出てきたりする。

ただ、自己主張をしているばかりではない。夏の週末の夕方、まだ明るい20:00のレストランに予約もなく向かえば席が空いていないことも多い。だからといって無理を押して席を確保しようという事もない。空いていないものは仕方ない。来る前に電話一本入れて確認したというならまだしも、空いていないのはどうしようもない。「えぇ、本日は予約でいっぱいです。どうぞ次はあらかじめ予約なさって下さい。」と言われれば諦めて他を探すというものである。なんとか席を確保しますから待って下さいというのは聞いたことがない。ベストな状態で客にサービスするためには断ることも仕方ないというものである。
だからフランス人はなんでも主張するとか、サービスが不十分だとか、そんなことを日本人同士で話しているとちょっと的はずれなのかもしれない。

日本人と食事しながら「フランスあるある」で盛り上がったが、ふと周りを見て全員がフランス人なので少し焦った。周囲は変なテンションで盛り上がる日本人を見て、「日本人あるある」だと思っていたに違いない。

見えていない文化背景や個人の想いが行動の裏にはあるかもしれない。フランスにいる日本人は、日本語で言う「外人」なのかもしれない。
日本語の「外人」には「移民」とは少し違うニュアンスがあるが、フランスに住んでいれば文化的外人であると同時に、フランスという社会に住む「移民」としての外国人であることを意識せざるを得ない。滞在許可を得なければ不法移民になってしまうし、携帯電話の回線も契約できない。しかも、日本の様々な申請書が日本語で書かれているように、フランスの行政文書はフランス語である。挨拶ができる程度では歯がたたない。

珍しく行政関連ウェブサイトで英語が選択できたので英語に切り替えてある申請を行ったのだが、確認メールはフランス語だった。片手落ちだろうと思いつつ、英語を用意しただけえらいと思い直した。

フランスに住んでるんだからフランス語で話す努力をするのは当然である。フランスに住むからには話せて当然という考えもあるくらいだから、せめて努力くらいしなければならない。それでも通じなければ、何人かは助けてくれる人も現れる。しかも、若い人は英語を話す人も多い。なんとかなるというものである。そのためにもまずは努力は必須と言える。ただ、

英語でひとしきり話した後では « d’accord » (「了解!」とか「いいよ!」)なんて簡単な単語がでてこない。

少なくとも、挨拶くらいは英語より先にフランス語が出る程度になるべきだろう。だからちょっとした進歩が異常に嬉しかったりする。フランス語がある程度話せれば、新しい言い回しを覚えたとか新しい単語を覚えたというのが進歩なのだろうが、フランスに来たばかりだと、進歩はもっと原始的である。

広告のURLをみて、最後の «.fr» を「エフエール」と読むようになると一歩前進かな。5kg と言っているのに 3kg と聞こえるのは一歩後退だけど。

5はサンクだから、要は数字が日本語で聴こえているということである。よく英語で話す事に慣れていない日本の高校生が年号を言うのについそこだけ日本語で言ってしまうのに似ていなくもない。そんなものである。少しフランス語に慣れてくると次は冠詞が気になるようになる。フランス人の知人に言わせればleだろうがlaだろうが意味は通じるから、冠詞なんて後でいいそうだが、気になることには違いない。そもそも、a apple and a orangeで何が悪いと開き直ることなど許されない英語教育をうけてきたのである。

GAFAはフランスでも冠詞なしで « taxer GAFA » (GAFAに課税する)のように言うが、最近冠詞付の « les gafa » を見かけた。いよいよ一般名詞化してきたのかも。

まぁ、正直どうでも良い話ではある。こんなことが気になったところで、フランス語が話せるわけではない。それどころか、母国語でもない英語が話せるだけでだいぶ気が楽になるくらいだから、外国語は難しくて当然なのだ。世界中で母国語が使われるアメリカ人は、語学の難しさを理解しないなどと乱暴なことを言う人も多いが、あながち間違っていないのかもしれない。学生時代の英語学習の積み重ねとその苦労は、伊達ではないのである。

空港で久しぶりに美しい英語を聞いてなんとなくホッとした。しかも耳慣れたイギリス英語のアクセント。以前だったら英語で安心する事などなかったのに。

その点フランス人は外国語学習の難しさを多少は理解している。フランス人の知人と旅先で丸一日英語で話をしていたら、終いには「脳が砂糖を要求している」とぼやいていた。まだスペイン語の方が楽だそうだ。何しろフランス語とは姉妹だから、書いてあればだいたい意味がわかるとか。その点、英語は単語の違いもそこそこあるし、発音も違うし、脳をフルパワーで動かす必要があるらしい。日本語が母国語の自分からすれば、どっちも遠いのは同じなのだが。

フランス人の友人に、何か欲しい時にフランス語も分からずどうしてるのかと聞かれた。« ça » と言いながら指差す方法を教えてあげたが、ついでに「これ」と言いながら指差す方法も説明しておいた。

言葉なんてそんなものである。政治を議論するとか哲学を語るとか言うなら簡単ではないが、愛を語るなら案外容易なのだろう。まして、売る気満々の店員に買いたいものを伝えるのは、さして難しくはない。ただ、無意識に分かるようになるかどうかはまったく別の話である。車を運転していて視界の隅を通り過ぎた文字は全く頭に入らない。

ニュース(フランス語)を見ていて、背景の映像に書いてあることがみんな頭にすっと入ってくるので驚いたが、何のことはない、ゴーン氏のニュースで日本語の背景だった。

分かって当然である。母国語とはそんなものである。ただ未だにわからないのは美容院に行くと言った時の周囲の反応である。

週末は何をするのかと言うから、特別な予定はないから髪を切りに行こうと思ってると普通に答えたつもりだが、それは大変だねと心から応援された。 そんな大それたことという意識はなかったんだけど、考え直した方がいいのかも。

確かに髪を切って下さいというくらいは話せても、こんな風にしてほしいと伝えるのは簡単とは言えない。写真を持って行けと言った話もあるが、それ以上に常識の違いが大きいのかもしれない。今時はこんな髪型が普通だろうという共通認識が、至極当たり前だがフランスでの認識なのだから、思ったとおりにならないのは当然である。

先日とは別な人に週末はどうだったと聞かれたので、髪を切りに行ったと答えたら「そんな危険な事を…」と真顔で驚かれた。やっぱり大変な事をしてしまったらしい。元気でいるのは偶然なのかも。

こうなると、髪型以外に何かしら秘密めいたものがあるとしか思えない。もしかして、行ってはいけない美容院があるのか。いや、すべからく美容院は危険な存在で、今回は世間を知らない奴が来たから見逃してくれたのか。ひょっとすると、初めて行くときには特別な挨拶があって、それができないと帰って来られないという可能性もあるのではないか。

あまりに驚かれるので、髪の毛とんがってないし、今も黒いままでしょと念のため確認してみた。そのあとは、どうやってランデブーとったのかとか、どうやって髪形指定したんだとか根掘り葉掘り。

あぁ、やっぱり言葉が難しいことを心配してくれたのかと安心した次第である。良く聞けば、あまり上手ではない美容師さんもいて、思った髪型にしてくれるところを探すのは、フランス人でも案外大変だそうだ。ひとりで探してひとりで行くのは無謀だということらしい。そんなこともないと思うのだが。
難しいといえば、デモを見分ける方がずっと難しい。デモは日常的に行われているから、特段特別なものでも危険なものでもない。ただ、それが暴徒化するかどうかは全く分からない。フランス人も分からないそうだから、分からないうちは遠巻きにして静かに離れた方がいい。フランス人の知人は催涙ガスにやられて酷い目にあった。レストランから帰ってきただけなのだが。

面白いのは、それ以外はいたって平穏で、警官隊の封鎖の外側で子供たちも普通に遊んでいるし、初夏のような午後をカフェでおしゃべりしながら楽しむひとがいっぱいな事。デモ慣れしすぎかも。

だからレストランの帰りに催涙ガスにやられたりするのだが、大抵の場合には暴徒化しないし、デモが身近にあるから社会の課題も身近に感じられるというものである。保育士さんの保険がどうのこうのと言ったかと思えば、違うデモではジレジョーヌのデモに反対というデモがある。どちらも声を張り上げて主張を繰り返しているが、どこかピクニックの気配もないではない。それを市民が遠巻きに聞いている。そうやって、社会の課題が共有されるのである。主義主張が正しいかどうかはこの際関係ない。それで議論が起きることが健全なのである。

ジレジョーヌ(黄色いベスト)デモに便乗した破壊活動の日本のニュースを見てると、燃えるカフェとマクロンのスキーの話ばかり。経済への影響とかは面白くないから仕方ないけど、もう少し骨があっても良い。

ニュースもある種のエンタメではある。否定はしない。フランス人の同僚も日本の社会的課題はあまり報道されないからそんなものだと言う。そのとおりだろう。なんだかスッキリしないだけである。
そう言えば、先日の話題はずっと身近な課題であった…

(すこし長くなったのでこの続きは次回)