Bonne journée

Cross-cultural (1)

ここ数ヶ月の自分のツイートをみたら、案外たくさんクロスカルチャーなことを呟いていた。
なんどもフランスには来ていても、住んでいたわけでもなければ当然気がつく事も限られてくる。生活しているからこそくだらないことも気になり出す。そういうものだ。美味しかった食事もひと月もすれば慣れるというものである。やがて旅行だったら気にすることもないだろう些細なことが、生活に慣れたが故に鮮やかさを増して飛び込んでくる。

分かるんだが、やっぱり使う段になると妙なところで律儀だなぁと感じるゴミ袋のヒモ。フランスをはじめ、案外このパターン多し。

いや、どうでも良いのである。呟く理由なんてどこにもない。単にゴミを捨てたから新しいゴミ袋をセットしなきゃと思っただけなのだ。でも、セットすればゴミ袋のヒモは無視するわけにもいかない。無視しても良いが、疑問を持たないわけにいかない。だって、今まで日本でヒモなどついていないゴミ袋をずっと使ってきたではないか。資源にうるさいフランスが何故追加のコストを払うのか。(見たことがないとイメージがわかないかもしれないが、ゴミ袋にはヒモがついている)

なんでこんなに天気予報が当たらないんだろうと思ったが、当たらないと表現している時点でクジと同じ。どうせ降ったり止んだりと思っている時点で実は当たり。

天気予報が大雑把なのもやっぱり生活していれば気になってくる。旅行中なら避けようもないからどんな天気でも仕方ないが、生活してるのだから、天気が悪ければ用事を少し延ばすことも考えたくなる。用事を延期したところで、旅行ではないのだから乗るはずだった飛行機に遅れる事もない。そうなると天気が気になり出してくる。気になるというのに、フランス北部は霧と言われても何の判断材料にもならない。雲時々晴れ一時雨も結局はわからない。仕方なくフランス人に天気を聞けば、今日は晴れだと言う。3月のブルターニュの晴れの定義は「あまり降らない」。だから今日は雨である。

しとしと雨が降ったり止んだりの冬からジブレ(giboulée=驟雨)の3月になって、もう春だねという会話が弾む。でも結局雨の種類が違うだけじゃないか、というのは心にしまっておく。

ほらね、というわけである。で、ある日突然暑くなる。

あまりに気温が高いのでとうとうセーターもコートもやめたが、周りを見渡せばノースリーブとショーツという真夏スタイルからダウンのコートにマフラーまでバラバラ。ホントに自分の好きなように過ごす国。

だから周りを見渡しても意味はない。自分が感じる天気と気温に合わせるしかないのである。
フランス人が傘を持たなかろうが、ダウン着てる隣でポロシャツだろうが、一向に構わない。それで仕事がうまくいかなかったとか友達関係が悪くなったとか聞いたことがない。フォーマルな場(つまりは仕事じゃない)だったらジャケットくらい着ようよと言う話はあってもそうしろとは誰も言わない。そんなわけでか時に時間も超越する。つまりは年齢で服が変わる国でもない。

土曜の街の風景は日本とさして違わないが、真っ赤なシャツのおじいちゃんとか真っ赤なタイツのおばあちゃんとかが歩いているあたりは、やっぱり違うのかなと思わなくもない。

まぁ、かっこいいのである。もちろん生き方がであって、姿がかっこいいかどうかは個人差がある。正直、それはやめなさいと時々思わなくもない。若い連中に多いコスプレにもそう思うことがあって、その意味ではこちらも年齢とは関係ない。しかもフランス人の感覚だから肌の露出度まで忠実である。目のやり場に困る時は早めにその場を去るのが良い。彼らは気にしていない訳で、気になると思う側が勝手に気にしているだけのだ。だから仕方ない。彼らに悪気はないのである。

歩道いっぱいに広がって向かってくるおしゃべり3人組を仕方なく広いところで待ってあげたら、にっこり笑ってメルシー。何にでもお礼を言うのは良いが、小雨なんだからその前に少し道を空けてほしい。

小雨であっても雨が気になるならなんで傘を持たなかったの?という事なのかもしれないが、実際のところ彼らは他人はあまり気にしないからこんな事になる。この、他人を気にしないのと他人を気遣うとの間には、見方に大きなギャップがある。気にしないから気遣う事がないと言う話ではない。むしろ、他人を気にはしないが困っていれば助けると言う感覚である。他人を気にするが気遣わないというのとは対極にある。

お役所の受付カード取りに列に並んだが、フランス人が文句も言わずに列を作ったのは意外だった。でも、ベビーカーを押したマダムが後から来てしっかり先頭を譲ってもらっていたのは、いかにもフランスらしい。

待ってる間は列をはみ出したり友達と大声で電話したりと騒々しかった人々が、「こんなに混雑するとは思わなかったの。べべがいるから先に受付させて。」と言うマダムに誰ひとり文句を言わない。早く来ればいいだろうとは思っても、それに文句を言う事とは違うのである。これを価値観の違いと片付けるのは簡単だが、おそらくはそんな単純な話ではない。
車が来ようが赤信号でも交差点を渡る行為が、なんらかの価値観に基づくものとも思えない。単に待つのが面倒で、ちょっと車が途切れそうな気がしたから渡り出したか、自分が渡りたいから渡っているのか、そんなところである。フランス人ですら困っている。何かの核心的文化背景があってのことでもない。

混雑して待つ事が当たり前のレストランだから待たせないように一所懸命工夫するのは美徳だが、待たせるくらいなら断るのも良い文化。それでも待たせたら、とりあえずお詫びのひと皿が出てきたりする。

ただ、自己主張をしているばかりではない。夏の週末の夕方、まだ明るい20:00のレストランに予約もなく向かえば席が空いていないことも多い。だからといって無理を押して席を確保しようという事もない。空いていないものは仕方ない。来る前に電話一本入れて確認したというならまだしも、空いていないのはどうしようもない。「えぇ、本日は予約でいっぱいです。どうぞ次はあらかじめ予約なさって下さい。」と言われれば諦めて他を探すというものである。なんとか席を確保しますから待って下さいというのは聞いたことがない。ベストな状態で客にサービスするためには断ることも仕方ないというものである。
だからフランス人はなんでも主張するとか、サービスが不十分だとか、そんなことを日本人同士で話しているとちょっと的はずれなのかもしれない。

日本人と食事しながら「フランスあるある」で盛り上がったが、ふと周りを見て全員がフランス人なので少し焦った。周囲は変なテンションで盛り上がる日本人を見て、「日本人あるある」だと思っていたに違いない。

見えていない文化背景や個人の想いが行動の裏にはあるかもしれない。フランスにいる日本人は、日本語で言う「外人」なのかもしれない。
日本語の「外人」には「移民」とは少し違うニュアンスがあるが、フランスに住んでいれば文化的外人であると同時に、フランスという社会に住む「移民」としての外国人であることを意識せざるを得ない。滞在許可を得なければ不法移民になってしまうし、携帯電話の回線も契約できない。しかも、日本の様々な申請書が日本語で書かれているように、フランスの行政文書はフランス語である。挨拶ができる程度では歯がたたない。

珍しく行政関連ウェブサイトで英語が選択できたので英語に切り替えてある申請を行ったのだが、確認メールはフランス語だった。片手落ちだろうと思いつつ、英語を用意しただけえらいと思い直した。

フランスに住んでるんだからフランス語で話す努力をするのは当然である。フランスに住むからには話せて当然という考えもあるくらいだから、せめて努力くらいしなければならない。それでも通じなければ、何人かは助けてくれる人も現れる。しかも、若い人は英語を話す人も多い。なんとかなるというものである。そのためにもまずは努力は必須と言える。ただ、

英語でひとしきり話した後では « d’accord » (「了解!」とか「いいよ!」)なんて簡単な単語がでてこない。

少なくとも、挨拶くらいは英語より先にフランス語が出る程度になるべきだろう。だからちょっとした進歩が異常に嬉しかったりする。フランス語がある程度話せれば、新しい言い回しを覚えたとか新しい単語を覚えたというのが進歩なのだろうが、フランスに来たばかりだと、進歩はもっと原始的である。

広告のURLをみて、最後の «.fr» を「エフエール」と読むようになると一歩前進かな。5kg と言っているのに 3kg と聞こえるのは一歩後退だけど。

5はサンクだから、要は数字が日本語で聴こえているということである。よく英語で話す事に慣れていない日本の高校生が年号を言うのについそこだけ日本語で言ってしまうのに似ていなくもない。そんなものである。少しフランス語に慣れてくると次は冠詞が気になるようになる。フランス人の知人に言わせればleだろうがlaだろうが意味は通じるから、冠詞なんて後でいいそうだが、気になることには違いない。そもそも、a apple and a orangeで何が悪いと開き直ることなど許されない英語教育をうけてきたのである。

GAFAはフランスでも冠詞なしで « taxer GAFA » (GAFAに課税する)のように言うが、最近冠詞付の « les gafa » を見かけた。いよいよ一般名詞化してきたのかも。

まぁ、正直どうでも良い話ではある。こんなことが気になったところで、フランス語が話せるわけではない。それどころか、母国語でもない英語が話せるだけでだいぶ気が楽になるくらいだから、外国語は難しくて当然なのだ。世界中で母国語が使われるアメリカ人は、語学の難しさを理解しないなどと乱暴なことを言う人も多いが、あながち間違っていないのかもしれない。学生時代の英語学習の積み重ねとその苦労は、伊達ではないのである。

空港で久しぶりに美しい英語を聞いてなんとなくホッとした。しかも耳慣れたイギリス英語のアクセント。以前だったら英語で安心する事などなかったのに。

その点フランス人は外国語学習の難しさを多少は理解している。フランス人の知人と旅先で丸一日英語で話をしていたら、終いには「脳が砂糖を要求している」とぼやいていた。まだスペイン語の方が楽だそうだ。何しろフランス語とは姉妹だから、書いてあればだいたい意味がわかるとか。その点、英語は単語の違いもそこそこあるし、発音も違うし、脳をフルパワーで動かす必要があるらしい。日本語が母国語の自分からすれば、どっちも遠いのは同じなのだが。

フランス人の友人に、何か欲しい時にフランス語も分からずどうしてるのかと聞かれた。« ça » と言いながら指差す方法を教えてあげたが、ついでに「これ」と言いながら指差す方法も説明しておいた。

言葉なんてそんなものである。政治を議論するとか哲学を語るとか言うなら簡単ではないが、愛を語るなら案外容易なのだろう。まして、売る気満々の店員に買いたいものを伝えるのは、さして難しくはない。ただ、無意識に分かるようになるかどうかはまったく別の話である。車を運転していて視界の隅を通り過ぎた文字は全く頭に入らない。

ニュース(フランス語)を見ていて、背景の映像に書いてあることがみんな頭にすっと入ってくるので驚いたが、何のことはない、ゴーン氏のニュースで日本語の背景だった。

分かって当然である。母国語とはそんなものである。ただ未だにわからないのは美容院に行くと言った時の周囲の反応である。

週末は何をするのかと言うから、特別な予定はないから髪を切りに行こうと思ってると普通に答えたつもりだが、それは大変だねと心から応援された。 そんな大それたことという意識はなかったんだけど、考え直した方がいいのかも。

確かに髪を切って下さいというくらいは話せても、こんな風にしてほしいと伝えるのは簡単とは言えない。写真を持って行けと言った話もあるが、それ以上に常識の違いが大きいのかもしれない。今時はこんな髪型が普通だろうという共通認識が、至極当たり前だがフランスでの認識なのだから、思ったとおりにならないのは当然である。

先日とは別な人に週末はどうだったと聞かれたので、髪を切りに行ったと答えたら「そんな危険な事を…」と真顔で驚かれた。やっぱり大変な事をしてしまったらしい。元気でいるのは偶然なのかも。

こうなると、髪型以外に何かしら秘密めいたものがあるとしか思えない。もしかして、行ってはいけない美容院があるのか。いや、すべからく美容院は危険な存在で、今回は世間を知らない奴が来たから見逃してくれたのか。ひょっとすると、初めて行くときには特別な挨拶があって、それができないと帰って来られないという可能性もあるのではないか。

あまりに驚かれるので、髪の毛とんがってないし、今も黒いままでしょと念のため確認してみた。そのあとは、どうやってランデブーとったのかとか、どうやって髪形指定したんだとか根掘り葉掘り。

あぁ、やっぱり言葉が難しいことを心配してくれたのかと安心した次第である。良く聞けば、あまり上手ではない美容師さんもいて、思った髪型にしてくれるところを探すのは、フランス人でも案外大変だそうだ。ひとりで探してひとりで行くのは無謀だということらしい。そんなこともないと思うのだが。
難しいといえば、デモを見分ける方がずっと難しい。デモは日常的に行われているから、特段特別なものでも危険なものでもない。ただ、それが暴徒化するかどうかは全く分からない。フランス人も分からないそうだから、分からないうちは遠巻きにして静かに離れた方がいい。フランス人の知人は催涙ガスにやられて酷い目にあった。レストランから帰ってきただけなのだが。

面白いのは、それ以外はいたって平穏で、警官隊の封鎖の外側で子供たちも普通に遊んでいるし、初夏のような午後をカフェでおしゃべりしながら楽しむひとがいっぱいな事。デモ慣れしすぎかも。

だからレストランの帰りに催涙ガスにやられたりするのだが、大抵の場合には暴徒化しないし、デモが身近にあるから社会の課題も身近に感じられるというものである。保育士さんの保険がどうのこうのと言ったかと思えば、違うデモではジレジョーヌのデモに反対というデモがある。どちらも声を張り上げて主張を繰り返しているが、どこかピクニックの気配もないではない。それを市民が遠巻きに聞いている。そうやって、社会の課題が共有されるのである。主義主張が正しいかどうかはこの際関係ない。それで議論が起きることが健全なのである。

ジレジョーヌ(黄色いベスト)デモに便乗した破壊活動の日本のニュースを見てると、燃えるカフェとマクロンのスキーの話ばかり。経済への影響とかは面白くないから仕方ないけど、もう少し骨があっても良い。

ニュースもある種のエンタメではある。否定はしない。フランス人の同僚も日本の社会的課題はあまり報道されないからそんなものだと言う。そのとおりだろう。なんだかスッキリしないだけである。
そう言えば、先日の話題はずっと身近な課題であった…

(すこし長くなったのでこの続きは次回)

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