先週末(2013/3/10)の煙霧は、空だけでなくWeb上もあっという間に覆い尽くしたが、Wikipediaで見たら不思議なことにhazeとあった。つまり、靄(もや)であると。それなら当たり前の気象だと一瞬納得したが、いろいろと調べてみたら、エアロゾルと書いてあったり北関東の乾燥した土ぼこりだとあったりと、どうも不明確である。要は、気象学的には煙霧と分類される「何か」ということだ。すぐ先まで黄色い世界で見えなくなったから小松左京の「首都消失」を思い出して変な気分だった。原因がわからないと気持ちが悪いものである。
一方、春は確実に本番となった。ソメイヨシノもちらほらピンクの花弁が見えてきたし、他の種類の桜も幾つか咲き始めている。こうなると散歩が楽しい。横浜で海を見ながらアート鑑賞などはどうだろうかと思いを巡らす。
そう思いながら、どういう訳か、渋谷にルーベンス(Peter Paul Rubens)を観に行って来た。渋谷駅からBunkamuraまでのコースは、到底春の散歩コースとは程遠い雑然とした色のフラッシュだが、ある種、季節感のない混沌が渋谷の個性ということだろう。皮肉屋のフォーヴィスム(Fauvisme)の画家が印象派スタイルで画いたらこんな絵にもなりはしないかなどと考えながら風景を眺めた。写真で見たエキサイティングな渋谷の交差点を自分の眼でも見たいというのでフランス人を連れて行ったことがあるが、もはや渋谷はブレードランナーの映像すらも超えたところがある。 Continue reading “Bonne journée (13)”
Author: tanu
A Book:マッチ売りの偽書
湧き上がるイメージを手当たり次第書き殴る。そうしないとこぼれ落ちてしまいそうだから、書き殴る。吹き付けてくる言葉を逃げることなく受け止め、丹念に記録する。自分の他にそうするひとがいないから、記録する。手当たり次第。手身近にあるかけそうなもの全てに。ノートに、広告の裏に、折れ曲がったクリネックスの箱の余白に、記録できそうなら何でも。スマートフォンに、手の甲に、机に、留守番電話に、時計に、。。。
あまりの言語の重さに、それはやがて自壊する。慌てて拾い上げようとすればするほど、混乱し、デタラメに散らばり、笑みがこぼれ、地滑りが起きる。記録された言葉は再び流れ、新たな意思を得る。
【返歌】 空間に散らばった言葉を正確に位置付けるには、3次元座標系が必要である。xyzで表されたその位置を容易に取り扱うには、直交座標よりも極座標が好適とされる。すなわち、自分からの距離rと偏角θおよびψにより言葉は位置付けられる。しかしながら、より正確には、言葉は3次元連続体とすべきである。言葉は空間を漂い、(r, θ, ψ, t)の4つの次元に捕らえられている。言葉は、観測者である自分と他者の間に相対化され、その速度の差によって意味が変化する。
拾い集めた言葉の一部は、やがてもとあった場所に帰って行く。
「裏側にお回りください。」
ただ、元あった場所がどこか正確に覚えていない。それぞれの記憶に従って、あるべき場所に戻る。だから正確であることは期待できない。もしかすると最初から夢だったのかもしれないし、ノートに書き記しておくべき事だったのかもしれない。
「裏側にお回りください。」
何モカモ曖昧ダトイウノニ書かれた文字は頑なに在り続ける。否定しても、肯定しても、そうした判断を超えて在り続ける。やがてインクが、紫外線のとらえどころのない痛みと世界から忘れ去られた眠気の中で薄れていくとしても、在り続ける。
「入口はこちらではありません。」
どこが前でどこが後ろなのか、ねじ曲げられた時空間。時空間がねじ曲がっているのか、我々がねじ曲がっているのか。自分だけがねじ曲がっているのか。
「明日には復旧します。」
見覚えのある音の連鎖。新たな色彩の断絶。
【返歌】 2月1日 金曜日。晴れ。最低気温1度。無風。午後から風が強まり、3月下旬頃の気候となる予想。乾燥した日々が続いたせいか霜柱も成長しない。時計を確かめるが、秒針はいつものように正確に動いている。同じ方向に回り続けている針。静止する文字盤。無風。シデコブシ、ミツマタ、銀の毛虫がすべての枝にまとわりつく。銀の卵。真冬、停止する朝。
娯楽の要素が強い映画ですら人によって感じ方が異なるように、言葉で描かれた世界は、それ自体で充分な柔軟性を持っている。イマジネーションなのか単なる虚無的な遊びなのかは、受け止める人によるだろう。自然界の摂理と決定的に違うのは、まさにこの点にある。どれほど言葉を尽くしても、一意に決まる心象など存在しない。受信者によって受け取るものが違うなら、多少正確さを欠こうが、自己にとって正しければ良いというのは、表現にあっても傲慢か。それとも自己満足か。
そのどちらでもないのだろう。何かを表現しようともがけばもがくほど言葉は粉々になり、原型から遠ざかって行く。どこかバランスの良い適当なところで表現を止めれば一見豊かにも感じられる表現を得るだろうが、それが求めるものとは限らない。だから、言葉をつくす。そして、時に地滑りを起こす。
地滑りを起こした言葉の列は、ジャクソン・ポロックのような全体の調和の中の混沌ではない。おそらくは、計算されたアクション・ペインティングとは違って、緻密に準備されたものでなければならない。地滑りを起こした言葉の列は、ジョルジュ・ブラックのような粗野な調和ではない。おそらくは、調和した世界に垣間見得る乱暴さである。マッチ売りの偽書には、調和と混沌が同居している。
今は記憶も曖昧となった昔のことであるが、物書きがしたい者同士が好き勝手に書き込むノートが置かれていた。今であれば、Twitterかblogかそんな物である。そこに、何かを表現する手段は言葉でも映像でも音でも舞台でも色々とあるというのに、何ひとつ上手く表現できないと書き込むと、最初の反応は真向から反対するものだった。曰く、表現したいものより表現する手段が多いわけではない。表現する手段は不完全でむしろ足りないのだと。強ち間違ってはいない。だが、それは逃げでもあるだろう。マッチ売りの偽書において、我々は試されている。
【返歌】 大気の重みに両肩は耐えきれず、宇宙どころか街角の空間に矮小化されながら、あなたはゾウに踏みつけられた蟻となる。
踏みつけられながら、ビルの空気をかろうじて循環させるコンプレッサーがブツブツと不平を言うのを聞いている。
かろうじて難を逃れた他の蟻は、嘲笑っているわけでもない。無言で空気を吸って吐いているだけだ。
遠い未だ見ぬインドの記憶。やがてゾウはその古代遺跡のように輝く足を上げる。
何ひとつ変わらない大気と光。
地滑りを起こす言葉のイマジネーションと群衆の孤独と微かな希望の狭間で、中島悦子は今も漂流を続けている。
最近読んだ本
マッチ売りの偽書 (思潮社)
中島 悦子 著
十字軍騎士団 (講談社学術文庫)
橋口 倫介 著
Bonne journée (12)
le carrousel
ヨーロッパの街には広場が多い。旧市街の狭い街並みを抜けるといきなり視界が開け、石畳の賑やかな空間が現れたり、新しい街並みが伝統的な様式で広場を備えていたり、生活の中で重要な場所となっている。オープンカフェでくつろぐ人や古本を物色している人を見ていると、そんな環境が羨ましいと思うと同時に、実は、街には必要な機能なのではないかと感じてくる。ある時には、やけに小さなハープを奏でている若い人がいて、ストリートミュージシャンもヨーロッパだとこうなるのかと妙に感心したりもしたが、聞いたところ、地元に昔からある伝統楽器で伝統音楽を伝えるグループの練習ということだった。日本だったら、さしずめ、なんとか太鼓の保存会といったところか。もちろん、若い人はロックだったりするのが普通だろうが、そういったエネルギー系の音楽は、夜遅くなってからがメインである。 Continue reading “le carrousel”
Bonne journée (11)
寒いと熱いコーヒーが欲しくなる。夏でもホットコーヒーを飲みたいほうなので冬に限ったことではないが、寒い中で暖かくして飲むコーヒーは格別である。淹れたてのコーヒーの香りの甘さと苦味が一層強く感じる瞬間が心地よい。
グレイラインのバスに乗っていると、バスストップにあるコーヒーサービスで水筒サイズのカップにたっぷり補給するちゃっかり者を見かけたりするが、あれはコーヒーが妙に薄いからできるのだろう。フランスだと、特に注文をつけなければ濃くて香りの強いコーヒーが出てくる。もちろん量は少なめだ。だが、皆が濃いめのコーヒーが好きなのかと思いきや、そうでもないらしい。薄くしてくれと頼んだり、カフェインを抜いたデカフェを頼んだりする人も多い。大抵エスプレッソが置いてあるあたりは強いコーヒーが好きな人が多いということだろうが、もはやステレオタイプな見方なのだろう。シアトル系コーヒー店がほとんどないのはおそらく別な理由だろうが、従来型の見方は当てはまらないと考えた方が良さそうだ。ちなみに、コーヒーを最も飲む国はフィンランドだそうである。これまた、日本人が抱くイメージとは少し違うかもしれない。 Continue reading “Bonne journée (11)”






